Moonlight Whispers ⟡.·
月が静かに夜空を照らし、銀色の光が庭園の泉を淡く染めていた。アレンはふとした足音に振り向く。そこにいたのは、木陰から顔を出したチェシャだった。いつものようなイタズラっぽい笑みではなく、どこか寂しげな横顔。
「……また、いきなり現れるんだな」
「ふふ。ボクは猫だからね。音もなく近づくの、得意なんだ」
チェシャは軽やかにアレンの前に歩み寄り、泉の縁に腰を下ろす。揺れる月明かりが彼の髪を透かし、夜気の中にやわらかな輪郭を描き出していた。
「君、今日は少し顔が曇ってる」
「え……?」
「わかるんだよ、そういうの」
アレンは小さく息を呑む。胸の奥でちくりとした感情が疼いた。
――この世界に迷い込んでから、何が本当で、何が嘘なのか。誰が味方で、誰が敵なのか。わからないことばかり。
けれど、不思議とチェシャと話していると、息がしやすくなる。
「……別に、平気だよ」
「ふぅん。嘘くさい」
チェシャはくすりと笑い、アレンの肩にそっと頭を預けた。柔らかな髪がアレンの首筋をくすぐる。
「なっ……!」
「ねぇ、ボク、猫だから。こういう距離、嫌いじゃないんだ」
心臓が跳ねた。アレンは慌てて身を引こうとしたが、チェシャは逃がす気などさらさらないように、指先でアレンの袖をそっと掴む。
「……少しだけ、こうしててもいい?」
その声は、いつもの軽口じゃなくて――ほんの少し震えていた。
「チェシャ……?」
「ボク、ね。いつも冗談ばっか言ってるけど、本当は……」
月明かりが彼の横顔を照らす。薄い唇が、小さく震えた。
「誰かに、名前を呼ばれるのが、すごく好きなんだ。ボクの“居場所”みたいな気がするから」
その言葉に、アレンは胸の奥がじんわりと温かくなる。
「……じゃあ、呼ぶよ。チェシャ」
たったそれだけの一言なのに、チェシャの目がきらりと光る。まるで夜空に星が瞬いたみたいに。
「……ありがと、アレン」
二人の間に流れる空気が、いつもよりゆっくりになった。風の音も、遠くで鳴く鳥の声も、すべてがふたりを包み込むように優しく響く。
夜は静かに更けていく。
アレンの心臓の鼓動は、まだ少し速いままだった。




