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ぽろり  作者: はち味
第一章
24/25

約束

 俺は震える手を伸ばし、玄関の取っ手を握り締めた。


「……た、ただいまー」


 鍵のかかっていないドアを開けて、帰宅の報告をする――が、返事はない。


 俺は振り返り、高野に無言でアイコンタクトを送る。


 高野は神妙な顔でこくりとうなづき、「お邪魔します」と言いながら家の中に入った。


 外から家を眺めたときには、姉の部屋と風呂とリビングに明かりが点いていたので、姉さんは家のどこかにいるはずだ。しかし、ここからは物音ひとつ聞こえない。


 さあ、どこにいるんだ。


 おそるおそるリビングに足を踏み入れた、そのとき――右半身に強烈な寒気を覚えて、俺はとっさに体をひねった。


「おかえりなさい」


 いきなり姉と目が合い、俺は言葉を失った。姉は、不自然にも、リビングの出入り口の真横に立っていた。


「ただいま、は?」


 姉は問うてきた。


 しかし俺は即座に声を出すことができなかった。怒っているとも笑っているとも解釈できる姉の顔つきからは、まるで感情を読み取ることができず、それゆえ何と答えたらいいのか見当もつかなかったからだ。……いや、普通に「ただいま」と返せばいいだけなのに。


 数時間前、珍しく見せた姉の笑顔が、もうずいぶん過去の記憶のように思えてしまう。もはや俺は引き返せないところまできてしまったのだろうか。


 突如として思考が空回りを始める中、俺の体は、さながら条件反射のごとく姉の命令に従った。


「……た、ただいま」


 かすれた声になったが、この行為が吉と出るか凶と出るか。その答えは、すぐに出た。


「門限を破ったら――こうなるのよ!」


 姉は目にも止まらぬ速さで足を振り回した。


 ばしんっ! と何かがぶつかったような音がした。


「――ッ!?」


 ほんのまばたき一度の間に、高野が俺の前に移動して、姉さんの足を両腕で受け止めていた。高野がいなければ、俺の顔面はしたたかに蹴り飛ばされていたに違いない。 


「チッ!」


 姉は露骨に顔をしかめて、振り回した足を床に着けた。


「……危なかったな」


 高野は俺に背を向けたままそう言って、すっと両腕を降ろした。


 二人の動きが止まったところで、俺は高野の肩越しに、すかさず姉に声をかけた。


「ね、姉さん! 落ち着いて、俺の話を聞いてくれないか?」


「いやよ」


 姉はぴしゃりと言った。


「童貞の中坊が、こんな遅い時間に帰ってきて。あまつさえ、いけ好かない女を家に招き入れる奴の話なんか……聞けるわけないでしょ!」


 俺たち二人に毒を吐きながら、それでも怒りが収まらないといった様子の姉。


 これは予想以上に深刻な事態になっていた。これから高野がどんな謝り方をしようが、姉の怒りは鎮められそうにない。ましてや俺が説得するだなんて夢のまた夢だ。


 しかし、ここで諦めるわけにはいかない。


「ど、どうしても姉さんに謝りたいことがあるんだ! って、高野先生が言ってたんだ」


 諦めるわけにはいかないから、俺は高野にバトンを渡した。


 高野はびくりと肩をこわばらせつつも、


「私は京子さんにお詫びを申し上げるために参りました」


 と言って、バトンを受け取った。俺こそ高野にお詫びを申し上げたい気持ちだ。ここは先生だけが頼りだ! 何とか頑張ってくれ!


