Ominous Shadow
城下町の空に、雲がゆっくりと渦を巻く。
いつもは陽気な色で満ちていたワンダーランドの空気に、わずかな“淀み”が混ざっていた。
契約を交わしてから数日――。
アレンの身体はこの世界に慣れつつあったが、胸の奥に残る妙な違和感は消えないままだった。
「……アレン、またぼーっとしてる」
背後から聞こえる猫の声。
チェシャが屋根の上に座り、しっぽを揺らしながら見下ろしている。
「ぼーっとなんかしてない」
「ふふ、顔に“考えごと”って書いてあるよ」
そのからかうような口調が、妙に安心を呼び起こす。
アレンは小さく息をついて、屋根の上のチェシャを見上げた。
「……この国、何かがおかしい気がする」
「やっと気づいた?」
チェシャはくすくすと笑いながら、アレンの隣に降り立った。
彼の体温がふわりと近づく。
「この国は、君みたいな“迷い人”が来るたびに少しずつ形を変える。誰が笑って、誰が泣いて、誰が消えるのかも……全部、曖昧なんだ」
「消える……?」
チェシャの目が夜の森の奥のように深く光る。
その視線は、いつもの軽さとは違っていた。
「君、まだ知らないんだね。――契約を交わした者には、“影”がついてまわるんだよ」
「影……?」
「見えない時もある。でも、たまに現れて、“何か”を奪う。名前だったり、心だったり……記憶だったり」
チェシャは一瞬、声を震わせた。
アレンはそれを見逃さない。
「チェシャ……お前、もしかして……」
彼が何かを言いかけたときだった。
――ゴォォォォ……。
足元の石畳が不自然に軋み、地面に黒い染みが滲み出す。まるで夜そのものが地表を這い上がるように。
「っ……!」
「来たみたいだね、“影”が」
チェシャが素早くアレンの腕を引き、建物の陰に身を潜める。
路地の奥に、黒い靄のような何かがゆらりと立っていた。輪郭は曖昧で、瞳のような闇が二つ、こちらをじっと見つめている。
呼吸が止まった。
この世界に来てから、何度も不思議なものを見た。けれど――これは違う。
“本能”が、危険だと叫んでいた。
「動かないで、アレン」
チェシャの声が耳元で低く響く。
その瞬間、チェシャの腕がアレンの腰を抱き寄せた。
吐息が近い。
心臓がどくん、と跳ねる。
「……チェシャ?」
「怖がらなくていい。ボクがいる」
闇がふたりに迫る。冷たい空気が肌を切るように滑る。
「――影は、光を求める。つまり……“心”を狙うんだ」
チェシャが指先を伸ばし、アレンの胸元に触れた。
淡い光がふわりと広がる。
「君の“心”は……ボクが守る」
その声は、優しくて、少しだけ熱かった。
同時に、チェシャの体から淡い紫の光が放たれ、闇の影と激しくぶつかり合う。
――キィィィン!!
音もなく、夜の空気が震えた。
闇は不気味にうねりながら、やがて煙のように消えていった。
「……行った、のか……?」
「うん。でも、また来る。あれは“君”を見つけたから」
チェシャは少し震える指でアレンの肩を掴んでいた。
強がりな笑みを浮かべながらも、その瞳の奥には確かな恐れがある。
「……チェシャ、お前……」
「平気。ボク、猫だからね。こういうの、慣れてる」
そう言いながらも、チェシャの手はアレンから離れようとしなかった。
月明かりが再び空を照らす頃、ふたりはしばらく黙ったまま並んで座っていた。
アレンの胸の奥には、まだ熱いものが残っていた。




