高野vs姉
自宅前に立っている電灯が、ちかちかと不規則に点滅している様子を、俺は何となく見つめていた。
コツコツコツコツ。ハイヒールとコンクリートのぶつかる音が近づいてきた。
「あっ、先生。こちらです」
「おっと、ここか。地図を見るのが苦手で予想以上に遅れてしまった。すまない」
高野は早足で現れるや、地図を持つ手で手刀を切った。どうでもいいが、彼女はいちいち挙動がオッサンっぽい。
「ほう、ここがお前の家か。ずいぶん立派な家だな。というか、どうしてそんな落ち込んだ顔をしてるんだ? まさか門限を破ったせいで、もうすでに家から放り出されたのか?」
「……いえ、違います」
心配されるほどのことではない。マキちゃんに間違った名前で記憶されたことに落ち込んでいるだけなのである。今日の晩飯はトリカブトの煮付けだったらいいなあ。
「ついさっき到着したばかりなので、家の中には入ってません」
ついさっきと言っても、もう数十分は経つけどな。
寒空の下、高野のことをずっと待っていたのだ――と言うと、まるで恋愛小説のような響きになるが、自宅に入らなかった理由は生命の危機を感じるからだ。別の意味で、心臓がどきどきしている。
「そうか。なら、さっそく行くか」
「あっ、ちょっと待ってください」
俺はすたすたと歩きだす高野を制止した。
「ん、どうかしたか?」
「ウチの家族に会う前に、先生に一つだけ忠告しておきます」
「……おいおい、やめてくれ。私はびびりなんだぞ」
高野は言いながら、俺の眼前に手の平をかざした。
「ほら見ろ。今も手汗が尋常じゃないんだ。あまり私をびびらせないでくれ」
見ると、手の平が汗でじっとりと濡れていた。一見、涼しげな表情をしている彼女だが、内心は穏やかじゃないのか。そういや今朝の対面式でもひどいありさまだったもんな。クールな顔して人一倍、緊張してそうなタイプだ。
思い出して――胃袋をぎゅっとつかまれたような感じがした。
「えっと……びびらせるつもりはなかったのですが、ウチの家族は全員変わり者なので、そのことだけは事前にお知らせした方がいいかなと」
「ほう、変わり者か」
高野の表情が和らいだ。
「私も知人からそう言われることがよくあるな。お前は変わっているぞ、と。ちなみに聞いてみたいんだが、お前も私のことを変わり者だと思うか?」
「……いえ、外見も内面も普通の女性らしいと思いますよ」
挙動や口調はおっさんみたいだけどな。それは言わないでおく。
「そうか。見え透いたお世辞とは言え、うれしい」
高野は目を細めて子どもっぽく笑った。
「何度も気を遣わせて悪いな。おかげで交渉も頑張れそうだ。では、行くぞ」
「……はい、お願いします」
高野がインターホンを押した。家の中から、ピンポーンと音が聞こえる。
呼び鈴が鳴りやむと、「どうぞ」と声が返ってきた。姉の声だった。
姉は玄関先にいる。きっと俺を待っていた。待ち構えていたのだ。何ために――なんて、怖くて口にできねえよ。
「お邪魔します」
高野が玄関のドアを開くと、その向こうに姉の姿が見えた。姉は仁王立ちのポーズで禍々しいオーラを全身にまとっていた。しかし、高野に目を向けるや、驚きの表情を浮かべて、「へっ?」と間抜けな声を出した。
「私、宮山中学の高野と申します。事前の連絡をせずに押しかけて誠に申し訳ございません」
高野は深々とおじぎしながら、立て続けに言葉を紡いだ。
「本日は急遽、九条さんのご自宅に家庭訪問に参りました」
「……は、はい」
姉はぽかんと口を開けていたが、高野が頭を上げると、すぐに顔を引き締めた。
「えっと……愚弟のために、わざわざご足労下さり誠にありがとうございます」
そして意外にも、慇懃な挨拶を返した。
「しかし非常に申し上げにくいのですが、両親は仕事の都合上、現在自宅にはおりません」
「え……あっ、そ、そうですか」
高野は振り返り、困惑した顔でこちらを見た。おいどうすんだ――とでも言いたげのご様子であるが、さあどうしたらいいんだろうね。俺にもわからない。
思えば気が動転していて注意を払っていなかったが、自宅前の駐車スペースに両親の車はなかった。今日に限って二人とも帰ってくるのが遅いとは、何とまあタイミングの悪い。
しかし、今さらそれはどうしようもなく、ここで簡単に引き下がってもらっちゃあ困るので、俺はファイティングポーズを作って、高野に頑張れとエールを送った。ここからが勝負だ。
――と、そんなことを思っていたら、姉からこんな提案が飛び出した。
