mysterious contract ✩.*˚
不思議の国の城下町は、昼と夜の区別が曖昧だ。まるで時間さえも、この世界の気まぐれに翻弄されているようだった。
そんな町の広場で、アレンは白うさぎ――ホワイトに連れられ、奇妙な店の前に立っていた。
「ここ、いったい何の店なんだ……?」
「ふふ、契約の館さ。君みたいな“迷い込んだ人間”が最初に通る道だよ」
黒い木製のドアに触れた瞬間、鍵が勝手に開き、アレンは吸い込まれるように中へと足を踏み入れた。
中は薄暗く、無数のキャンドルが浮遊する幻想的な空間。まるで空間そのものが呼吸しているみたいに、空気がふわりと波打つ。
「契約って……なにを?」
「この世界で“存在を持つ”ための条件さ」
声の主は、いつの間にか現れた帽子屋だった。
深い紫の帽子を傾け、にやりと笑う。
「この国では、“名前”と“心”を預ける代わりに、“力”と“居場所”をもらえる。これは迷い人にとって避けられない儀式なんだよ」
「……名前と、心……?」
その言葉に、アレンの背筋が冷たくなった。名前を失えば、自分が誰なのか分からなくなる。けれど、この世界に居場所を得なければ、存在は霧のように消えるという。
「……選ばなきゃいけないんだな」
「もちろん」帽子屋は愉快そうに肩をすくめた。「拒否することもできるけど……そのときは、“この世界”が君を飲み込むだけ」
そう言って、テーブルの上に透明な契約書が浮かび上がる。ペンも、いつの間にかアレンの手元に。
アレンが迷っていると、背後からふわりとした声がした。
「……怖いの?」
チェシャだった。どこからともなく現れ、アレンの肩越しに覗き込む。
「ボクも最初はね、震えながら書いたんだ」
「チェシャも……?」
「うん。でも、名前がなくなったって、全部が消えるわけじゃない。誰かに呼んでもらえれば、ちゃんと“ボク”でいられる」
その目はいつになく真剣だった。
ホワイトも静かに言う。「アレン、これは君が“ここにいる”って証になる。どんな形でも……選ぶのは君だ」
アレンは小さく息を吸い込み、契約書に手を伸ばした。
ペン先が透明な紙に触れた瞬間、淡い光が弾ける。
『アレン』
その名を記した瞬間、胸の奥に不思議な温かさと、同時に鋭い痛みが走った。まるで心の一部をこの場所に縫いとめたような感覚。
「――契約、成立だね」
帽子屋がぱちんと指を鳴らすと、契約書は光の粒となって空へ消えた。
「これで君は、この世界に存在する資格を得た」
「……でも、何かを失った気もする」
「それが契約の代償さ」
アレンが胸に手を当てると、チェシャがそっとその上に自分の手を重ねた。
「大丈夫。もし名前を忘れても……ボクが呼んであげる」
その笑みは、いつもよりずっとやさしかった。




