反省会の後に
「――反省会は、こんなところにしておいて」
昨日完成したばかりの原稿のコピーをクリアファイルに入れながら、姉は言った。
「次回作のネームは、明日から描くわ。いつも通り、私はひとりきりで作業をするから、あんたは自分の部屋で、設定資料とキャラクター原案に目を通しておくこと。私の監視の目がないからって決してサボらないようにね」
「うん。全力を尽くすよ」
部屋のいたるところに落ちているペットボトルや栄養ドリンクを拾い上げながら、俺は答えた。
今さら釘を刺されなくても、サボるつもりは皆無だ。むしろ今の俺は、姉のサポートに並々ならぬ情熱を抱いているくらいなのだ。
いよいよ本格的に受験勉強を始めるためにも、姉には一刻も早く漫画家としての礎を築き、俺に代わるプロのアシスタントを雇えるようになってほしい。もしそれが叶えば、俺は晴れて受験生となり、勉強に集中できる。
目標は、そうだなあ。できれば夏休みまでには、その筋の関係者に認められるよう努力したい。
俺は、他ならぬ俺自身のために頑張るのみだ。姉も、他ならぬ姉自身のために頑張ってほしい。
心の底から、そう思う。
「さて、明日の打ち合わせも終わったし、ここらで終わりにしましょうか。今日もお疲れさま」
姉は椅子から立ち上がり、「……んっ」と両腕を上に伸ばして上体を弓なりにそらした。
その刹那、姉のお腹が鳴った。まるで弱々しい子犬が鳴くような、とても情けなく、かわいらしい音だった。
「なんか小腹がすいたわね」
姉は服の上からお腹をさすって、そう呟いた。
時計を見ると、十時を過ぎていた。六時に夕食を取ってから、もう四時間も経つ。腹が鳴ったりはしないが、俺の胃袋も若干の空腹を訴えている。
「お菓子のストックはまだあったかしら?」
「前回買ってきたのが五日前だから、母さんに全部食べられてるかも」
「たしかに。あの人は歩く駄菓子屋だもんね」
姉はやれやれと肩をすくめる。
「ここのところご無沙汰だったけど、あんたに夜食を買ってきてもらおうかな。頼まれてくれる?」
「うん、わかった。注文の品は?」
「いつものアイスといつものスナック菓子を五個ずつね――あっ、そうそう。ちょい待ち」
姉は思い出したようにそう言って、金色の長い髪を払った。
「最近あんたも色々と頑張ってるし、あれからあの女との妙な噂も聞かないから――今日は、あんたの好きなものをおごってあげるわ」
「……っ!」
思わず俺は息をのんだ。
『あれからあの女との妙な噂も聞かないから』という一言に、ただならぬ違和感を覚えたからだ。
この発言から読み取れる情報はただ一つ。やはり姉は、誰かを通じて俺と高野の行動を監視していたらしいということだ。
警戒しておいてよかったと安堵すると同時に、例の中瀬古の提案に乗せられて高野とコンタクトを取っていたらと思い、背筋が凍りついた。
「それとね。今まで手伝ってくれたお礼と」
狼狽を隠せない俺の心情を知ってか知らずか、姉はマイペースに言葉を紡いでいく。
「これからもよろしくという意味も含めて、これ」
ピンク色の長財布から五千円札を抜き出して、それを俺に手渡した。
「お釣りもあんたのものよ。いつも、ありがとね」
――とまあ、そんなこんなで。
姉の毒気のない笑顔に見送られ、俺はパシリの任務をまっとうすべく夜の田舎町へと赴いた。
足で地面をとらえて歩きながらも、足の裏がふわふわと浮ついたような感覚になっている。夜はまだ冷える季節なのに、身体の芯があたたかい。
姉のパシリをやっていて、こんなに気分が高揚したことは今までになかった。この新感覚は、いわゆる下僕(ないしマゾ犬)と呼ばれるアブノーマルな人種の抱く感情……じゃないのか。勘違いであってほしいが、ひょっとすると受け身耐性の変態性欲が俺の心の中で開花し始めているのかもしれない。
「いやいや、ねーよ」
自分で自分にツッコミながら、目的のコンビニに向かう。
「それにしたって、なあ」
俺はそう呟いて、自分の影に視線を落とす。
あれほど上機嫌な姉を見るのは、いつ振りだろうか。俺に容赦のない暴行を加えているときの姉は、それはそれはもう肉親の俺でさえ素敵に見えるほど良い笑顔をしているのだけれど、そういうシチュエーションではなく、ノーマルな場面における素の笑顔。
久しく見ていなかった。俺が小学校低学年の頃には、いつでも見ることができたはずなのに。
いつからだろうか。姉に脅えて暮らすようになったのは。
「いらっしゃいませー」
「……うわっ!」
俺は声を上げて、我に返った。考え事をしていたせいで、コンビニの中に入っていることに気がつかなかった。
視界の端で、男性店員が不思議そうにこちらを見ているが、気にしないでおこう。
俺は気恥ずかしさを隠すため、早足で店内を歩きまわり、スピーディーに買い物を済ませた。
「ありがとうございましたー」
との声を背に受け、逃げるように店を出た。
すると、ようやく顔の火照りが収まる。
「……ふう」
一息ついて、再度歩き始めながら、物思いにふける。
次の考え事は、さっきとは違うテーマ。今日の日中のことだ。
目下、俺が懸念している人物は、中瀬古と高野である。今後、彼らの動向によって、夏までに姉を漫画家デビューさせる計画が、台無しになる可能性がある。だから俺はどうにかして彼らの動きを封じたい。
でも、どうやって彼らの動きを封じればいいのか。
中瀬古は暴力によって従わせることができなくなったし、説得できる材料も見当たらない。高野はそもそも接触することすらかなわない。
