59.おわかれ、院長先生
朝食が一段落して、お茶が運ばれてきた。俺が最初に飲んだ種類のお茶で、実はこっちの世界では一番ポピュラーなやつ。院長先生は「おー、懐かしいなこれ」と笑いながら口にした。
父さんは一口お茶を飲んだ後、タイガさんをまっすぐ見た。
「タイガ殿はこれから帰って、すぐ当主継承の届けを出さんとな」
「はい。手続きなど大変だと思いますが、頑張ります」
届けとか手続きとか、いるんだ。そういうお役所があるのかな、なんて事を考えてたら、院長先生がカップを置いて小さく溜息をついた。
「領主としての仕事の前に、当主として家ん中の掃除が必要だろうな」
「そうねえ。30年も経ってたら、シキノの使用人はほとんどトーカ殿の息のかかった者ばかりでしょうし」
「側近のサイガを外すとなると、今後の屋敷の運営も大変であろう」
あー。母さんや父さんの言ってること、何か分かったような。
時代劇なんかでよく見るお家騒動って、黒幕とその回りの手下をずんばらりんとやっつけた後は大概ナレーションで終わっちゃうんだけど、実際はそうもいかないわけで。後片付けとか、大変なんだろうなあ。
特に今回の場合、こっちでトーカさんとサイガさんをしばきあげたのはいいけど、シキノの家にはそれ以外の部下とか残ってるだろうし。タイガさん、大丈夫なのかな。
ちらっと顔を見てみたら、平気そうに笑ってる。そうしてタイガさんは、院長先生や両親に「大丈夫ですよ」と頷いてみせた。
「重要な部分はそうですが、私にも若いですが有能な部下はいます。それに、古くからいてもサヤのように私どもについてくれる者もいますから」
「サヤ?」
「僕の乳母をやってくれたメイドです。カヤの妹の」
「あ、話は聞いたことがある。そうか、サヤさんっていうんだ」
サリュウが教えてくれて初めて、俺はカヤさんの妹さんの名前を知った。そっか、まだシキノの家にいるんだ。
妹さんがサリュウの乳母だったこともあって、カヤさんはサリュウびいきだ。3ヶ月以上経った今でもそれは変わってないけど、俺が跡継ぐ気皆無なのはカヤさんも分かってきたみたいで、あんまりきつくは来なくなっている。
いやまだ厳しいとこあるけど、あれは多分、シーヤの娘としてよそに行くのに恥ずかしくないようにってやつだと思う。オリザさんなんかは「カヤさん厳しーですー」ってたまに拗ねてるけどな。
でも、あのカヤさんの妹さんがタイガさんの味方なら、何か大丈夫な気がする。根拠ないけど。
「ええ。サヤもおりますし、セイレン様をお迎えするまでにはシキノの家を綺麗に掃除しておきます」
「頼むぜー? ピカピカにしといてくれよ、タイガ」
だーかーらー。
平然とそんなこと言っちゃうタイガさんも、当然のように答える院長先生もどうにかしてくれよ。ったく、お茶のカップで顔は隠せねえんだぞ。
父さんも母さんも楽しそうに見てるしさあ。かんべんしてくれよ、ほんと。
「新しい当主の、お手並み拝見と行こうか。何かあったら、出来る範囲で力になろう」
「そうね。サリュウを預かっている関係もあるし、ちゃんと協力するわ」
「ありがとうございます、モンド殿、メイア殿」
「いやいや。今日のところは、トーカ殿の護送にユズルハをつけよう。事情はあれに伝えてあるし、書類も渡してある。使ってくれたまえ」
「はい。では遠慮なく」
父さんの気遣いに、タイガさんは嬉しそうに笑って頭を下げた。ああそうか、こっちで起きたことの細かいこととか、向こうに持っていかないとな。
お茶の時間も終わりかけたところで、院長先生がくるりと室内の皆を見渡した。何かすごく普通のことを言うような口調で、一言。
「んー。俺、そろそろ帰るわ」
「え?」
唐突に何言い出すんだ……って思って、俺も含めて皆が院長先生に視線を集めた。帰るってどこへ……って、シキノの家、じゃなさそうだな。ってことは。
「帰るって……もしかして、あっちに、ですか?」
「おう。昨日の今日ならつなぎやすいって、爺さんも言ってたしな。また世界探すのに一苦労させるのも何だしよ」
院長先生の言ってることはよく分からないけど、要するに早いうちの方が向こうの世界には帰りやすいってことかな。だから、さっさと帰る、と。
……向こうの世界、か。
俺は帰れない、な。何しろ向こうの皆は男の俺しか知らないし、帰る意味も……ない、よな。
それに、タイガさんがいるし。
「トーヤ殿、こちらに残らないの?」
「いやだって、シキノには新しい当主がいるし。俺、あっちで30年も暮らしてっからいろいろあんだよなあ」
母さんの問いに、院長先生は肩をすくめてみせる。
そうだ、俺、院長先生の施設で育ててもらったんだもんな。俺は家に帰れたけど、あの施設にはまだ子供たちがいるはずなんだから。
「ああ。そういえば、施設の皆元気ですか」
「おう、元気も元気。あ、お前のことはちゃんと、生まれた家に帰ったってことにしてあるから。事実でよかったよ」
「施設、ですか?」
あー良かった。院長先生、俺のことちゃんとしてくれてたんだ。ほっとしてる俺の横から、サリュウが問うてきた。そうだ、施設のこと知ってるのは俺と院長先生だけだもんなあ。ちゃんと言わないと。
