異常な家庭
少女と別れて、俺は"例"の駐車場に向かう――ことなく帰宅した。
そうそう。超重大な用事があったのだ。危ない危ない、忘れるところだった。というわけで、中瀬古には別日に鉄拳制裁を下そうと思う。
「ただいま」
玄関のドアを開けると、姉が腕を組んで立っていた。
「おかえり」
姉は純粋な日本人にもかかわらず、ロングの金髪(染めている)だ。手足はすらりと長く、背後から見ると、まるで外国人のよう。ただし顔立ちは日本人のそれ。身内をこんな風に評価するのはいささか気恥ずかしいものがあるけど、けっこう美人である。俺とは似ても似つかない。
姉は、にこりと笑って曰く、
「はい、一分遅刻ぅー」
とのことらしい。
遅刻と言われても、事前に集合時刻を取り決めた記憶はない。昨日、姉本人から「明日は昼過ぎには家にいろ」とのご達しがあっただけだ。
現時刻は腕時計の針を見るに午後一時十二分。どうでしょう。姉が『勝手に』決めた集合時刻に間に合わなかったとして、俺は悪いことをしたのだろうか。
いや、何も悪くない。もう一度言う。何も悪くない。
「ごめんなさい」
しかし、何も悪くなくとも、姉の気分を損ねるようなことがあれば、俺は地に額をつけなければならないのだ。
なんでって? いや、そういうことなんだからしょうがないでしょ、としか答えられない。
察してください。死にたくないんです。もう一度言う。死にたくないんです。
「一分も遅れておいて、謝って済むはずがないよねー? 中学生にもなってまだママに拭いてもらっているそのお尻、こっちに向けなさい」
「はい」
俺は言われるがまま無駄のない動作で靴を脱いで廊下に上がり、いつもウォシュレットで一分以上水浴びさせているお尻を姉に向けた。
ちなみに、母にお尻を拭いてもらっていたのは、七年以上前の話だ。
「そんじゃ、ケーツキック……うりゃっ!」
「――!?」
どかっ。
俺は前傾姿勢のまま、顔面から壁にぶつかった。お尻に衝撃がはしった瞬間、目前に壁があった。声を出す間もなかった。
顔の中心が……痛い! 痛すぎる!
鼻が潰れたかもしれない。
「なるほど、思いっきりお尻を蹴られると、人はこういう感じでぶっ飛ぶのね。これで動きのある良い漫画が描けそうだわ」
俺の悲劇的状況に反して、やけにのんきな姉の声。日本のアベレージとされている家庭では、かような一連の暴力的行為はまず起こり得ないだろう。
しかし、我が家ではこれが日常。俺は十歳くらいの頃からモルモットみたく扱われてきた。
したがって、こんなのは当たり前のことだから俺は別に怒ってなどいない。
そう、鼻がずきずきと痛むが、別に怒ってなどいない。再三になるが、別に怒ってなどいない!
「何よ、額に血管の三叉路を浮かべて。文句があるなら、かかってきなさいな。肉体言語を使って徹底的に議論しましょう」
「……いや、怒ってないよ」
議論と言っても、拳で語り合うのはまっぴらごめんだ。
万に一つも勝ち目がないからな。女性と言えども武道経験者は伊達じゃないのだ。
「あ、そう。相変わらずのフヌケね、中三にもなって。そんなことだから――」
見下すように、言葉を吐き捨てる姉。
「まだホワイトチンチンなのよ。その歳でそれだと、ブラックチンチンよりもたちが悪いわ」
「……おいおい、そいつは聞き捨てならんなあ、姉さん」
股間にまつわるエトセトラは、男の尊厳にかかわる部分だ。言わば逆鱗なんだよねえ、そこは。たとえ姉さんがいくら敬うべき存在、力づくでは絶対に勝てない存在だとしても、この件に関しては引いちゃいられねえ。
「ふうん。それで、聞き捨てならないとしたら、いったい何なの?」
「しばらく時間をください。そしたら必ず……」
「まさか油性ペンでペイントするんじゃないよね? もしそんなことしたら、その手の商品を作ってる業者の逆鱗に触れて、最悪の場合消されるわよ。ちなみにその業界では怖い人のことを『修正ペン』と言うらしいわよ」
いや、そんな業界用語も慣例もあるわけねえだろ。
「ああ。でも、鉛筆およびシャーペンは許可するわ。遠慮なくペイントしてちょうだい」
「手加減を誤ったら、股間がずたずたの血まみれになるんだけど」
想像するだけで股間がきゅっとなる。これだから姉は恐ろしい。口論でも勝てる気がしない。
「ま、あんたの股間のことなんかどうでもいいの。男の乳首くらいどうでもいいの」
まるで意味が分からない。たしかに男の乳首はどうでもいいというか、存在意義が解せないが。
あれ?
ということは、俺の股間の存在意義も――っておいおい。まさか一生童貞なんてことはあるまい。あははっ、まさかね。
「ともかく」
姉は言いながら、金色に輝く長い髪を片手で振りはらう。
「さっさと私の部屋に行って作業を始めるわよ。今回こそは絶対に漫画家としてデビューしてやるんだから!」