 ところが、俺の祈りもむなしく、姉はすげなくそのバトンを叩き落とす。


「お詫びは結構ですので、今すぐお帰りください」


 姉は、事務的な口調でそう告げる。取りつく島もないとは、まさにこのことを指すのだろう。


 それでも高野は、バトンを拾って立ち上がる。


「いや……そこを何とか」


「結構です」


「……少しの間だけでも」


「今すぐお帰りください」


 高野が食い下がると、姉が徹底して拒絶する。二人の間合いはじりじりと詰まっていくが、心の距離は開いていくばかりに見える。


 そして、ついに姉がキレた。


「――いい加減、ウザいのよ! 帰れって言ってんでしょ!」


 姉を中心にして、甲高い声が周囲に広がる。


「今すぐ帰らないと警察を呼ぶわよ! あなたが高明を拉致したことも伝えるわ!」


 怒りの感情を爆発させて、それでいて計算高い思考をもって、姉はがなり立てる。


「……今すぐ帰るんだったら見逃してあげる。不本意だけど」


 取引条件をつけてまで、高野を追い出そうとする。


 しかし、高野はぴくりとも動かない。覚悟が、決まっているのだろう。


「京子さんが、私の顔を見たくないのは承知の上です。したがいまして、この顔は地面に伏せて、お詫びの言葉を申し上げたいと思います」


 丁寧な口調で言いながら、高野は流れるような動作で正座の姿勢を作り、平伏した。


「高明くんを勝手に連れ去って、誠に申し訳ございませんでした」


 生徒の目の前で、土下座をする。謝罪の相手は、自分よりも年下の女。


 とてもじゃないが、俺には真似できない姿だ。


『……私は……お前と遊びたいんだ』


 たしかにあのとき高野はそう言ったが、その目的を果たすためだからと言って、普通こんな無様な手段を選ぶか?


 はっきり言って、彼女は異常だ。俺が今まで出会ってきた人たちの中でも、一、二を争うくらい変わっている。


 彼女の行動原理、行動力は、まるで理解できない。だが、有言を実行する彼女は、俺が今まで出会ってきた人たちの中でも、一、二を争うくらい信頼できそうだ。


 少なくとも――彼女が俺の先生でいる間は頼りになりそうだ。


 俺は、高野の背中を見下ろしながら、そんなことを考えていた。その矢先だった。


「あっそう」


 姉は感情のない声を出して、高野の頭を踏みつけた。ごつん、と鈍い音が響く。


「それで気が済んだでしょ。さっさと帰って」


「……ね、姉さん」


 一連の光景を見て、俺は生まれて初めて、姉に対してけがらわしさを覚えた。ぐりぐりと、裸足で高野の黒髪を乱す、その、俺の姉らしくもない非道な行い。胸の辺りがむかむかして、もう我慢ならなかった。


「姉さん!」


 無意識のうちに俺は叫んでいた。姉を呼んだ。普段の――姉を呼んだのだ!