『俺に関わらないでくれ』
彼らがその言葉を聞き入れてくれるだけで、すべて丸く収まる話なんだが、そう簡単に事が運ぶとも思えない。もっとも、これはあくまで俺の憶測に過ぎないが、中瀬古はすでに高野を説得しているはずだ。
『九条姉弟は、いつもああなんですよ。だから心配せずに放っておきましょう。関わるだけムダですよ』
みたいな感じで。これでも長年の付き合いになるしな。あいつは俺のことをよく知っているし、俺もあいつのことはよく知っている。
それに、あいつは今日の会話の最中、こう言っていたからな。
『俺は正直お前のことなんかどうでもいいんだが、高野先生には協力しようと思っている』
この発言から察するに――つまるところ、あいつは高野の説得に失敗したのだ。なぜ失敗したのか、なぜ高野が説得に応じなかったのかは、当事者たちに聞かなきゃわからないが。
ともかく。
いずれ高野と中瀬古の二人が何らかの形で、俺に関与してくるだろう。そしてその後、高野と接触していた事実が間違っても姉に知れたら――俺は終わりだ。
いやはや。前途は多難である。
どうしたもんかねーなどとあれこれ頭に考えをめぐらせながら歩いていたら時間はあっという間に過ぎた。ここから数メートル先の角を曲がれば、自宅に面した道路に出る。玄関に着くまで、あと一分もかからない。
「ん?」
自宅前にさしかかったところで、バイクにまたがる人のシルエットが見えた。全身黒ずくめで、頭にはフルフェイスのヘルメットをしている。怪しさ満点の不審者だ。体格は細身で、身長は俺より低い。乗っているバイクは、車種はわからないが大型で真っ赤なボディ。
俺は足を止めて、次のアクションについて思案した。
あえて不審者に接触してみるか。それとも不審者がここから立ち去るまで待つか。
安全なのは後者だが、いかにも怪しげな人物を、みすみす逃していいものだろうか。……否、だめだろう。文字通り、不安で夜も眠れなくなる。
だとすれば前者を選ぶしかないが、もし不審者が物騒な行動に出ることがあれば、肉弾戦になるのは避けられない。多少の危険が伴う。
バイクに乗っているということは、不審者は少なくとも十八歳以上の人間だが、見た目はそれほど強そうじゃない。きっと俺でも勝てる。
まあ最悪ケンカに負けたとしても、家の外が騒ぎになれば、姉が出てきて退治してくれるはず。あいにく両親は出張で、二人そろって家にはいないが、姉がいれば十分だ。暴漢の一人や二人、合気道の達人の敵ではない。
しかしながら、不審者は俺の家を眺めて、一体何を企んでいるのだろうか。
まずはいきなりグーパンチで質問するようなことはせず、日本語を使ってその意図を問いただしてみるか。
俺は不審者に気づかれないよう警戒しつつ、背後から間合いを詰めた。
「おい」「――ッ!」
声をかけると、不審者は機敏な動きで、こちらを向いた。
「俺の家に何か用か?」
さらに、高圧的な口調で問うてみる。さあ、どう出る。不審者さんよお。
「……………………」
長い沈黙の末、不審者はこもった声で――
「九条か」
俺の名を呼んだ。その声は、聞き覚えのある特徴的な女性の声だった。
「……ひ、ひょっとして、高野……先生ですか?」
まさかの人物の登場に、俺がうろたえながら訊ねるや、不審者は返事の代わりにヘルメットを外して、その顔を見せた。
「よっ、また来ちまったぞ」
そう言って、いたずら小僧のような笑みを浮かべた人物は――高野だった。
「どうして……ここに……?」
「……いや、えっと」
高野は照れたように頬を人差し指でかきながら、こうのたまった。
「中瀬古に止められたんだが、どうしてもお前と話がしたくてな」
「……っ!」
俺は一瞬で自分の顔が熱くなるのを感じた。心臓が跳ね上がり、今にも口から飛び出しそうな勢いだ。
「で、家の中にいるかと思ったら、いきなり背後から現れたからびっくりしたぞ……というか、顔が真っ赤になってるみたいだが大丈――」「大丈夫です!」
俺は喰い気味に答えて、高野の声を遮った。指摘されたら余計に顔が熱くなる。何とかごまかさないと。
「て、てか、びっくりしたのはこちらの台詞ですよ。全身真っ黒のライダーが、自宅の家の前に立ってるから、何事と思い……あ」
心境を吐露しつつ、ふと気づいた。俺は今、姉のいる自宅の真ん前で、高野と接触してしまっている! この上なく最悪なシチュエーションじゃないか!
「今度は顔を青ざめて。一体どうしたんだ?」
言いながら、高野が首をかしげた――そのときだった。
「外で何やってんの? お客さんなら家に招き入れなさいよ……って、えっ?」
声と同時に玄関が開き、姉がまばゆい光を背にして現れた。大きな目を真ん丸にして。
直後――目の前の世界が、まるでコマ送りのように進んだ。
「逃げるぞ」
高野のささやき声が聞こえた。爆発的なバイクのエンジン音が鳴り響いた。
「京子さん!」
高野が姉の名を叫んだ。俺の体が地面と平行になった。高野の左腕で、お腹をがっちりとホールドされる形で。
「高明くんを、少しだけ借ります!」
ブゥンッ! ブゥンブンッ! バイクを吹かす音が鳴るたび、コマ送りの世界が加速した。
かくして――俺は拉致された。
高野香奈という、型破りな新米教師の手によって。
そして後に、この行動が、とんでもない騒動の引き金になるだなんて。
このときの俺が思いもしなかった……のではなく、思いもしたくなかったのは言うまでもない。