サンドラ
煙草は嫌いだ、と言っていた頃が懐かしいと思った。あのときは俺も若く、この世界が綺麗なものであることを疑っていなかった。世界はきっと良い方向に向いてると信じていた。
ふう、と煙を吐く。肺に一杯、ヤニの匂いが広がった。不味いくせに、病み付きになってる。財布事情も良くないのだからいい加減吸う本数を減らそうと思っているのだが、これがどうもやめられない。こんな体たらく、誰にも言えないな、と一人ごちた。
携帯灰皿に、灰を落とした。そこには今日吸っただけの煙草が積もっていた。それを見てため息。足はやに喫煙所を出る。仕事終わりの一服は至福の時だったが、どうにも最近は後味が悪くてよくない。
「北瀬、今日は上がりか?」
デスクに戻ると、ラクダ柄の上品とは言えないネクタイを緩く占めている上司であり課長の福間さんが俺を呼び止める。軽く会釈する。
「まあそうです。福間さんは?」
「芹島のやつがヘマしたんだよ。相手さんがカンカンでな。ったく、困ったやつだ」
俺の職業は大手アンドロイドメーカーであるデュナミスの顧客部である。その本来の業務は顧客のクレームを聞き、次の商品に繋げて行くことである。しかし昨今は、アンドロイドに関連するクレームは多岐に渡り、法的紛争にまで発展することが出てきた。その上、法律では対処できないことも多くある。それは急速に成長した科学技術と、人間の愚かさのせいである。アンドロイドが普及して間もない時代だ、仕方ないのだろう。
俺たちは本来の業務ではないがそうした問題の現場に立ち会い、解決することが多くある。事実として、俺の今日の仕事は世間で言われる「アンドロイド案件」、通称『MOA』と呼ばれるものだった。
「はは……では、俺はこれで」
「おう、お疲れ」
福間さんはそう言って、書類に目を落としたが、すぐに顔を上げた。
「っとと、ちょっと待て」
「はい?」
「お前に仕事だよ」
残業か、と思いながら渋々と福間さんのデスクに近づく。これは煙草の本数も増えそうだ。
「何ですか?」
「うん、まあ変な仕事で申し訳ないんだけど……」
変な仕事、と言っても大抵が変な仕事である。そもそも、クレームとはこちらの想定内のものである方が少ない。特にアンドロイド案件は、毎度のことながら頭を抱えるものだ。
「開発部で主任をしている雪畑という男がいるんだがね、彼が君を呼んでいるんだ」
「俺をですか。何かありましたかね」
「よくわからない人だからなあ。とりあえず、社員食堂まで行ってみてくれないか?」
「社員食堂か……」
こういうことは会議室でやるもんじゃないのかな、と思いながらも、相手は仮にも部署の長だ。従わないわけにはいかないだろう。
とりあえず福間さんに頭を下げ、カバンを持って階下へと降りる。高層ビルの丸々ひとつがデュナミスのもので、その社員食堂と言えば、有名シェフの料理をアンドロイドによって再現されたものが安価で提供されるとしてニュースで持て囃されたことで有名になっていた。昼食時は俺もよく利用する。俺としては、調理するのはアンドロイドでなく自動調理機器ともいいと思うのだが、そこは会社の威信などがあるのだろう。
夕飯前であるが、社員食堂は賑わっていた。そこでは複数の社員が相談しながらコーヒーを飲んでいたり、またある人はタブレット端末を眺めてゆっくりしたりしていた。会社見学だろうか、社員証ではなく許可証を首からぶら下げている者もいた。このスペースはアンドロイドの試験運用も兼ねているので、購入を検討している者がいることもある。
「ご注文はお決まりですか?」
接客用アンドロイドの一機が、近づいてきた。俺は短く「コーヒー、ミルクと砂糖をひとつずつ」と注文する。
「開発部部長の雪畑様がお待ちです。個室ブース三番へどうぞ」
席の案内がされる前に待ち合わせをしていることを伝えようとしたが、アンドロイドはそれを先回りした。俺の社員証を読み取ったのだ。視線がわずかに下に向いていた。
言われた通り、社員食堂の端に設置されている個人ブースへと向かう。ここを使えるのは、さすがは主任だということだろうか。
途中、様々な匂いが混じり食欲という誘惑に駆られたが、個室ブースの前に着くと仕事だと切り替える。茶色い敷居の向こうは、仕事場なのだ。ふう、と息を吐いて扉を開けた。
「やあ、いらっしゃい。君が北瀬悠理くんだね?」
フランクな声、ちょっと生えた無精髭、丸メガネ、白衣。雪畑、という男は、研究職のイメージをそのままにしたような男であった。俺は呆気にとられながらも、「北瀬です」と言って軽く会釈だけした。
テーブルの上には、彼の食べかけであろう巨大なパフェが置かれている。見るだけで胸焼けがしてしまいそうだ。
遅れて、彼の隣に視線を転じる。驚くべき美貌を持った少女がそこにいた。美少女なんていう言葉は陳腐だろうが、その言葉を当てはめるのがふさわしいだろう。金色の髪に、深海を思わせる瞳。目鼻立ちははっきりしていて、どことなく儚い雰囲気がある。少女は顔の向きをこちらへ向けた。視線がぶつかる。
「ふふふ、この子に見惚れているのかな?」
