70.ひそひそ、婚約者邸
「よう、青蓮」
名前を呼ばれて振り返る。そこには、相変わらずつんつるてんの古い服を着た院長先生が立っていた。
あれ、でもここ、家の玄関だよなあ。何で院長先生、こんなところにいるんだ。
「院長先生、帰ったんじゃあ」
「帰ってるよ。けどなあ、どうもお前さんのことが気になって」
がりがりと頭を掻くのは、うん、間違いなく院長先生だ。っていうか、じゃあ何をしに来たんだろ、この人。
俺、この歳になっても迷惑というか心配掛けてるなあ、と思いつつ先生をガン見する。
そうしたら、院長先生は何かを思い出したように、俺に向き直った。
「あー、シキノの忍びには気を許すなよ。基本的には大丈夫だけど、トーカの懐刀だった奴がいるはずだ」
「へ? あ、はい」
忍びって、忍者マジでいるんかい。つーか、トーカさんのふところがたな……って、要するに近い部下だよな。ヤバイじゃねえか、それって。
と、ともかく気をつけろってことだな。うん。
「んじゃ、またな。朝だぞー」
言いたいこと言って満足したのか、にかっと笑った院長先生にどん、と突き飛ばされて俺は、ふかふかの布団にばふりと受け止められた。
「っ!」
がばっと跳ね起きたら、ベッドの中。いつも寝てるベッドじゃない……のは、ここタイガさんちだもんな。よし、うっかり忘れて雄叫びあげてたら偉いことになっていた。
はー、と息を吐いたところで、衝立の向こうからひょっこりと顔を覗かせたオリザさんと、目が合った。あー、既に鎧戸開いてんのか。俺、よく寝てたなあ。疲れてたのかな。
「あ。セイレン様おはようございますー。夢でも見られましたかあ?」
「………………あ、おはよう」
オリザさんの声は分かりやすくて、俺が現実復帰したことをはっきり教えてくれる。
というか、院長先生、夢か。前にも見たことあるけど、よっぽど俺、心配されてるのかね。それとも俺が、気にしてるのか。
ぽりぽり髪を掻いてると、アリカさんも顔を見せる。リビングスペースと壁で仕切られてるわけじゃないから、すぐに見えちゃうんだよなあ。ま、いいけどさ。
「おはようございます、セイレン様。すぐに湯をお持ちしますね」
「おはよう。よろしくー」
寝室でお湯持ってきてもらって顔を洗うのが、すっかり習慣になってしまってる。施設にいた時はタオルと歯ブラシ持って洗面所まで行って、冷たい水で洗ってたのになあ。
施設、か。そういえば院長先生、夢で何か言ってたなあ。夢で言ってることって、現実でもあるのかね。
「あー、オリザさん」
「はい、何ですかー?」
「あのさあ、夢で伝言とかってできるの?」
「はい?」
俺付きのメイドさんで一番魔術に詳しいのは、すっかり勉強するのが楽しくなってるっていうオリザさん。なので、彼女に聞いてみるのが一番だと思ったんだ。
そしてそのとおり、彼女はすぐに答えを出してくれた。考えるの、ほんの一瞬だけだったぞ。
「あ、ありますよ、そういった魔術。でも、上手く言葉伝わらないとかそういうことが多くて、実用化には至ってないみたいですけどー」
「そっか。ありがとう」
「いえいえー」
なるほど。
……しかし、うちにいる魔術師ってジゲンさんだからなあ。ふぉふぉふぉと笑いながらやらかしててもおかしくないや。そのくらいにはチートな実力持ってる、ってことくらいさすがに分かるよ。たった18年で、よその世界で男として暮らしてた俺を見つけて連れ戻せたんだから、な。
さて、何で俺が変なことを尋ねたのか、さすがにオリザさんも分かった模様。首を傾げて、尋ねてくる。
「そういう夢、だったんですか?」
「多分。院長先生出てきてさ」
「あー」
頷いてそう答えたら、オリザさんは一言だけを口にした。いやまあ、他に何言えって話だよな。
で、会話が止まったちょうどその時に、湯入りの桶とタオルを持ってアリカさんが戻ってきてくれた。あ、ちょっとほっとした。
「お湯をお持ちしました。どうしたの? オリザ」
「あ、アリカー。あのね、セイレン様が夢見られたんだって。あの、トーヤ様の」
「え、あ」
妙な空気に不思議そうなアリカさんの問いを、オリザさんが軽く噛み砕いて答える。トーヤ様の、って部分はオリザさん、ひそひそ声になっていた。
まあ、さすがにシキノさんちとは言えタイガさん以外の人にあんまり聞かれたくない話、だもんな。大体、表向きにはトーカさんがトーヤさんのまんまなんだから、あの人の夢を見たって思われても困る。こう、ものすごく困る。
だから俺も、アリカさんにそばに来てもらって小さな、小さな声で告げた。
