忍々
ふかふかの感触を後頭部に覚えた。はっと目を開けると、明かりの点いていない蛍光灯が見えた。
首をひねって状況を確認する。周囲は白いカーテンに仕切られている。なんとなく状況が飲み込めてきたところで、消毒液っぽい匂いが鼻腔に広がった。
ここは保健室だ。保健室のベッドの上で、しばらく眠っていたらしい。
身体のところどころに痛みを感じるが、頭がやけにすっきりとしている。今朝から続いていた、寝不足による不快感がなくなっているのだ。
ふとベッドの横の棚に置かれていた時計を見ると、三時四十分を示していた。
「……あれ、おかしいな」
俺は見間違いかと思い、ごしごしと目を擦って、もう一度時計を視認した。しかし、やはり時計の針は三時四十分を指している。たしか意識を失くす直前に見た時刻が九時半だったから、およそ六時間も眠っていたことになる。……いや、いくらなんでも眠りすぎだろう、俺。
まあでも気絶させられちゃったししょうがないよね、てな言い訳を心の中で唱えつつ、上半身を起こす。そしてベッドに座る形で、一時停止。
そう言えば、あの騒動は何が発端となったんだ?
うん。あの女が何かを言ったんだ。えっと、そうだなあ。「大事なお話があるとか」とかなんとか。で、放課後に職員室に来い、みたいなことも――
「逃げよう!」
俺はただちに有言を実行に移した。もう放課後じゃないか。悠々とこんなところにいる場合じゃねえ。俺が職員室に赴かずとも、あの女がやってくる。モンスターがやってくるぞ!
昨晩の中瀬古と同じく、俺も再起不能にさせられるかもしれん。中学生が深夜に出歩くことは、条例で禁止されているからな。
またもやよからぬ事態に陥るのはごめんだ。人生はゲームオーバーしたらそれで終わり。ゲームとは違って、コンティニューなどない。ゆえに、戦ったら負けるとわかっているモンスターへの対処は、逃げることが最良なのだ。
部屋の出入り口へと猫まっしぐらしている途中、引き戸が自動的に開いた。
「おっ、ようやく起きたか」
そう言いながら、高野が現れた。さて、いきなりラスボスとのエンカウントである。背後に逃げ道はない。終わった。ゲームオーバーだ。夜遅くまで中学生が遊んでいた罪を道理として、瞬く間に八つ裂きの刑に処される。
「目覚めていきなりになるが、ちょっと話がある。そこの椅子に座ってくれ。いいか?」
「……は、はい」
俺は指示通り、背もたれのない丸型の椅子に腰かけた。高野も、いつも保健室の先生が座っている椅子に尻を置いて、
「なあ、どうしてそんなにおびえてるんだ? 足が震えてるぞ」
と、訊ねてきた。それはあなたがいろんな意味で怖いからだ、なんて率直な感想は言えず、だったら質問の根源を断つべく足の震えを止めてやろうと、俺は両手でひざを押さえつけてみた。しかし、まるで効果はなかった。ひざは、俺の胸中とは裏腹に大爆笑を続けている。
「まあ無理もないか。昨日は――」
高野はすうっと息を吸って、いきなり頭を垂れた。
「昨日はすまなかった。あれは、全面的に私が悪かった」
長い長い髪の毛が、波打つように跳ねた。
「………………」
俺はてっきり夜遊びにふけっていたことを怒られるのかと予想していたので、思わず拍子抜けしてしまった。あれれ? 向こうが謝ってくれちゃってるよ? どういうことなの?
