再現
そんな一悶着があった後、俺は会議室に呼ばれ、栗山を含めた四人の教師と話し合うことになった。そのときにはすでに、俺も栗山も冷静になっていたので、今さら口論するまでの事態にはいたらなかった。
俺が淡々と状況を説明して、栗山の心のこもっていない謝罪を聞いて終了。会議室から出る頃には、帰りのホームルームのあとにある掃除の時間になっていた。
「……さっさと帰るか」
呟いてから、教室を目指して廊下を歩いていると、思わず顔をしかめてしまうような光景を目の当たりにした。
階段の踊り場で、高野と中瀬古が喋っていたのだ。
俺はとっさに踵を返して逃げようとしたが、こちらに気づいた中瀬古がダッシュで追いかけてきた。
「おい! 九条、待てよ!」
「うっせえ! こっちくんな!」
望んでもいない鬼ごっこが始まった。あちらこちらで掃除をやっている人がいるので、彼らを避けながら走らなければならない。
誰かとぶつかるのは嫌なので、力をセーブしつつ足を動かす。
「おい、陸上部! 待てよ! お願いだから待ってください!」
早くも中瀬古の息遣いは荒くなってきている。
人気の少ないエリアに差し掛かったところで、俺はここらで加速して、中瀬古に格の違いを見せつけてやろうかとした――そのとき、中瀬古が叫んだ。
「妹の、写真、やるから!」
「……な、に?」
無意識のうちに俺の足は止まっていた。「妹の写真」という声に止められた。
止まらざるを得なかった。
なぜなら中瀬古の妹は――俺の嫁の第一候補者であり、彼女の写真とあらば、俺は臓器を売ってでも手に入れたい代物だからだ。
「……はあはあ……ようやく止まったな」
肩を上下に動かして息を整えている中瀬古に向かって、俺はさっそく言い放った。
「さて、中瀬古。待ってやったんだから、さっさと写真をよこせ」
「……はあはあ……わかった。……こんなこともあろうかと……用意しておいてよかったぜ」
中瀬古は荒っぽい手つきで胸元から一枚の写真を取りだし、それを人差し指と中指で挟んで投げてきた。
受け取った写真には、たしかに、彼の妹――中瀬古菜月の姿が映されていた。今度は、俺が「はあはあ」する番だ。
小学五年生。黒髪のショート。整った顔立ち。透き通るような白い肌。小柄で細身の体格。性格がやや生意気で、照れ屋なところも、ポイントが高い。近寄ると、ほのかに柑橘系の香りがする――ような気がする。俺の目の前にいる男が兄貴であるという事実さえデリートできれば、彼女は俺にとって超理想的な女の子になる。
余談になるが――だから俺はいつも中瀬古の心臓のリモコンを探しているんだよ。実はね。
「写真はありがたくいただいたが……ところで俺はいつまで待ってりゃいいんだ?」
早く帰って昨日投稿した漫画の反省会をしなきゃならない。ゆえに、こんなところで長々と拘束されるのはごめんだ。
「長々と待たせるつもりはねえが」
中瀬古はすうっと大きく息を吸って、
「お前に聞いておきたいことがあるんだ」
真剣な声色で言った。
中瀬古がマジな顔をしているときは大体ロクな展開にならないんだが、非常に高価な写真をもらった手前、その要求をあっさりと断ることはできない。
「わかったよ」
俺はしぶしぶ要求を呑んだ。
「でも、手短に頼むぞ。俺は忙しいからな」
「……忙しい、な」
中瀬古は含みのある口調で呟いて、「わかった、手短に」と約束した。
「これはついさっき高野先生から聞いたんだけどさ。最近、いろんな教科の教師たちが、口をそろえてお前の授業態度について、グチってるみたいなんだよ。あいつは教師をナメてんのか、と」
「まあ、授業中はずっと寝てるからな」
そりゃ怒って然るべきだろう。言われなくても、自覚している。
「それで高野先生がお前のことを心配してたんだ。家庭で何かあったんじゃねえかって」
「………………」
俺は何も言い返せなかった。中瀬古の言ったことが図星だったからだ。
「俺は正直お前のことなんかどうでもいいんだが、高野先生には協力しようと思っている」
「……ご苦労なこった」
どうせ無駄な努力なのに――と俺は心の中で呟いた。
「だからな、九条。お前を心配している高野先生に協力したいから。お前に確認を取っておく」
「それはさっき聞いたぞ。聞きたいことがあるんだろ? お前、ボケてんのか? さっさと本題に入れよ」
軽口を叩いてみるが、中瀬古の表情は依然として変化なし。それどころか、心なしかさっきよりも真剣みが増している。
中瀬古は重々しい口調で、こう言い放った。
「お前の抱えている事情を、高野先生に伝えていいか?」
「前にも言ったが、やめろ」
俺はきっぱり断った。
「もしそれがきっかけで、高野が俺の問題に関わってきたら、それこそ大問題になる。姉さんの怖さはお前もわかってるだろ?」
「まあな」
中瀬古はうなずいた。
「でも、わかってるからこそ、これだけは言える。お前の姉さんに対抗できる人物は――俺の知り合いでは高野先生しかいない」