「夢でな、言われたんだ。シキノの忍びに、トーカさんの部下な人がいるから気をつけろって」
「……あり得ますね」
「ですねー」
だよねえ。
夢で伝言できるかどうかはともかくとして、シキノさんちの使用人さんにまだトーカさん寄りの人が残っててもおかしくはない。この際忍者がいるのかどうかはあっちに置いておく。ってか、アリカさん何とも思ってないみたいだからいるんだろうな、忍び。
「セイレン様、くれぐれも注意なさってくださいね」
「分かってる。皆も、頼むな」
「はい。ミノウにも伝えておきます」
「うん。ところでミノウさん、どこ行ったんだ?」
「あー、お洗濯物を出しに行ってますー」
「……お世話になってます」
そりゃ、洗濯は必要だからな。夏と同じく、必要最低限の荷物しか持ってきてないし。
ほんと、皆にはお世話になってる。
で、戻ってきたミノウさんとともに朝の準備を済ませて、朝食のために食堂へ。今日もフブキさんが来てくれて、道案内をしてくれた。
食堂の前で、サヤさんと一緒にやってきたタイガさんと顔を合わせた。あ、良かった。朝ご飯、一緒に食べられるんだ。
「おはようございます、タイガさん」
「おはようございます、セイレン様。今朝も可愛らしいですね」
「朝からそんなこと言わないでくださいよ。まったくもう」
ええい、朝も早くから何を言ってるんだこの人は、毎度毎度。
なんてことを考えてたので、別の足音がしたのに気がつかなくて。
「姉さま、兄さま、おはようございます。愛を語るのは姉さまを娶ってからでも遅くはないでしょう、兄さま」
「へっ!?」
おう、いきなり背後から声かけられたら驚くだろう、サリュウ。
慌てて振り返ると、ムッツリ顔の弟がメイドさん引き連れて仁王立ちしていた。マキさんとカンナさん、それにもう1人大柄の、ふわふわ髪をツーテールにしてるトキノさん。この3人が、サリュウ専属のメイドさんである。
こっちはミノウさん、アリカさん、オリザさんだから、大中小の3人組って決まりでもあるんだろうか。
「あ、お、おはようサリュウ」
「おはよう、サリュウ。何を言うか、今からでも早くはないのだぞ」
「見てるこっちが恥ずかしいんです。ぶっちゃけて言いますが、人前でべたべたいちゃいちゃしないでください、いい大人が」
あー。まあそうだよなあ、いくら身内でも、人前でいちゃこらしてたら見てるほうがこっ恥ずかしいよなあ。いや俺も恥ずかしいんだけどさ。
でもその辺、タイガさんにはいまいち分からないらしくて、平然とした顔のまま返してきた。
「そうか。サリュウ、お前羨ましいのだな?」
「だ、誰がですか! 姉さまに会うまで女運に恵まれなかったとか言ってたの、兄さまですよね!」
おいあんたら、何の話をしてるんだ。いつの間にか俺、置いてきぼりだけどまあいいか。
さてどうしよう、とフブキさんに救いを求め……って、いないし。アヤトさんやマイトさんじゃないけど、気配消せるのか彼女は。
困ってサヤさんに視線を向けたら、彼女は大きく頷いてくれた後、どしんと一歩踏み出した。
「タイガ様、サリュウ様。セイレン様が呆れておいでです。それと、ご兄弟の語らいはお食事の後になさいませ」
「す、すまん」
「ごめんなさいっ」
怒鳴るわけでもないサヤさんの台詞に、兄弟2人して小さくなってるよ。こうやって見るとタイガさんも、サヤさんにはいろいろお世話になってるみたいだな。
サヤさんはふう、と1つため息をついて、それから俺の方を見て、言った。
「……女性を臆面もなく褒めるタイガ様なんて、初めて見ました」
はい?
俺、割と最初の方から褒められてなかったっけ?
うわ、意外。マジかよ。
「あれ、素じゃなかったんですか?」
「あまり、女性には興味を持たれてなかったようですので」
「そうなんですか……」
……そりゃ、あの年まで独身だよ。しょっちゅう街中行ってるくせに女に興味ない、って思われてるってことはナンパとかそういうのやってないってことだろ。お見合いとかもあっただろうにさ。
それで、タイガさんのお眼鏡に適ったのが俺、ってか。見る目あるのかないのか、よく分からねえよ。
「サヤ……私を何だと思ってたんだ」
「紛れもないシキノの後継者たるお方、ですが」
「あ、ああ……」
困った顔のタイガさんに、サヤさんは無表情のままそう返してみせる。あー駄目だ、タイガさん絶対サヤさんには勝てない。
いやまあ、そういう人がいてもいいんだよな。うっかり暴走した時に止めてくれる人、だってことだしさ。




