九条高明の答え
「姉さんが――だから」とかそういう不純物の混じった結論ではなく、俺自身から湧いて出た純粋な結論を高野は要求している。だから高野は各人のフルネームを強調したのだろう。
それはわかる。わかるのだが……いきなりそんな難題を問われても、こちとら困り果てるだけだ。
ここ数日の夜の気温は十度を下回り、まだまだ肌寒い季節なのにもかかわらず、俺の顔面は汗だくになっていた。
高野は難題を投げかけた後、しばらく口を閉ざして俺をにらんでいたが、
「いや、その答えを聞く前に……お前は今の状況に不満はないのかどうかを訊ねておきたい」
と別の質問に切り替えた。これは簡単な問いだ。即座に答えられる。
「不満はあるよ」
「どういう不満があるんだ?」
「姉さんの手伝いをしているせいで、受験生なのに勉強の時間が取れない」
俺がそう言い切ると、高野は意外だと言わんばかりに目を丸くした。
「へえ、行きたい高校があるのか?」
「そういう目標はないけど、とりあえず勉強しとけば、受験の不安を少なくなるかなって」
「あはは……見かけよりも真面目だな。そして心配性だ」
「ほっとけ」
からかうような高野の笑顔から、俺は顔をそむけた。
「姉ちゃんに、その意志は伝えたのか? 受験勉強がしたいから手伝いの時間を減らしてくれって」
「伝えても、無駄だな。姉さんには俺の話を聞く耳なんてないからな」
仮に話を聞いてくれたとしても、最終的には「つべこべ言ってないで私の言うことを聞きなさい」なんて言われるのがオチだ。
「あと、他にも不満はある。理不尽な理由で殴られたり蹴られたり関節技をかけられたりする。例えば、そうだな……受験勉強がしたいから手伝いの時間を減らしてくれ、なんて言ったら、問答無用で人間サンドバックにされるだろうな」
「……ボコボコにされるのか?」
「うん。だから俺はそうならないよう、姉のご機嫌に気をつかわなきゃならん」
「そうか、お前は……」と言いかけて、高野は首輪をつけられた犬に向けるような目で俺を見る。「姉ちゃんには逆らえないんだろうなあ」
「ああ、逆らえるならおびえたりしないだろ」
「何か弱みでも握られているのか?」
「それもあるが、口論でも殴り合いでも負ける。姉さんの方が力があるから、たとえどんな命令をされても、逆らえない」
「……うむ。口論はともかく、殴り合いでも勝てないのか」
高野の表情がみるみる曇っていく。
「ご両親に相談はしてるのか?」
「親には、何も知られたくねえんだ。理由はまあ……察してくれ」
反抗期という自覚はないが、誰だって親に言えない秘密くらいあるだろ?
それに両親は姉の味方だ。姉がいわゆる難しい年頃になった頃合いから、両親は姉を優遇し始めた。理由は男女差だと言っていた。
ちなみに、それ以前は年齢差という理由で俺が優遇されていたので、ある意味では、両親は俺たちを平等に扱っているとも考えられる。
だから結局のところ、親を頼ったとしても、その効果は期待薄だ。
「……なるほどな」
高野はやれやれというようにため息をついた。
「そういう事情があるから、現状が不満あっても、お前は耐え忍ぶ他に道はないんだな」
「まさしく。お手上げだよ」
俺は自嘲気味に言って、両手を夜空に伸ばした。
「……なるほどな」
高野はもう一度そうひとりごちて、切れ長の目を閉じた。
「ところで、お前にもう一つ質問したい。いつ頃からお前は姉ちゃんに理不尽な暴力を振るわれてきたんだ? もしかして、お前の物心がついた頃からか?」
「……いつ頃」
俺は夜空を見上げて、遠い過去を思い出す。
「小学校低学年までは、いつも一緒に仲良く遊んでいた……と思う。うん、たしかそうだ。俺が十歳くらいになってから、姉さんは理不尽になってきたんだ」
最初は姉の口調が多少厳しくなったなくらいにしか思ってなかったのが、いつの間にか口よりも先に手が出ることが多くなり、姉の意見に少しでも反論しようものなら、こちらが泣いて謝るまで痛めつけられるようになった。
「ならば幼少期からいじめられていたとか、そういうことはないんだな?」
「ああ、それは間違いない。しかし、妙に時期にこだわってるみたいだが、何か引っかかることでもあるのか?」
「まあな。人の行動には何らかの理由があるもんだ」
高野はここで初めて教師らしいセリフを吐いた。
「例外として、生まれつき理由もなく非情な行動に出る人……いわば、本物の鬼もいるが。お前の姉ちゃんは、その例外には当てはまらないだろう。何か理由があるはずなんだ、必ず」
高野は依然として目を閉じたまま、自分に言い聞かせるように断言した。
「……姉さんの……行動の理由」
