シルヴィの「添削」日記
シルヴィの日記が始まった理由。
シルヴィは満足気に小鼻を膨らまし、ペンを置いた。――と、木彫りのカップに手が当たり、底に残っていた茶がこぼれる。
「あっ!」
彼女は慌てて今まで書いていた日記を持ち上げた。どうやら濡れてはいないようだ。わずかに安堵の息をつき、机の上を布で拭く。そして糸で綴じられた羊皮紙を確認するようにめくった。
「良かったー、濡れてない。……うわぁ、下手くそー」
ある種の感嘆の声を上げる。そこには、シルヴィがこの日記を書き始めた最初の文章が、ミミズの這ったような跡をつけて書かれていた。ところどころ誤字もある。そして、片隅にはヴァレリウスの几帳面な字が添削として入っていた。
この日記は毎日書いてはいないし、日付も適当。けれど、書き始めて十年余り経って分厚くなった羊皮紙を、シルヴィは捨てられずにいた。
「ふふ……」
シルヴィはミミズと几帳面な文字を指でなぞる。これらも全部、全部大切な思い出だ。
※※※
「……シルヴィ。字の練習をきちんとしろ。今書けないと後で苦労するぞ」
言いながらヴァレリウスは羊皮紙とペンを目の前に突き出した。眼光は鋭くシルヴィを射抜いている。
だが。
「……やだ。れんしゅう飽きた」
ふい、とシルヴィは口を尖らせて横を向いた。
「……単語を十ずつ書いておけと言ったろう」
「たのしくない」
シルヴィに課せられた宿題。ヴァレリウスが仕事や狩りや買い物に行っている間、「やっておけよ」と渡された羊皮紙。それは途中までは書いてあったが、半分は落書きで埋まっていた。
はあ、と深いため息が聞こえる。シルヴィは視線だけをヴァレリウスに向ける。
(……おこればいいのに)
口を尖らせたまま、シルヴィは思った。
がやがやと人の往来が激しい通りを歩く。
(……俺の教え方が悪いのか……?)
ヴァレリウスは市で食材を見ながら思案にふけっていた。
(字の読み書きは行きていく上で必須だ。なのになぜアイツは嫌がる――?)
西の大国で「やらかした」シルヴィを隠すには、同じところにずっとは居られない。今の季節は晩冬。雪が溶けたら移動しなければ。長期滞在している今がゆっくり教えられるチャンスだ。
だというのに。
はあ、とため息をつきながらヴァレリウスは形が悪く値段の安い冬野菜を手に取った。
「……そーなのよ。最近反抗期なのかしら!」
ふと、同じく買い物をしている主婦の会話が耳に入ってきた。
「でも、奥さんとこまだ六つでしょう? 甘えたい盛りじゃないの〜」
「そうかしら? 怒られるようなことばっかりしてるのに? 甘えてるのかしら」
「きっとそうよ!」
怒られるようなことばかり。その言葉にヴァレリウスはシルヴィを重ねた。
(……甘えている……? シルヴィが、「誰」に……?)
店主に声をかけられるまで、ヴァレリウスは野菜を手に持ったまま思考の海に沈んでいた。
「もー! やだぁー!」
ペンを投げ出し、シルヴィは叫んだ。
楽しくない。羊皮紙にずーっと向き合うなんて。
羊皮紙に話しかけても何も言わないし。
「ヴァルぅ……」
机にぺたんと頬をつける。
ぱち、とまだ寒い部屋を暖めるように、暖炉の薪が小さくはぜた。静かな火の音につまらない課題。うと、とシルヴィのまぶたがゆっくりと下がっていった。
(……あれ、わたし、ねちゃってた……?)
シルヴィがぼんやりと目を覚ました時、彼女はベッドで寝ていた。確かに机に向かっていたはずなのに。
「起きたか」
「ヴァル……?」
落ち着いた、低い声。彼は羊皮紙の束を紐でくくっていた。
「ほら、出来たぞ。今日からこれに日記を書け」
「にっき?」
「その日あった出来事や、何を思ったのか。書いていけば自ずと字の練習になるだろう。俺が添削してやる」
ますますシルヴィは首を傾げた。
「てんさく?」
ヴァレリウスは眉間にしわを寄せ、彼女の膝の上に無造作に羊皮紙の束を置いた。
「……間違ってたら直してやるってことだ。返事くらいなら書いてやる」
ふい、と顔を背け、彼は暖炉の薪を組み直しに行ってしまった。
「…………」
ぽかん。シルヴィは口を開けたまま彼の背中を見ていた。
(これに、できごとをかけば、ヴァルがおへんじくれるの……?)