俺の視線に気づいたのか、雪畑さんは意地悪く笑った。愛想笑いを浮かべて、俺は雪畑さんの対面に座った。
「そちらはアシスタントのアンドロイドですか?」
「ほほう、この子がアンドロイドってわかるなんてね」
アンドロイドであることがわからない、ということはほとんどない。もちろん動かない状態のアンドロイドは普通の人間と見分けがつかないくらいであるが、その挙動には未だ不自然さが抜けない。表情の変化はわざとらしいし、受け答えも定型であることが多いからだ。
俺がこの金髪の少女をアンドロイドだとわかったのは、あくまで勘である。視線が合ったときに、なんとなく思っただけだ。
「いやあ、僕の同僚は愛人だなんだとか言ってきてね。中には『援助交際は犯罪ですよ』なんて言ってくる人までいて、困ったものだよ」
「はあ」
それはエンジニアとしてどうなのだろう、と思いながらも頷いた。すると少女型アンドロイドは、雪畑の肩をつつく。その動きは確かに、アンドロイドとは思えないほどに滑らかだ。
「用事を忘れないで」
「ん、ああ、そうだね」
促された雪畑はごほんと咳払いをすると、ニコニコとした笑顔を浮かべたまま仕事の話を切り出した。
「さて、君を呼び出したのは、しばらくこの子の面倒を見て欲しいからなんだよ」
「面倒を見る、ですか」
それは奇妙な話だ。アンドロイドは人間の面倒を見るように作られているのだから。俺は首を傾げる。
「そうだよ。この子……名前はサンドラって言うんだけどね、まだまだ未熟でさ。経験が欲しいんだよね。それでこの子の面倒を見る役を探してたんだけど、適任者を社員データベースで探したら君がヒットしたわけ」
「ま、待ってください!」
俺は思わず大きな声を出した。外には響いてないだろうが、この個室で出すには大きすぎる。
「サンドラの開発目的だとか、あるでしょう? それに俺が合致してるなんて思えないんですけど。俺は顧客部ですし」
「ううん、お願いというのはね、ただ君のそばに置いてくれるだけでいいんだよ。もちろん仕事や家事で扱き使ってくれてもいいし、なんなら愛人にしてもいいよ」
「そんな趣味はありません」
「おっと失礼。まあ、とにかくこの子を預かって欲しいんだ。君の職務や環境、交友関係、人格診断すべて含めて君が妥当だと判断されたんだ。もちろんお給料もアップアップ! どうかな?」
「あっぷあっぷはダメだと思いますが……」
本来ならば歓迎すべきことではある。給料も上がるし、タダでこんな高級機がもらえるのだ。見たところ、サンドラは現時点で販売されている現行機アンドロイドの数世代先を想定して作られている。雪畑さんの言い分を信じるならば、サンドラはあらゆる分野へ通じるネットワークを持っているのだろう。サンドラというアンドロイドを買うのももちろんだが、そうした技能を持つためにクラウドサービスの契約し多額のお金を払わなければならない。
だが俺は、どうにもこの話が胡散臭くて仕方なかった。こんな都合の良い話があるのか。そもそも、ここまでの高性能機が開発されているなんて聞いたこともなかった。
コーヒーが運ばれてくる。俺はそれを一口含んだ。鼻腔に香りが広がり、苦味が口内を満たし、胃に温かいものが流れてくる。雪畑さんは満面の笑みでパフェを食べ進めていた。
少しの逡巡の後、俺はサンドラを見た。日本では日本人型のアンドロイドが多い。サンドラは国内で生産されたにしては異色である。
サンドラはなぜか、俺をじっと見ていた。それは俺の知るアンドロイドからはかけ離れていた。命令を与えられていないアンドロイドは、決められた作業をするか、ボーッとしているように見えるスリープ状態になっているかのどちらかである。それに引き換え、サンドラはどうだ。まるで俺の様子を伺っているように見えた。
「わかりました、引き受けます」
「本当かい? いやあ、嬉しいね!」
飛び上がるようにというか、事実飛び上がって喜んだ雪畑は俺に固く握手をした。
「いやあ、もうすでに君をこの子のマスターとして登録したから、断られたらどうしようかと」
「は、はあ!?」
勝手に登録するのは、職権乱用である以上に犯罪である。が、結局引き受けたし、会社の人間といざこざを起こしたくはない。
「じゃあサンドラ、以降は北瀬くんに従うように」
「わかりました。よろしくお願いしますね、マスター」
サンドラが微笑む。天使のような笑みは、あどけない少女を思わせた。俺はコーヒーを一気に飲み干して、立ち上がった。
「それでは、今日はこれで」
「うん、重ね重ねありがとうね。データは随時、サンドラが送ってくれるから」
「わかりました。貴重な機会ですので、楽しくやらせていただきます。サンドラ、行くぞ」
促すと、サンドラは頷いて立ち上がり、俺の隣に並ぶ。その動きは俺が知る、所謂「女の子」そのものであり、まったくもって不自然さを感じなかった。むしろ、サンドラをアンドロイドと思うことに違和感を感じそうだとすら思った。
頭の中で「馬鹿なこと言うんじゃないの」という声が聞こえた気がした。俺はまたため息をついて、個室ブースから出た。