桃姫の気分でゴー!
時間がどれくらい経ったろうか。やがて目の前の世界が、いつも通りの時間の進み方になっていた。
「――ッ!」
気がつくと、高速で流れていくコンクリートの地面が目と鼻の先にあった。
「ぎゃあああああああああああああああああああっ!」
たまらず俺は絶叫した。エンジンの轟音に負けないくらい。叫ばなければ、意識が飛んでしまいそうだった。
それからものの十秒ほどで地面の流れは止まった。
「ここまでくりゃ、お前の姉ちゃんでも追いかけてこられねえだろ」
一旦降ろすぞと言って、高野は宣言通り実行した。支えを失った俺は、重力の法則に従ってひざから着地した。落下速度かける体重が、ひざにのしかかる。痛い。
「でも、念には念を入れておいた方がいいよな」
そう呟いた高野はバイクから降りて、その座席下の収納スペースからヘルメットを取り出した。
「ほらメット被って、後ろに乗れ。このまま無茶な走りしてたら、別の連中に追いかけられる」
「………」
高野の声は聞こえていたし、意味も理解していたが、俺は高野を睨みつけたまま沈黙を貫いた。無論、その指示には従わず。
「……どうした?」
その物言い――無神経な問いを耳にした刹那、俺の理性は崩壊した。
「どうしたじゃねーよ! いきなり人をバックのようにひったくりやがって! お前女の片腕で持ち去られる男子の気持ちを考えたことあんのか! しかも高速で移動しやがって! 腕が離れたら即死だぞ! 即死! 女の細腕なんざこれぽっちも信用ならねーんだよ! 輪ゴムでバンジージャンプするよりも怖いわ! しかも今気づいたけど買い物袋どこかに落としたし!」
見上げて月に、つばをはき。
「これだから年上の女は嫌いなんだよ! がさつでむちゃくちゃでよお! つーかいっそのこと即死の方がマシだったわ! ぜってーあとで姉さんに怒られるもんな! 殴り蹴られて生き地獄を味わうもんな! ちくしょう!」
かがやく星に、ゲロをぶちまけ。
「くそっ! どうやっても俺の思い通りにならねえこの世界に! 俺は! この言葉をささげてやる! 本心から言ってやる! 滅べ! 滅べ滅べ滅べ滅べ滅べえええええええええええ!」
募りに募った鬱憤が口を飛び出て夜空に消える。
「……はあ……はあ」
広く深く真っ暗なそれが、優しく冷たく俺の本心を受け止めてくれた。
おかげで――すっきりした。王様の耳はロバの耳に登場する床屋も、井戸に向かって王様の秘密を叫んだ後は、こんな気持ちになったことだろう。なんて。
「………」
高野は呆然とした顔つきで俺を見ていた。
その反応はごもっともだ。目の前の教え子がいきなり発狂したんだからな。
そして好都合だ。高野が停止している間に、この場を去ろう。家に帰って、姉に謝ろう。何もかもをなかったことにしよう。そうだ。それがいい。
「……俺はもう、ごほっ、ごほっ!」
もう帰ると言おうとしたが、声が出ず、咳込んでしまった。何度も全力で叫びすぎたせいで、どうやら喉を痛めてしまったらしい。
「……んんっ! んんっ!」
あらためて言いなおそうと、喉の調子を整えている途中。
「……なんだ……お前」
高野は、ぽかんと開けた口から言葉を発した。
「いきなり頭がおかしくなってるし、いきなり敬語も使わなくなってるが……元気そうでなによりだな!」
わははははは、と豪快に笑う高野。いや、頭がおかしいのはお前も一緒だろう。さらに言うと、人を無理やり拉致するような女に敬語を使う義理はねえ。そいつがたとえ先生だとしてもな。
「しかし、九条。恨み節はあとで聞いてやるから、今は遠くに逃げることを最優先にしよう。お前の姉さんが執念で追ってきたらたまらん」
早口でそう言って、高野は俺の頭に無理やりヘルメットをかぶせた。
「ほら、後ろに乗せるぞ」
「いや、えっと、待ってくっ――!」
高野に首根っこを掴まれたと思いきや、次の瞬間、体が宙に浮いた。俺はケツからバイクの後部座席に落ちた。そのはずみで、俺の大事な部分が一瞬、ぐりんと変形した。
「ぐおおおおおあああああああっ!」
俺は悶えた。世界で大人気のモンスター育成ゲームで言うところの『急所に当たった』というやつだ。痛い、苦しい、なんてもんじゃない! 負の感情、負の感覚が、下腹部に一極集中する! 名付けて、悶絶金玉地獄!
しかし、その一方で。
高野は悶絶金玉地獄に苦しむ俺を無視して華麗なる動作でバイクにまたがり、自身の頭にもヘルメットを装着した。
「じゃあ行くぞ!」
ブォン! エンジンをふかす音が鳴り響いた瞬間、上体が後ろに持って行かれそうになった。
「うおっ!」
たまらず俺は高野の腹に軽くしがみついた。
「ちゃんと掴まれよ! ぎゅっとだ!」
高野はなぜか嬉しそうな語調でそう言って、右手をくいっと動かした。バイクが勢いよく加速する。
言われた通り、俺は彼女の腹をぎゅっと抱きしめた。その腹回りは、思いっきり抱きしめたら折れてしまいそうなくらい細い。どうでもいいが、この体躯のどこに俺を片手で持ち上げるような力が秘められているのだろうか。まったく謎めいた人である。
……ところでだいぶマシにはなったが、いまだ下腹部は痛い。この恨み、いつか必ずお返ししてやる!
「なあ、九条!」
風を切り裂く音があるので聞き取りにくいが、俺の名を呼ぶ声がした。
「なんだ?」と俺も力強く訊き返す。
「お前のいちばん好きな場所を教えてくれ!」
「なんで?」
「今日は一ヶ所だけでいいから、この町の案内をしてくれよ! 前に頼んでたろ?」
頼まれた覚えはあるが、引き受けた覚えはない。だが、いいだろう。俺はさきほど失敗した計画を再び実行するために、こう答えてやろう。
「ちなみに! お前の家は私も好きだが除外してくれよ!」
「……ちっ!」
思考の先を読まれていたか。食えない女だ。
まあ――いいや。もういい。この際、姉のことは忘れて、高野に付き合ってやる。無駄な抵抗はよして、ひったくり犯のお気の召すままに動いてやる。
俺は、高野のヘルメットで隠れている耳元に口を寄せて、行き先を叫んだ。
「俺のいちばん好きな場所は――」