「何?」


 姉の瞳がこちらを向く。


「私に、文句があるの?」


 俺は血の気が引いていくのを感じた。学校の音楽室の壁に貼られている、著名な音楽家のポスターに描かれた人物と目が合ったときのような、得体の知れぬ恐怖感を覚えた。


「……っ!」


 俺は一瞬、姉の瞳から視線をそらしかけたが、なけなしの勇気を振り絞って戻した。


「……い、いくらなんでもやりすぎだと思う。先生の頭から足を――」「よせ、高明くん」


 俺の言葉を、高野の声が遮った。


「これは当然の報いだ。むしろこれくらいで済ませてくれるのは、ありがたい。京子さんは、いい人だよ」


 顔は見えないが、高野の声には明るさが満ちていた。きっと本心からそう思っているのだろう。人に頭を踏まれながら、この上ない屈辱を味わいながら、どうしてそんな――。


「私にはこんなことくらいしかできない。お前にはお前のやることがあるだろう。伝えるんだ、自分の意思を」


 高野はそう言って、笑った――ような気がした。年上の女のくせに、俺の心を惹きつけてやまない、魅力的なあの笑顔が、頭に浮かんだ。


 そうだ。先生の言うとおり、姉に、俺の意思を伝えよう。


 俺は腹筋に力を込めながら、姉の瞳を真っ直ぐ見た。


「……姉さん、話を聞いてほしい」


 すうっと一呼吸。


「俺は――」「黙れ」


 今度は、俺の言葉を、姉の声が遮った。


「これくらいで済ます? いい人? は、何言ってんの?」


 姉はぐっと体を前傾させて、足に体重をかけた。高野の頭にかかる重量は、どんどんと増していることだろう。


「いちいち人の神経を逆なでしながら、勝手に話を進めるんじゃないわよ」


「いや、あの、姉さ、ん――」


 俺は言いかけて、途中で声が出なくなった。姉が笑ったからだ。


「高明が何を言うのかは知らないけど、先に言っておくわ!」


 姉は腐ったトマトのような笑みを浮かべながら、唾を吐き捨てるように言った。


「あんたが絡んでいることは、どんな理由があっても却下するわ!」


 姉の言い放ったことは、高野が望んでいた『俺を部活に参加させる』計画をぶち壊すものだった。姉は、どうしてそんなに高野が憎いのか、全力で先手を打ったのだ。


 しかし高野は意外なことに、「ふふっ」と笑みをこぼした。


「望むところです」


 依然として、高野の声色は明るいものだった。


 だが、なぜなんだ?


 俺の頭の中で、一つの疑問が芽生えた。『望むところ』ではないだろう。このままでは、俺が部活に出ることを認めてもらえなくなるじゃないか。


 それでもいいのか?


「とにかく高明くんの話を聞いていただけるのなら、幸いです。彼は自分のことで、京子さんに伝えられずに悩んでいたのです。なのでどうか、それだけでも聞いてやってください」


 真っ直ぐに言い放つ高野。もしかして彼女は、俺が姉を説得できる場を設けることが狙いだったのか。それが最優先で、部活云々というのは二の次だったのか。


 そう考えれば、『望むところ』の意味が理解できる。


 そこで、姉に異変が起きた。


「……ちょっと……待ちなさいよ」


 高野の頭から足を引いて、三歩後ずさる姉――その様子がおかしい。まるで嘔吐を我慢しているような顔色になっている。


「……なんで……あんたが言うのよ」


 いや、ここにやってきた当初から、異変は感じ取っていたが。


「……おかしいわ……どういうことなの」


 さっきまでは強気な態度を見せていたのに、今は気弱な女の子のように震えている。こんな状態の姉を見るのは、初めてだった。


「……悩んでいた……ということはつまり」


 目を見開き、頭を抱えて、小声で言葉を呟いている。だが、そんな状態も長くは続かなかった。


「……なんで高明が……あんたにそんなことを!」


 次第に呼吸が荒くなり、語尾が上ずり始める。


「もう、ダメだわ! 絶対に、許さない! あんただけは、絶対!」


 姉は――親の仇を見るような目で、土下座のままの高野を睨めつけた。


「たとえ警察に通報しても! たとえ教育委員会に訴えて学校を辞めさせても! 結局、他人任せで攻撃しても! 絶対に後悔するわ! そうよ! だったら答えは簡単じゃない!」


 あははははははははっ! と、気が触れたように高笑いする姉。


 俺はただ、不安定な挙動の姉を、見ていることしかできない。


 そして次の瞬間――姉は大きく息を吸い込んで、おもむろに息を吐いた。


「顔を上げてください、高野先生」


 まるで年長者に喋りかけるような口調で言った。


「今から私と試合をしましょう」


「……試合……ですか?」


 高野は顔を上げ、戸惑うような声で問う。


「はい、試合です」


 姉はにこやかに答えて、高野に手を差し伸べる。


「ルールは何でもありのケンカルール。試合時間は二十分。開始から二十分が経過したら終了。それは――たとえ試合の途中で骨折しようが失神しようが、二十分が経過するまでは終われないことを意味します。これが異常なルールだというのは承知の上です。けれど、今回高野先生がなさったことも、そのくらい異常なことだったなのですよ」


 高野は黙り込んで、姉を見上げている。姉は表情を変えることなく、言葉を続ける。


「また、この試合に応じていただければ、高野先生が高明になさった行為を、すべてなかったことにしましょう。いかがですか?」


「やりましょう」


 高野は何のためらいもせず短く答えて、姉の手を取り立ち上がった。


「ありがとうございます」


 姉は目を細めて、高野の手を放した。


「それでは、父が所有する武道館へご案内いたします」


 ちなみに――高野先生が勝ったなら。


 私は高明の話を聞き、要望があれば私のできる範囲で応じます。


 ただし――私が勝ったら。


 高野先生は金輪際、高明と関わることをやめてください。


 いいですね?


 わかりました。


 なんて。


 俺が口をはさむ間もなく。


 二人の間で、そんな約束が交わされたのだった。

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