「そうだ。何か思い当ることはないか?」
「………」
俺は息をするのも忘れて、必死で思い返す。
今の今まで、そんなことを一秒たりとも考えたこともなかった。ただひたすら姉の命令に従い、その命令を手早く処理することにのみ思考を使ってきた。
弟は、姉の言うことには絶対に従わなくてはならない。姉弟の関係とはすなわち、弱肉強食の関係である。
そんな風に割り切って考えて、生きてきた。
だから……なのだろうか。
「ダメだ、何も思い当らない。恥ずかしながら、今まで考えたこともなかったよ」
俺がそう告げると、高野は苦笑しつつも、「正直でよろしい」と言った。
「だとすれば、姉ちゃん本人に、その理由を聞いてみるしかないな」
「だ、誰が聞くんだ?」
高野がいきなり話を進めるので、すかさず俺は訊ねた。
「私かお前だ」
「……何のために?」
「何のためって、そりゃ……」
高野は一瞬沈黙してから、さも当然といった口調で、こう言い放った。
「お前は姉ちゃんを説得して、受験勉強の時間を確保したいんだろ?」
「いや、まあ……そうだけど」
「だから、そのための戦略を考えるんだよ。姉ちゃんに口論に勝てて、ケンカに負けない戦略を考えるんだ。つまり、私が知りたいのは、口論に勝つための材料で――」「ちょっとストップ!」
高野の言いたいことは十分に理解できたが、あえて俺は待ったをかけた。俺の抱えている不満を解消するための戦略を考える――その意図は承知した。
しかし、解せないことが一つある。
「どうして先生は、俺の問題に首をつっこむんだ?」
姉の行動の理由と同様に、高野の行動の理由も――俺にはわからない。
「姉さんには大なり小なり不満はあるし、その不満が解消できたらいいなと思う。だが、不満を解消するためにはそれ相応のリスクが存在する。いくら綿密な戦略を立てても、万が一、姉さんの説得に失敗したら、いたずらに姉さんの堪忍袋を刺激するだけに終わってしまう」
そして姉さんの機嫌を回復させるためには、俺が人間サンドバックにならなきゃならない。
「それに第一、先生に協力してくれなんて頼んだ覚えはないぞ? これは俺だけの問題なのに」
俺は質問を重ねた。聞いてみたいことが山ほどあった。
「大体、先生ってのは生徒のこんなプライベートな問題にまで、いちいち関与するものなのか?」
傍から見れば、俺の抱えている不満というのは、姉弟ゲンカに負けて悔しがっているだけのこと。しかも別に、そのケンカに負けたからと言って殺されりゃしないし、俺が耐えていれば済んでいく話だ。
「先生は新任だから、人一倍張り切っているのはわかるが、もっと肩の力を抜かないと……」
俺はそこまで言って、はっと気づいた。高野の目頭に涙がたまっていたのだ。
その瞬間、何も考えられなくなった。思考回路がイカれてしまった。
ただぼんやりと、高野を見つめることしかできない。
すると、高野は声を震わせながら言った。
「……私は……お前と遊びたいんだ」
今にも泣きそうで、つらそうな表情で。
「……お前に時間的な余裕が生まれたら……部活にも顔を出してくれるようになると思って」
目を真っ赤にして、まばたきを堪えるようにして。
「……それが協力する理由じゃ……ダメか?」
それでも、ぎこちない笑顔を作って、首を傾げた。
「――ッ!」
俺はこのとき、何か知ってはならないようなことを知ってしまったかのような罪悪感を覚えて、胸が苦しくなった。
と同時に、こんなことを思った。女の涙はヤバいと。それは反則だと。
俺が悪かったから、これ以上、泣き顔は見せないくれと。
切に願って、俺はこう言った。
「わかった! 実は俺もそろそろ部活に顔を出したいと思ってたんだ! だから先生! 姉さんの説得に協力してくれ! どうか頼む! なっ、なっ?」
なんて、柄にもなく必死になっていた。
そんな自分に対して、俺は並々ならぬ羞恥の念を感じていた。なんだって俺は、どうでもいいはずの年上の女に向かって、こんな恥ずかしいことを――!
けれど、そのかいあってか、高野の表情は瞬時に変化した。
「本当か?!」
それはもう見事に咲き誇る可憐な花のような笑顔だった。
天然記念物として、保全しておきたいくらい。
「本当だ」
だから俺は一秒でも長くその笑顔を見続けたくて、こんなリップサービスをしてやったのだ。
「そういやこの間、先生が課題を出したよな。俺たちが陸上競技を行う目的ってやつ。あれの答えを、今言ってもいいか?」
「……ほう」
指先で目元をぬぐいながら、高野は、「ぜひとも聞かせてくれ」と言った。
「俺が陸上競技を行う目的――それはな」
女にモテたいから。
ではなくて。
「俺も先生と遊んでみたくなったからだ」