「教員としての初勤務を翌日に控え、私はとても緊張していた。その緊張を何とかまぎらわすために、ついつい酒をあおりすぎていた」
高野は頭を下げたまま、謝罪を続けた。
「お前が泣き出すまで、私は我を忘れていた。いくら酔っぱらっていたとはいえ、これほどまでにお前を怖がらせるような言動を取ってしまったことについては、本当に申し訳なく思う。また、ケンカの止め方としても、あれは最悪の行動だった。教師にあるまじき挙動だったことを、深く反省している。許してくれなんて言うのは厚かましいが、どうか誤解だけは……いいや、違うな。私が九条に言えることは、これだけだ。本当にごめんなさい」
最後に謝ったきり、高野は微動だにしなくなった。
「……………………」
俺は時計の秒針が時間を刻む音を聞きながら、思考をめぐらせていた。はたしてなんと答えたらいいのかと。
このまま黙っていても埒が明かない。こんな状態のまま時間が過ぎ、時計が午後五時を回ったら、この世で最も恐ろしいできことが我が身に降りかかってしまう。
ならばさっさとこの場を収めて、早々に帰宅しよう。それだ、それがいい。ベストアンサーだ。
俺はなかなか開かない口を無理やりこじ開け、全身全霊を賭して声帯を動かした。めちゃめちゃびびってるけど、言うぜ。喋るぜ。年上の女性に話しかけるぜ。
「あ……あの、僕こそ、あんな時間に、あんな場所にいたのが悪かったんです。こここちらこそ、申し訳ないです。だから、どうか、謝らないでくだ――」「そうか!」
俺が言い切る前に、高野は素早い動作で顔を上げて、切れ長の目でこちらを睨めつけた。
「なるほど、言われてみればそうだった。だったら先ほどの言葉は撤回させてもらおうか。私が全面的に悪いわけじゃない。ふふふ、そうだ。そうじゃないか。涙を見せられたせいで、つい取り乱してしまったんだ」
言葉の後半になるにつれ、声が次第に小さくなってしまったので、正確に聞き取れた自信はない。だが、これだけは自信を持って言える。
答えを間違えた!
ああ、何たる失態。高野の猛省っぷりを鑑みるに、俺はあのまま怒ったふりをして、黙って保健室から出てもよかったんじゃないか。それが正解だったんだよ、きっと。
無駄に勇気を振り絞って、勇気果汁100パーセントにするべきじゃなかった!
ちくしょう、俺ってやつは。何たる間抜け。何たるたわけ。そして、いい人。善人。生き地蔵。泣いた赤鬼の親友。
「つーわけでだ」
俺が自己否定から自画自賛のフルコースを満喫しているところに、高野からの差し入れが加わった。
「昨夜の話はなかったことにしよう。それで、構わないな?」
「…………は、はい」
俺は即座にうなずいた。怒られずにすんだのだから、僥倖と言えよう。結果オーライだ。
「……それにしても」
高野は訝しげな表情で言った。
「昨日も少し思ったんだが、お前はいささか緊張しすぎというか、おびえすぎじゃないか? 私がそんなに怖いか?」
「……………………」
それを訊かれると、俺はたちどころに何も言えなくなってしまう。
「どうすれば緊張を解いて、まともに会話してくれる。何かアイディアはないのか?」
「……………………」
「ゆっくりで良いから答えみてはくれないか?」
高野は優しい語り口で訊ねてきた。まるでそれは、保健室の先生のようで。
「何でもいいぞ? な?」
彼女のスーツ姿が、一瞬だけ白衣に変わったような錯覚に陥り――そのせいか俺は、無意識にこんな言葉を紡いでいた。
「…………り、両手両足を縛って、後ろを向いてくだされば」
「変態かお前は」
冷たい返事で、あえなくばっさりと切られた。これまたせっかく100%の勇気でアイディアを提案したのにそれが仇となった。ちくしょう。これじゃあ俺は、0点のチャンピオンじゃないか。まあ、言う前からわかっちゃいたけどさ。
ところが、高野は「やれやれ」とため息をついてから、意外や意外にも、
「わかった。両手両足を縛れはしないが、後ろを向いてやろう。そして、お前には絶対危害を加えないことも約束しよう。これでどうだ?」
そう言いつつ、椅子を反転させて俺に背を向けた。
「ありがとうございます!」
恐怖の対象である年上女性からの視線に解放されたおかげか、俺は水を得た魚のような心持となり、すぐさま感謝の辞を述べた。
「……ちぇ、よどみなく答えやがって。そんなに怖がらなくてもいいじゃねえか」