「あの、高野先生ですか。せっかくわざわざおいでなさったのですから、私でよければ先生のお時間が許す限りお話をうかがいますよ。その最中に両親が帰ってくれば、そのままお話を両親に引き継げばいいですし、高野先生がお帰りになるまでに両親が現れなければ、私から両親にお話を伝えておきますから」
俺はこのとき、奇妙な違和感を覚えた。
考えてみればおかしいのだ。来週の末に控える漫画大賞の応募締め切りに追われている多忙な姉が、俺にまつわる案件に応じるなんて。姉ににとっては時間の浪費以外の何物でもない。
しかし、なぜだ? わからない。
「いかがですか?」
「……願ってもないご提案ですが、その」
高野は言いよどんで、またもやこちらを振り返った。そのときだった。
「ねえ、高明もそれがいいと思うでしょ?」
姉は――姉にあるまじき猫なで声を発した。俺は確信した。この後、とんでもないことが起こるだろうと。また同時に、それを回避する術がないことも。
「……はい」と俺は答えた。
弟は、姉の命令には絶対に従わなくてはならない。とんでもない被害をこうむることがわかっていても、やむなくそれを受け入れなければならない。背くことは決して許されない。
なんでって?
そう問われると、もはやテンプレートになった答えしか返せない。
察してください。死にたくないんです。もう一度言う。死にたくないんです。
「さあ高野先生、どうぞお上がりください」と、促す姉。
「……ええ。それではお邪魔します」
高野は家に入る間際、こちらを一瞥した。俺はとっさに指で輪を作り、はにかんだ。でも、うまく笑顔を作れた自信はない。
高野に続いて、俺も家の中に入った。玄関の脇に立っている姉を横切る――瞬間だった。
「童貞のくせになかなかいい女を連れてきたじゃない。今日の晩御飯はお赤飯ね」
俺の耳元で、姉がささやいた。
「アンタの血で炊いた」
「…………」
まあ。
お赤飯に使われる小豆と血液に含まれている赤血球はよく似ているから、それもアリか――なんて悠長なことを考えている場合じゃない。
俺は何ということしてしまったのか!
目先の利益しか見えていなかった。他人の力に頼って門限が遅くなればいいなー、くらいしか思っていなかった。過去を思い起こせば、こうなることは事前にわかっていたじゃないか。
昔から、俺が女の子を家に連れてくると、姉は烈火のごとく怒り狂うのだ。
怒りの理由はその時々によって変化するので、姉がなぜ怒っているのか、本当のところはわからないのだが。
……ともかく、ミスった。
もはや負け犬の遠吠えにしかならないが、やはり年上の女性と一緒にいると、どうも調子が狂ってしまう。こんな初歩的なミスをするなんて。
最悪な事態を招いてしまった俺に、はたして『今後』があるのかどうかは定かじゃないが、事は慎重に計画せねばならんと肝に銘じておこう。こんなあやまちは、二度と繰り返してはならない。
「高明、リビングまで先生を案内してあげて」
という姉からの指令が出たので、俺は高野を追い越してリビングに向かった。
リビングに入ると、後ろから姉の声が飛んできた。
「先生、そちらのソファーにお座りください。私はお茶を淹れてきますので、少々お待ちください」
「あっ、お構いなく」
姉の姿がキッチンに消えたところで、俺と高野は並んでソファーに座った。
すると、いきなり高野のひじ鉄が俺の脇をこづいた。
「驚くほどできた姉だな。まあ、変わっていると言えば、変わっているが……」
高野の耳打ちに、俺はどぎまぎしつつ、うなずいた。正直、俺も驚きだ。いつ、どこで礼儀作法を習得したのだろうか。
そんなこんなが気になるが、今はどうでもいい。これ以上、姉の逆鱗に触れぬよう細心の注意を払おう。集中だ、集中。心を研ぎすませろ。
「お待たせしました」
御盆に三つの湯のみを乗せて、姉がやってきた。
「粗茶ですが、どうぞ」
言いながら、慣れた手つきでテーブルに並べた後、姉は俺たちの向かいのソファーに腰を下ろした。
「ありがとうございます。いただきます」
高野の言葉を合図に、俺たちはそれぞれ手元に置かれた湯のみを持ち上げて、熱い緑茶をすすった。
「さて」
真っ先に姉が口を開いた。
「お話をうかがう前に……申し遅れました、私、高明の姉の九条京子と申します。以後、お見知りおきを」
「はい、こちらこそよろしくお願いいたします」
二人は落ち着き払った様子で、頭を下げ合う。
「では、要件をお聞かせ願えますか?」
「かしこまりました」
高野はすうっと息を吸った。
「単刀直入に申し上げます。高明くんの門限について、お話があり、ここにやってまいりました」
「弟の……門限ですか?」
姉の眼球が一瞬、俺の方を向いた。お前、この女に何を言った――とでも考えているに違いない。おおっ、マジで怖い!