「俺みたいに親のいない子とか、事情で親元で暮らせない子どもたちを預かる施設があって。そこの院長先生なんです」
「俺があっちの世界で世話になった人がやっててな。そのまま引き継いだんだ」
俺の説明を引き継ぐように話して、笑う院長先生。皆、それでああ、と頷いた。もちろん、俺も。
そういうことだったのか。だから院長先生、いろんな問題起きた時に一所懸命になって施設を守ろうとして。
俺、ほんといい人に育ててもらったんだなあ。
「ま、そんなわけでその子どもたちほっとく訳にゃいかねえんだよ。悪いな」
「……いえ。そういうことなら、しょうがないですわね」
「セイレンをこんな良い子に育ててくれたトーヤ殿のことだ。他の子供たちもさぞかし、いい子に育っておるのでしょうな」
「はは、悪ガキばっかだよ。俺に似て」
昔馴染みであるところの父さんや母さんと話す院長先生の顔は、本当に悪ガキみたいだった。
院長先生のお見送り、ということで俺たちは皆、儀式の間の前までやってきた。部屋の中には、既にジゲンさんが準備して待ってくれてるんだそうだ。最初から院長先生、さっさと帰るつもりだったみたい。昨日着てきた服、ちゃんとたたんで持ってるし。今着てる服はそのまま着て帰るみたいだけど、それはそれでいいか。
扉の前まで来て、院長先生はくるりと振り返った。ちょっとだけ、さびしそうに笑う。
「じゃあ、ここまででいいや。消える瞬間なんて、あんまり見たくねえだろ?」
「……」
うん。見たくない。
俺がこっちの世界に来る時の、手をすり抜けたドアの何か空虚さというか、何て言うか。
あの、頼りなくなる感触っていうの? 正直俺はもう、二度とごめんだ。思い出したくない。
「……トーヤ殿」
「モンド殿。メイア殿はお前さん選んだんだから、最後まできっちり面倒見やがれ。メイア殿も、仲良くな」
「む、無論だ。言われるまでもない」
「もちろんですわ。……会えて良かった」
父さんと母さん、昔はこんな感じで院長先生と仲良かったのかなあ。いい友だち、だったんだな。
母さんの肩を父さんが後ろから抱え込むのを確認したかのように、院長先生はサリュウに目を移した。
「サリュウ。姉ちゃん大好きなのもいいけど、ほどほどにな。お前さんもしっかり成長して、良い嫁さん見つけんだぜ」
「はい、叔父様。頑張って、兄さまより良い男になってみせます」
「おうおう、よく言ったぜ。頑張れよ」
くしゃくしゃ、とサリュウの頭を撫でる院長先生って、俺が男だった頃よくやってくれた光景だったかな。少なくとも、表情はあの時のままだ。
そうして院長先生の目は、俺とその隣にいるタイガさんに向いてきた。ああ、いつも俺を見てくれてた、父親代わりの人の目だ。
「元気でな、青蓮。幸せになるんだぞ」
「……はい」
何だかこれで本当にお別れみたいで、俺はそれだけしか言えない。
世界が違うだけなのに。
もし、何かあったらきっと、また会えるのに。
……本当に?
「タイガ。青蓮不幸にしたら、またこっち帰ってきてぶっ飛ばすからな」
「はい。それだけはごめんですね」
院長先生にそんなことを言われて、タイガさんは小さく笑いながらそう答えて、それから。
「セイレン様。行っていいんですよ」
ぽんと背中を押された瞬間、我慢できなくなった。
勢いのままに駆け出して、院長先生に抱きつく。あー、駄目だ、泣く。泣いてしまえ、ちくしょう。
「せんせ……っ!」
「あーあーもう、何で最後の最後で泣くかねえ、こいつは……」
困ったように院長先生は、俺の背中をぽんぽん叩いてくれる。
今こうやって目の前にいるのに、もうすぐに触れなくなってしまうんだ。
ぎゅう、って抱きしめてくれてるこの人は、もうすぐ、帰っちゃうんだ。
だいじな、おとうさん。
「ったく。女の子に戻ってから泣き虫になったかね。タイガ、少しは嫉妬していいんだぜ?」
苦笑しながら、院長先生が不意にタイガさんの名前を出した。えー、何でだよ……あ、もしかして俺が、院長先生に抱きついてるからか。しょうがねえだろ、ちくしょう。ああもう、こんな時何て言えばいいか分からないや。
「叔父上ですし、セイレン様にとってはもう1人のお父上ですから。そりゃあ、少しはうらやましいですが」
「おう、うらやましいか。なら預かれ。心が離れるまで、放すなよ」
そう言われた次の瞬間、院長先生は俺の腕をひょいと外した。そのまま身体を、ぽんと後ろに押し戻される。背中にとんと当たったのは、タイガさんの胸板、だと思う。
肩に置かれたタイガさんの手が、とても暖かい。ぎゅ、と少し強く掴まれて、痛いよりもほっとした。
あ、何か、分かった。
俺の居場所、ほんとにこっちなんだって。
「分かっております」
「それでいい」
涙拭けてないままの俺と、それからタイガさんを見て院長先生は、本当に安心したように笑った。そして、くるりと背中を向けて。
「じゃあな」
ばたん。
しっかりと閉じられた扉の前で、俺はしばらく動くことができなかった。
ごめん、タイガさん、みんな。
ちょっとだけ、このままでいさせてくれ。




