私は嘘つきですから
その魔法使いは、嘘しかつかなかった。
少なくとも、町の誰もがそう思っていた。
港町リュメルの外れ、時計塔の影にある古びた店。
看板にはこう書かれている。
『どんな願いも叶えます。ただし、代償は嘘ひとつ』
店主の名はレイン。
年齢不詳。いつも眠たそうな目をして、黒い外套を羽織っている。
そして彼は、依頼人に必ず言うのだ。
「私は嘘つきですよ」
だから町の人々は、彼を信用しない。
――けれど、それでも店の扉を叩く者は絶えなかった。
………
最初に訪れたのは、漁師の男だった。
「明日の嵐を止めてくれ。船が出せなきゃ、家族が食っていけない」
レインは窓の外の空を一瞥し、あっさり言った。
「止みますよ。あなたの船だけは無事です」
「本当か?」
「ええ。私は嘘つきですが」
男は顔をしかめたが、藁にもすがる思いで代償を差し出した。
「……俺は昔、弟の網をわざと隠した。あいつの方が漁が上手かったからだ」
それが男の嘘。
レインはそれを小瓶に閉じ込め、微笑んだ。
翌日、嵐は町を襲った。
多くの船が壊れた。
だが、男の船だけは不思議と浅瀬に打ち上げられ、無事だった。
人々はざわめいた。
「偶然だ」
「たまたまだ」
けれど男は、それ以来レインを先生と呼ぶようになった。
………
次に来たのは、足の悪い少女だった。
「お母さんみたいに、走りたい」
レインは膝を折り、少女と目を合わせた。
「走れますよ。誰よりも速く」
「ほんと?」
「私は嘘つきですが」
少女が差し出した代償は、小さな秘密だった。
「ほんとはね、足が痛いって、ちょっとだけ大げさに言ってたの。お母さんに心配してほしくて」
レインはそれを受け取り、少女の足にそっと触れた。
次の瞬間、少女は立ち上がる。
一歩、また一歩。
やがて駆け出した。
泣きながら、笑いながら。
………
噂は広がった。
嘘つき魔法使いは、本当の奇跡を起こす、と。
けれど同時に、奇妙なことに気づく者もいた。
「レインは代償を受け取るが、決して願いの対価を金で取らない」
「集めた“嘘”を、どうしているんだ?」
店の奥には、無数の小瓶が並んでいるという。
人々の罪悪感、後悔、嫉妬、見栄。
告白されなかった本音。
飲み込まれた謝罪。
それらが、淡い光を宿して揺れているのだと。
ある冬の日。
ひとりの少年が店を訪れた。
名はユノ。
まだ十五になったばかりだった。
「父さんを助けて」
ユノの父は重い病に伏していた。
医者は首を振るばかり。
レインは静かに言った。
「助かりますよ」
少年は縋るように問い返す。
「本当に?」
「ええ。私は嘘つきですが」
ユノは唇を噛んだ。
「……僕は、父さんが嫌いだって思ったことがある。仕事ばかりで、僕の誕生日も忘れてた。いなくなればいいのにって」
それが少年の嘘。
本心ではない、けれど胸をよぎった暗い願い。
レインは小瓶にそれを閉じ込めた。
「三日後、目を覚まします」
………
三日後。
父は目を覚ました。
医者が奇跡だと叫び、母が泣き崩れる中、ユノはただ呆然としていた。
本当に、助かった。
ユノは礼を言うために店へ向かった。
だが扉は閉ざされていた。
中から、激しい物音がする。
思わず開けると、棚の小瓶が床に散らばっていた。
淡い光が溢れ、部屋を満たしている。
その中央で、レインが膝をついていた。
「……先生?」
レインの顔は青白く、息は荒い。
「どうして……」
床の小瓶は、すべて空になっていた。
「嘘はね」とレインはかすれた声で言う。
「人の心を縛る鎖なんです」
集めた嘘を、彼は“ほどいて”いたのだ。
小瓶に閉じ込めることで、依頼人の心から切り離す。
だから願いは叶う。
心を縛る重りが消えるから。
「でも、それを解くには……」
代わりに、誰かが背負わなければならない。
ユノは気づく。
レインの腕に、黒い痣のようなものが広がっている。
それは嘘の染みだった。
嫉妬、憎しみ、後悔、自己嫌悪。
何百、何千という感情が、彼を蝕んでいる。
「どうしてこんなことを……!」
レインは、いつもの眠たげな笑みを浮かべた。
「私は嘘つきですから」
「答えになってない!」
「……昔、私は大きな嘘をついたんです」
それは、戦のさなかだった。
若き日のレインは宮廷魔法使いだった。
王に問われたのだ。
「この戦に勝てるか」
真実は、敗北。
けれど彼は言った。
「勝てます」
兵は士気を取り戻し、戦場へ向かった。
そして――多くが帰らなかった。
「私の嘘で、たくさんの命が消えた」
それ以来、レインは決めたのだ。
嘘を集め、背負い、ほどき続けると。
誰かの未来が少しでも軽くなるなら、と。
「でも先生は……消えちゃうじゃないか」
レインの体は、光に溶け始めていた。
「大丈夫ですよ」
彼は最後まで、微笑む。
「私は嘘つきですから」
その瞬間、ユノは叫んだ。
「嘘つき!」
涙が零れる。
「父さんが助かったのは、先生のおかげだ! 漁師さんも、あの子も、みんな……先生はずっと、本当のことしかしてない!」
レインは、少し驚いたように目を見開いた。
「……それは、違いますよ」
声はもう、風のように薄い。
「最後に、ひとつだけ。本当のことを言いましょう」
彼は、静かに言った。
「私は、人を救いたかった」
それだけを残して、光は弾けた。
………
翌朝。
時計塔の影に、店はなかった。
ただ、透明な小瓶がひとつ落ちているだけ。
中身は空。
ユノはそれを拾い、胸に抱いた。
父は元気になり、町は平穏を取り戻した。
誰ももう、嘘つき魔法使いのことを悪く言わない。
………
数年後。
時計塔の下に、小さな看板が立った。
『どんな願いも叶えます。ただし、代償は嘘ひとつ』
店の奥で、青年になったユノが客を迎える。
「願いは?」
不安そうな客に、彼は少しだけ笑う。
「大丈夫。叶いますよ」
そして、こう付け加えるのだ。
「……私は嘘つきですから」
けれどその目は、まっすぐだった。
もう二度と、本当に救いたいものから目を逸らさないように。
あの嘘つきが、最後に遺した本当を胸に。




