真剣勝負
たくさんの人が流した汗の臭いと、たたみ特有の青っぽい臭いが混じった道場の臭い。俺は、この臭いが好きじゃない。この臭いを嗅ぐと、幼い頃に味わったツラい練習の記憶や、姉の練習相手として地獄を見た記憶がよみがえり、胃がちくちくと痛むのだ。
数本のろうそくの明かりと、窓から弱々しく注がれる月の明かりに照らされた薄暗い道場の真ん中で、俺は一人、あぐらをかいて彼女たちを待っていた。
姉と高野が試合をすると言い出したのは、たった数十分ほど前のことだ。
まあ試合と言っても、それは形だけの話で、その中身はケンカに他ならない。試合のルールはこうだ。試合開始から二十分が経過するまでは、たとえ骨が折れようと、たとえ参ったと言おうと、たとえ意識を失おうと、試合は終わらない。なお、反則技などの規定はないので、この試合はひょっとするとケンカよりも凄惨な事態になるかもしれない。
おそらく姉は高野に対して容赦のない攻撃を仕掛けることだろう。投げ技、関節技、絞め技など……彼女の得意とする技で、これでもかというほど高野を痛めつけるに違いない。
だが、それは、高野が無抵抗の場合だ。高野が本気を出せば、試合の結果はわからない。姉は本当に強いが、高野の実力は未知数だからな。
はたして、どちらが勝つのだろうか。
高野が勝てば、俺は漫画のアシスタント業務に自由時間を奪われることもなく、寝不足に悩まされることもなく、受験勉強に励むことができるようになるだろう。
姉が勝てば、現状が維持される。
そんな分岐点が目の前にあると仮定して、はたして九条高明は、どちらに勝ってほしいのか。
今、誰かにそう訊かれたら返答に困る。
高野に勝ってもらえば、俺の抱える諸々の懸案事項は解消される。それは俺にとって有益なはずで、頭ではその実現を願っている。
しかし、その一方で、姉には負けてほしくないという気持ちがある。
俺が生まれてこの方、姉は常に俺の先を歩き、俺よりも強い存在としてあり続けた。自分が絶対に敵わない存在であるところの彼女は、怖れの対象であると同時に憧れの対象でもある。
憧れの対象が、誰かに負ける姿なんて見たくない。そんな気持ち、わかるだろ?
なんて。
あれこれと考えているところに、ようやく彼女たちは姿を現した。
両者とも真っ白の道着に着替えていた。
高野は腰に黒帯を巻いている。彼女の着ているそれはおそらく姉の使っていた古着だが、サイズはぴったりで、様になっている。
姉は黒の袴を履いている。袴は、合気道の神髄である『足の動き』を隠すためのものだ。
彼女たちは、俺の左右斜め前で互いに向き合って、静かに正座した。
さて、いよいよ試合が始まる。
「最後に少しだけ、お喋りをしましょうか?」
まず、口を開いたのは姉だった。すかさず高野は、「ええ」と首肯する。
「高野先生は、試合に対しての不安はありますか?」
「もちろん不安ですよ。京子さんは?」
「私も不安です。高野先生の実力が未知数なので」
二人は身じろぎひとつせず、口だけを動かしている。
「とは言っても、京子さんの表情には、余裕が感じられますけど?」
「まさか。高野先生の方が、余裕そうですが?」
「いえいえ、そんな。私は投げられ慣れてませんから。怖くてしょうがないです」
「まあまあ、そんな。私は殴られ慣れてませんから。痛いのは苦手です」
俺から見れば、二人とも余裕の表情に見える。だが、気のせいだろうか、二人の周囲に禍々しいオーラが見える。それはまるで殺気のような。
「でも、京子さんは、試合に負けるつもりはないでしょう?」
「ええ。勝てない試合はやりません」
姉の台詞が数瞬、時間を止めた。二人の口角がぐにゃりとゆがんで、時間が動き出す。
「高野先生も、負け戦はお嫌いでしょう?」
「はい。私は、空手の試合では負けたことがありません」
毅然と答える高野。
どんな競技の選手であれ、試合で負けたことのない選手は存在しないと思っていたが、ここにいたのか。世の中は広いな。
まあ数試合しかしたことのない選手の場合ならそれもありえるけど、高野に限って、そんなふざけたことを自信満々にのたまうような真似はしないだろう。
「あはは、いわば最強の矛と盾の闘いですね」
「うふふ、面白い試合になりそうですね」
二人が上品な笑い声を発するたび、張りつめた空気が震える。
「さて、私から高野先生への質問は以上です」
姉は笑顔のまま、無感情な声で言う。
「何か最後に、私に訊いておきたいことはありますか?」
「……訊いておきたいこと、ですか」
高野は、しばし考えるように視線を空中にさまよわせて、再び口を開いた。
「では、いくつか質問いたします」
「どうぞ」
「京子さんは……高明くんが憎いですか?」
高野がそう言い放った途端、姉の顔から表情が消えうせた。
――どくん。
俺の心臓がにわかに動きを速める。姉の答えを知りたいような知りたくないような。高野の質問の意図を知りたいような知りたくないような。
そんなもどかしさが、胸に去来する。
「………」
姉は無表情のまま、高野を見据えて押し黙っている。そんな姉に向かって、高野は次から次に質問を放つ。
「さっき、高明くんの頭を蹴り飛ばそうとしたとき、どんな気持ちでした?」
「………」
「言いたくないのは、高明くんの前だからですか?」
「………」
「京子さんには、高明くんに知られたくない気持ちがあるんですね?」
「………」
自分から「何か訊きたいことはありますか」と言っておきながら、何を訊かれても、姉はうんともすんとも言わない。なぜ答えないのか。もしくは答えられないのか。あるいは答えたくないのか。
俺は何もわからないが、高野は何かわかっているらしい。
「わざと答えられない質問をして、ごめんなさい。でも、訊かずにはいられませんでした」
まるで最初から何もかもわかっていたみたいにそう言って、高野は頭を下げた。
「私から京子さんへの質問は以上です。それでは、試合を始めましょうか」
「……はい」
姉は消え入るような声で返事をして、首を縦に振った。
二人は同時に、立ち上がる。
俺は座ったまま、二人を見上げていた――次の瞬間だった。
「おやすみ」
高野の声が聞こえた直後、俺の意識は途絶えた。