小さな安息みーつけた
学校では高野から逃げ続ける日々を過ごし、一方で、自宅では姉の漫画の手伝いに追われる日々を過ごしている。休まる暇がないとは、まさに今、この瞬間のことを指すのではないだろうか。
一応これでも今年からは受験生の端くれになったのだが、勉強に集中できる時間は一向に取れていない。授業中も、連日の徹夜で消耗した睡眠時間を確保するべく、机に突っ伏して安眠している。おかげで、各教科の先生からは、腐ったみかんに向けるようなまなざしをちょうだいすることしきりである。
元より真面目に勉強をするタイプではないが、将来のために備えておくことの重要性は、アリとキリギリスの童話によって十分に教育されている身だ。このままの状態で受験をすれば、まず間違いなく惨憺たる結果が出ることは想像に難くない。小学生でもわかる話だ。
俺は、自分の将来が不安だ。
不安はストレスを生み出す。同じく睡眠不足もストレスを生み出す。
ストレスから逃れるために、現実から逃避する――と、結局、目先の問題は解決されず、それがさらなる不安の要素となり、ストレスが生まれる。
俺はこれを『ストレスの悪循環』と呼んでいる。
昔、親父からよく聞かされた話だ。
「問題から逃げるな、立ち向かえ。自分で精一杯やって、それでもダメなら人を頼れ。それでもダメなら、最後は俺が助けてやる」
なんて、やけにカッコイイことも言ってたな。
しかし、そんな威厳のある親父ですら、姉に対しては無力なのである。
ある日、俺は見てしまったのだ。
親父が年頃の娘に反抗されて、「女の問題は、どうもならん。難しい」と母に向かって弱音を吐いているところを。
だから俺が、親父に「姉さんが無理やり俺を漫画のアシスタントにしようとするんだ」と打ち明けようにも、それは文字通り無理な相談というわけだ。いくら頼っても、助けてもらえない。
かくして俺は、ストレスの悪循環にはまってしまっている。それは、決して自力では(他力を使っても)抜け出すことはできず、姉が漫画家としてデビューするまで終わらないだろう。願わくば、今週の選考を通過して欲しいものだが、素人目から見ても、それは難しいように思えた。
今は耐え忍ぶ時期だ。研鑽を重ね、まだまだ粗削りな画力を高めていくことに専念すべきだ。
――というような感じで。
眠い頭を働かせ、自らの心境と姉の漫画を分析していた、とある日の授業中。
その授業も残り数分となったところで、俺は睡魔に負けてしまい、無意識の世界へと旅立った。
「最近ずっと寝てるよね」
臼井のあきれたような声によって起こされた。周りの声がうるさいので、今はきっと休み時間だ。俺は机に突っ伏しながら答えた。
「いや、実は後ろの女子のパンツを覗いてるんだよ」
「はあ? 角度的に無理でしょ」
急な下ネタにも全然引かずに立ち向かってくる臼井は……空気が読めねえやつだなと思う。悪いが今だけは、俺のことを気持ち悪がって、どこかに行ってほしい。誰の妨害も受けずに、ずっと眠っていたいんだ。
「念写ならぬ念夢でパンツを見るという境地を開拓しようとしてるんだよ」
「……ちなみに、今日の私のパンツの色は?」
「悪夢は見たくない」
「永眠させてあげようか?」
臼井は明るい声で言った。けど、たぶん顔は怒ってるはずだ。このまま怒って、どこかに行ってくれ。頼むから。
「眠そうなところごめんね。でも、ひとつだけ質問してもいい?」
「……おう」
臼井らしからぬ優しげな声が聞こえたので、思わず返事が遅れてしまった。
「今週の日曜日、陸上の記録会があるんだけど、アンタは出場する?」
「パスで」
今度は即答した。そもそも出場するつもりはなかったが、その日はあいにく漫画の応募締切日なのだ。
「……そっか。わかった」
臼井は――これまた臼井らしからぬ慈悲深さを感じさせる語調で言った。
「アンタが何やってんのかわかんないけど、暇になったら陸上部にも顔出しなさいよ」
「……ああ。幽霊部員が突然化けて出て、みんなを驚かせてやるよ」
「今の顔色の悪いアンタが言うとリアルすぎて怖いんだけど……ま、無理せずに頑張んなさいね」
ばしんと背中を強く叩かれた後、臼井が離れていく足音が聞こえた。
……空気が読めないやつめ、と思ったのは改めるしかない。
いつの間にやら、ずいぶんと気の利く女性になったんだな。
陸上部主将という立場が臼井を成長させたのか。あるいは、それ以外の要因によるものなのか。わからないが、ともかく、俺をちょっぴり元気にさせてくれてありがとう。
などとは、面と向かっては絶対言えないし、心の中で言うのもどこか恥ずかしいので、何も思わないでおく。
俺はただ、安らかに眠るだけだ。
そう。ストレスに弱く、長時間泣き叫ぶ赤ん坊のように、ひたすらに眠るだけだ。