「はい。事情は高明くん本人から聞きました。昨夜、彼の門限が午後五時になってしまったと」
「そうですね。家族会議の末、そのような決定が下されましたが……それに関して何かおっしゃりたいことがあるのですか?」
高野は毅然とうなずいた。
「まさしくその通りです。ちなみに京子さんにおうかがいしたいのですが、高明くんの門限が早くなった原因は、昨夜、彼の帰りが遅かったからですよね?」
「ええ、そうですよ」
「実はその……彼の帰りが遅れたのは、私のせいなんです」
「……なるほど。もっと具体的に教えていただけますか?」
姉の表情がひときわ真剣になった。ここからが説得の正念場だ。高野先生、頼むぞ!
「はい。高明くんと出会ったとき、お恥ずかしながら、私はひどく酔っぱらっていました。明日に控えた初勤務のプレッシャーを紛らわすために、たくさんお酒を飲んだからです。しばらく記憶を失くしてしまうくらい」
高野が照れたように頭をかいた。姉はくすっと笑った。
「居酒屋の帰り道でした。気がついたときには高明くんに介抱されていました。彼には本当に悪いことをしたと思います。彼は『私を介抱していたせい』で帰宅が遅れたのですから」
実際は少し違うけどな。
高野は俺のプライドを守るために、一部の情報を変えてくれている。これで俺が泣かされたことは誰にも伝わらない。俺と高野の二人だけの秘密だ。
……先生、ありがとう。
「そして先ほど申し上げた話の冒頭に戻りますが、本日、私と高明くんは宮山中学校で再会し、会話をする中で、門限が短くなってしまった旨を聞きました」
高野は目線を上に向けた。
「そこで私は思い立ちました。これは何としてでも家族の方に事情を説明して、彼への誤解を払拭しなければ。ということで、こうしてやってきた次第なのです」
「そういう経緯がございましたか」
姉はため息をついた。
「実は昨晩、帰宅が遅れた理由を高明に言及したのです。でも、なぜか高明は何も言わないので、私も両親も困り果てていたのです」
「それはもしかすると……私に気を遣って……」
「たしかに弟は妙に他人に気を遣うくせがありますからね。それが姉として誇らしい部分でもあるんですけど……それはさておき」
姉はごほんと咳払いした。
「これで事情がはっきりしました。両親に報告すれば、十中八九、門限は通常通りになることでしょう」
「そうですか。それはよかったです。これで高明くん、明日から心置きなく部活動に参加できますね」
「…………はあ」
完全に忘れていたが、部活なるものもあったな。
……まあ、門限を元に戻してくれたし、何度か顔を出すだけならいいか。
「では、一件落着ということで、私はお暇させていただきます。お茶、美味しかったです」
高野がすっと立ち上がり、深々と頭を下げた。
「再三になりますが、ご迷惑をおかけして誠に申し訳ございませんでした。そして今度とも、どうぞよろしくお願い申し上げます」
「こちらこそ、わざわざお越しいただいて感謝しております。今後とも、弟共々よろしくお願いします」
俺は姉の声に合わせて、頭を下げた。
――ふう。
高野のおかげですべてうまく行った。これにて一件落着だ。
……なんて幻想は、すぐに打ち砕かれることになる。
「それでは、失礼します」
ばたんと扉が閉じ、玄関先から高野の姿が消えたとき、姉が無機質な声で、こう言い放ったのだ。
「――さて、本当のことを教えてもらいましょうか」