「姉さんに対抗できる人物は……高野しかいない?」
「ああ」
中瀬古は自信たっぷりの顔で、もう一度うなずいた。
「この間、俺は高野先生の真の強さを知ったんだよ」
「……お前が高野に蹴られて痛い目に遭った日のことか?」
「いや、それじゃない。お前は知らないエピソードだ。俺と高野先生との二人だけの秘密だから詳細は言えないが――高野先生はとにかく強い。色んな意味で強い。口論も、ケンカもだ」
たしかに高野の実力は計り知れないものがある。言われてみれば、姉も高野の存在を脅威に感じていたしな。だからこそ、姉は「あの女と関わるな」と言ったのだろう。
「だからさ、九条。悪いことは言わねえ。お前の姉さんを説得したけりゃ、高野先生を頼れ。お前の抱えている問題を解決したけりゃ、高野先生を頼れ。逃げず、隠さず、すべて打ち明けちまえよ。あの人なら――お前の力になってくれる」
実際に俺も助けられたんだ――みたいな、やけに気持ちのこもった声で、中瀬古はそう言った。
「………………」
俺は数秒、思案した。……なるほど、中瀬古の主張はわかった。
「まあ、そうだな」
だから俺は本音で答えてやる。
「きっとお前の提案は正しい。高野は姉さんに対抗できる。それは認めてやる」
「だったら、伝えてもいい――」「でもな」
ぱあっと表情を輝かせた中瀬古を制止して、俺は答えを告げた。
「勝率のわからない勝負には賭けられない。失敗したときのリスクがでかすぎるからな」
それに――と前置きして、俺は続けた。
「実際、高野は姉さんの説得に失敗している。失敗の原因はお前によるものだが、その事実は誰にも覆せない」
俺にとっては、それがすべてだ。だから中瀬古の主張する成功例に、全幅の信頼を置くことはできない。
「俺が本当に信頼できるのは、俺が見てきたすべてだ。重要な場面では、自分の見てきたもので判断したいんだ」
言い切って、俺は中瀬古の目を見据えた。これ以上、何も言うことはない。
「……………………」
中瀬古は長い沈黙の後、「……そうか」と言って、納得の意を示した――かと思いきや、
「……これだけ説得してイエスと答えないなら、強硬手段しかねえな。つーか、そもそも確認を取る必要なんてなかったんだよな」
とんでもないことを言い始めた。この数分間のやりとりを無駄にすることを示唆した内容だった。
「な、何言ってんの、お前?」
中瀬古得意のつまんねえギャグなのかと思い、俺は訊ねる。
「あ? 独り言だから気にすんな、お前には関係ねえ」と、中瀬古。
平然とした顔つきで答えやがった。
「いやいや関係ないことないだろ」
あえて俺に聞こえるようにふざけたことを抜かしやがって。もしや、強烈なアキレス腱固めがご所望なのか?
「俺が誰に何を言おうが言うまいが、俺の勝手だ。誰にも制限されるこたあねえ」
「……おい、これ以上ふざけんなよ。中瀬古」
さすがに本気でカチンときたので、俺は脅しの意を含めてこう言った。
「もう一度痛い目に遭いたくなけりゃ、高野には言うなよ」
「……いいぜ、やってみろよ。もし痛い目に遭わされたら、すぐに……いや――あえて言わなくても、俺の言わんとすることはわかるよな?」
中瀬古は不敵な笑みを浮かべた。
「教師に殴られてこっそり笑ってるような、お前ならな」
「……くっ!」
俺は歯噛みした。中瀬古の発言は想定外だった。不良の番長であるところの中瀬古だけは、自分のメンツを守るために、決して『正義の力』を借りることはないと思っていた。だから今までは、こいつよりも肉体的な力が強ければ、こいつには勝てると思っていた。
しかし、ここにきて形勢は逆転した。
「アキレス腱固めでもなんでもいいからやってみろよ! ケガしたらすぐさま警察に通報してやるぜ! 何なら思いっきり殴ってみてもいいぜ! それこそお前の家族にばれたら大問題になるからな!」
中瀬古は挑発を続けた。正論で俺を攻め立てた。そして、対中瀬古との戦いにおいて全戦全勝の俺を窮地に追い込んだ。
その結果――
「……望むところだ」
俺は自棄になった。何もできずに中瀬古に負けるのだけは嫌だった。せめて――
「俺の名を思い出したくなくなるまで、殴ってやる!」
そう叫んで、強く拳を握りしめた直後だった。
「――お前ら、またケンカしてんのか?!」
それはまたしても不意のことで、背後から高野のハスキーな声が響いてきた。
振り向くと、荒く呼吸をする高野が、十メートルほど離れた場所に立っていた。
これは――多少の違いはあれど、まるで高野と初めて出会った場面を再現したかのようだった。
俺は硬直しかけたが、あのときの二の舞を踏むつもりはなかった。
「……っ!」
自分の意志とは関係なく震え始める両足を制御し、
「あっ!」
と高野が叫ぶ間もなく、俺はその場から全力で逃げ出した。
カバンを教室に置いたまま。
後先考えずに校舎を飛び出し、家に向かったのだった。