俺とは対照的に、高野は肩をがくんと落としていた。まあ我ながら、こんな露骨な拒否反応を示したら誰だって落ち込むよな。今まで出会ってきた年上の女性もみんなそうだった。でも、しょうがないんだよ。俺にはどうすることもできない。
ただ、あれだ。後ろを向いてくれた代わりと言っちゃあなんだが、こちらも真摯な対応をすることを約束しよう。腹を割って会話する。心の中で、そう誓う。
「ところで九条。お前に聞きたいことがある。昨日、お前と一緒にいた中瀬古のことだ」
「何でしょうか?」
「お前らの個人情報は三年三組の副担任として、ある程度把握させてもらった。だから、私がお前らの顔と名前を知っているわけなんだが、まあそれはどうでもいいとして。中瀬古は今年の一月頃から、ほとんど学校に来ていない。そして、今日も出席していない。この原因について、何かお前は知らないか?」
「いえ、存じておりません」
これはマジだ。あいつが何を考えて登校を拒否しているのか、あるいはあいつが学校にいない間に何をやっているのかなんて、俺はまったく知らない。興味もない。
「そうか。なら、質問を変えよう。あいつが普段、どこで何をしているのかも知らないか? 町でよく見かけたりすることもないか?」
「近場のゲームセンターにいるとか、コンビニにいるとか、そんなところでしょうか。中学生の遊び場所なんて、大体そんなもんですよ」
「なるほどな」
高野は嬉しそうな声を漏らした。
「ふむ。しかし、私はこの町に来てあまり日が長くなくてな。正直、右も左もわからん。だから、町を案内してくれる人を探しているのだが……」
「はい」と俺は相槌を打った。
「九条、これも何かの縁だ、本日、町案内を頼まれてくれないか。もちろんタダでとは言わない。あまりおおっぴらに公言することは憚られるが、飯を奢ることを条件に依頼したい。どうだろう?」
「ごめんなさい。僕はどうしても都合が悪いんです」
「そうか。それなら明日にでも」「いいえ」
俺は毅然と言い放った。
「明日も、明後日も、きっとこれかも平日の放課後はダメですね」
高野は数拍の間を開けたのち、平坦な声でこう言った。
「……私が怖いからか?」
「いや……そりゃ怖いのは怖いですけど、それとはまた別の理由があるんです」
「ふむ」と高野。
「この際なので誤解がないように言っておくと、門限があるんです」
「それは何時なんだ?」
「午後五時です」
「おい待て、嘘をつくなよ。私は見え透いた嘘が大嫌いだ」
高野の声に怒気の色を帯びる。しかし、これは事実なのだから、俺はひるまない。俺も、見え透いた嘘は嫌いだ。誰もが嫌な気分にならない嘘は好きだが。
「嘘じゃないです」
「しかし、昨日、お前を見かけたのは十一時過ぎだったぞ」
「あいにくながら、昨日のおかげでそうなってしまったんです。家に帰るのが遅れて、家族に怒られました。また、家族にはその事情をうまく説明できなかったので、さらに怒られました……やっぱり恥ずかしいじゃないですか、女性に泣かされて遅れたなんて」
これも事実だ。高野に文句を言うつもりはなかったが、事実は事実。そのまま伝えるのがせめてもの誠意ってもんだ。
「たしかに、女に泣かされた、とは言えないか。本当、申し訳ない」
高野は弱々しい声で言う。
「一般に公務員の勤務終了時間は、午後五時以後でしょう」
「うん。私の場合は、お前の門限と同時刻だ」
「つまりは――そういうことなんです。申し訳ありませんが」
「ふうん。……だったら、そうだなあ」
高野は背もたれに身を委ねて、椅子を軋ませながら、
「じゃあ今日のところは予定変更だ。お前の家に連れて行け」
「え? どういうことですか?」
「ご家族に昨日のできごとを説明して、誤解を解いてもらう。もちろん、お前が泣いていたことは、伏せるつもりだ。お前も、このまま門限が午後五時になると困るだろう?」
「まあ、そうですが……」
ウチの家族を簡単に説得できるとも思えないが、門限の交渉に立ち会ってくれるのならありがたい。願ってもないチャンスだ。
「なら、決まりだな。さてさて、午後五時までは部活の時間だ」
高野は椅子をくるりと回して、こちらを向いた。……思えば、部活の存在を完全に失念していた。彼女は新任の教師で、それでいて――
「今日から私は、陸上部顧問としても頑張るぜ。まずは手始めに、幽霊部員の門限をこじ開けるところからな。ふふ」
「………………はい」