字の練習と同じ、なんの変哲もない羊皮紙。けれど、日記は、シルヴィにはとても輝く魔法具に見えた。
ゆきぎのつき じゅーににち くもり
雪解の月 十二日、だな(と書き加えられている)
きょから にっき かきます
今日(と小さく書かれている)
ばるが これくれました うれしい
ちゃんと書けよ。あと、もう少し文字を小さく書け。勿体ない。
※※※
(懐かしい〜。今でもたまに返事書いてくれるんだよね)
口元を緩めながらシルヴィはその文を読む。几帳面で読みやすいヴァレリウスの文字はそのまま。誤字だらけなのに根気強く直してくれて、彼の返事を読むのが楽しくて。
ぺら、と何枚かめくる。目がバツに描かれたウサギの絵を見つける。
(……あ、これは、確か――)
※※※
ヴァレリウスは狭い宿で一人ため息をついていた。彼の目の前には今月の収支が書き込まれた羊皮紙。支出と照らし合わせると残高がやや心もとない。
(……シルヴィが帰ってきたら狩りに行くか。連れて行くか、留守番させるか……。いや、あいつも八つ。そろそろ獲物の捌き方を教えるべきか……)
ふう、と息をつきながら羊皮紙を片付ける。
そんな彼の背後で、宿の扉がバーン! と開いた。
「ヴァル! ただいま!」
近所の子どもと遊びに行っていたシルヴィが帰ってきた。ペン先を拭いていたヴァレリウスは振り返る。
「ああ。おかえ……」
り。の言葉は彼の口の中に消えた。
シルヴィは顔を土まみれにし、シャツの肩はどこかで引っ掛けたのか、ほつれている。髪はどこを通ってきたのか、葉っぱがくっついて見るも無惨な状態であった。
そして彼女は両手に何かを持っている。
微かに頭痛を覚えながらも、ヴァレリウスは言葉を何とか絞り出した。
「……。……、……シルヴィ、なんだその格好は」
「ね、ヴァル見て見て!」
彼の疑問には答えず、シルヴィは目をキラキラとさせながら手に持っていた「何か」をヴァレリウスに差し出した。
「これ! 私獲ったの!」
両手に握りしめられるようにされていたのは、子ウサギと見られる個体。首が絞められて白目を剥いて口から泡を吐いている。
「……どこで見つけた」
えっとねー、とシルヴィは思い出すように首を傾げた。
「ヴァルの罠!」
「は……?」
森に罠を仕掛けていたが、あの辺は魔物も出るのではなかったか? と、子ウサギをよく見ると、額が少し膨らんでいる。
ひゅっと彼の喉が鳴った。
「……シルヴィ、森へ行ったな。あそこは魔物も出るんだ。一人で行くところじゃない。しかもこれは一角ウサギの幼体だ。近くに親がいたらどうする。無事でよかったからいいものの、そうでなければ死ぬぞ」
矢継ぎ早に言われる言葉に、シルヴィはまだふっくらとした頬を、ぷう、と膨らませた。
「だって……」
「だってもクソもあるか。さっさと着替えろ。説教は後だ」
破れたシャツを脱がせ、顔の泥を拭い、髪についた葉を取ってやる。毛玉になった髪を梳いてまとめ直し、ようやくいつものシルヴィになった後、ヴァレリウスは一時間説教した。
シルヴィは痺れた足に涙目になっていた。
「…………」
潤んだ瞳が恨めしげに見上げてくる。彼は一瞥することもなく、ふんと鼻を鳴らした。
「泣いても無駄だ」
「……だってヴァル、いっつも一人で狩りに行っちゃうでしょ。私だって、いっしょに行きたい」
だから持ってきたのに、と鼻をすする。その声にヴァレリウスは一つ息をついた。そして、片膝をつきシルヴィの目線に合わせる。「……いいか、シルヴィ。俺は別にお前を除け者にしているわけじゃない。まだ早いと思っていただけだ」
それに、と彼は視線を落とす。否応なくヴァレリウスの右手が視界に入った。
「お前は『マナ』の塊だ。下手をしたら魔物に襲われることもある。……狩りに行くのなら、俺から離れるな」
ぱち。シルヴィは大きな瞳をまたたいた。
「今日のところはお前の『獲物』を捌け。今夜の『夕飯』にする」
みるみるうちにシルヴィの涙が引き、大輪の花のような笑顔が咲いた。
「……やったー!」
(……やれやれ)
※※※
(……その後、泣きながら一角ウサギの皮を剥いだっけ)
夕飯にするはずの肉は細切れになって、毛皮は血まみれのボロボロに。
ヴァレリウスは何か言いたげな顔をしてしばらく沈黙した後、「……まあ、初めてにしては上出来だ」と言ってくれた。
その日の夕飯は魚だった。
今は何とかキツネまでなら捌ける。だがやったらやったで「ナイフ捌きが甘い」とか小言を言われるだろう。
しゅうかくのつき さんにち はれ 「みっか」だ。(と書かれている)
きょうは、ばる(「ヴァル」と修正されてある)と いっしょに かりに いきました
ばる(バツで消してある)ゔぁる がとった うさぎを、わたしが さばきました
たいへんだった。
次はもう少し食べられる部位を増やせ。命はありがたみを持って頂け。
※※※
「……何だ、まだ起きていたのか」
部屋に入ってきたヴァレリウスが意外そうな声でシルヴィに話しかけた。
「えへへー、前の日記懐かしいって思って見てたの!」
「……。いい加減それは削れ。嵩張るだろう」
ヴァレリウスは一枚の羊皮紙を何回も書いては削ってを繰り返している。今やそれは芸術的に薄くなっている。
「嫌ですー。ずーっと持っていくんだもん」
あ、とシルヴィは思い出したようにその羊皮紙の束《日記帳》を差し出した。
「はい! 今日の日記!」
ヴァレリウスの目がほんの僅かに揺れる。
「……何をしろと」
「添削! して?」
はあ、と彼は深くため息をついた。
「……もう十分だろう」
「嫌でーす! これも、ずーっと、ずーっと、やるんだもの!」
羊皮紙の束を受け取ったヴァレリウスは、口元をほんの少し、シルヴィでなければ分からないくらいに緩めた。
「……仕方ないな」
盛夏の月 二十八日 はれ
今日はとーっても暑かった! 溶けちゃいそうでした。(熱中症に気をつけろ)
リンダさんの新作パンは、干しブドウが練り込んであって、ほんのり甘くて美味しかったです。(食ったのか?)
明日、ヴァルにも食べさせてあげる!
(……楽しみにしている)
これにて完結です! お付き合いいただいてありがとうございました!




