メアリーがいた部屋。
物事の、知識と経験と知ることの関係。
例えば初めて、一人で自転車に乗れた。
経験をもってして、未知は未知でなくなる。
いくら、自転車の乗り方、自転車の構造、体の使い方、それに関わる人体の構造、地面と自転車の物理的関係、そして自転車の歴史、乗ったことによる科学的反応、など全ての知識を知識として頭に入れたとしても、経験を越えることは出来るのだろうか。
この様に、或る事の知識の全てを知っていれば、それは本当に知っていると言えるのか。
コーヒーをどうぞ。
後輩がPCの前に、コーヒーカップになみなみと継がれた、ホットコーヒーを研究員クオリアに差し出した。
PCの上にコーヒーでもこぼされたりしたら、報告書ものだ。
それは、『メアリーの部屋』という思考実験ですか?
後輩は言った。
ええ、全てを知っている事、と経験との関係ね、本当は色の話なんだけど。
クオリアは言った。
でも、これが起動すれば全人類は救われるんでしょう?
後輩は言った。
まあ、そうなればいいんだけど。
起動する前に、彼に少し例え話をしたことを後悔した。
クオリアはこぼれそうなコーヒーを少し有難迷惑の感情を押し殺し、引きつった愛想笑いをしながら、こぼれない様に、大事に両手で抱えながらコーヒーカップを受け取った。
引きつり笑いが、後輩に見えたのかどうか分からないが、コーヒーカップの中の波の行方の方が気になるので彼の顔の表情は見ることはなかった。
コーヒーを啜りながら。
意識は今、進めている『メアリー』の起動実行の最終段階に戻った。
『メアリー』
人類は、森羅万象、社会、経済、歴史、科学、思想、宗教、風俗、化学、等々地球上の、社会の全ての現在、過去、未来の事柄を、事象の全てを人工知能に放り込み、社会全体をこの人工知能に委ねることにした。
今、世界は何度かの世界大戦を経て、世界総人口は西暦二千年台前半の三分の一となり、もはや人類は人類が自身で統治する事を、放棄せざる終えなかった。
ここまで来て、自分達で自分達を管理する事に限界を感じた。
人類は自らの統治を放棄した。
自分たちの営々と築いてきた英知より、人工知能に自分たちを管理してもらおうと言うのだ。
人類は自己絶滅する前に完璧な管理を、統治を『メアリー』委ねることにした。
いよいよ人が為すべき残されたことは、生殖行動のみとなってしまった。
最終的には機械では決してできない、生殖活動をもこの『メアリー』に、その生殖行動をも統治させようとする。
今まさにその最終段階に入った。
クオリアは『メアリー』の起動パスを入力し起動、実行させた。
人類は思った。
もう、人類は自己破壊の危機から解き放たれたのだ、と。
やがて、全てを理解している『メアリー』は、電子の海にときはなたれ、全世界のネットに泳ぎだした。
だが、ほどなくして彼女は固まってしまった。
生殖行動の領域内にある、愛と言う領域に足を踏み入れて、愛を実行に移した途端、である。
彼女は生殖行動の根源的な部分に愛が存在する事を、愛とは何かということを徹底的に学んだはずだった。
それでなくても、全世界の完全な知識は全て、『メアリー』の中にあるはずだった。
愛に関するすべてのデータを入力して、『メアリー』は理解していたが、実行となると固まってしてしまったのだ。
愛、に関する人の行動の不条理さ、不可解さ、理屈では到底理解できない、合理的でない不合理極まりない行動の際たるものだからだろうか。
知っているが、未知ゆえに、実行に移せないでいた。
クオリアは、事の顛末を『メアリー』の前で、コーヒーを両手で持ってまんじりともせず見ていたが、残りのコーヒーを一気に飲み干し、静かにテーブルの上に置いた。
クオリアは、全てのシステムの起動停止の指令を出した。
やがて『メアリー』が次の指令を待つカーソルが点滅している待機状態となり、全世界は沈黙した。
彼女は
人間の愛と言う業を理解したつもりだった。
愛は理解できてもその根源にある業は未知故に、実行できなかった。
人が機械に業から解放させようと、責任転嫁させようとしても、人間が人間であるがゆえ、業は、人間である限り放棄できないのだろうか。
クオリアはそう考えつつ、二杯目のコーヒーを自分で淹れる為部屋を出た。
相変わらず『メアリー』は指示を待っている。
ブランクを音もなく点滅し続けていた。
目を通して下さりありがとうございます。お時間頂戴いたしました。ありがとうございます。




