この世の7割あの世です
これは私が小学校低学年の頃の話です。
私の家族は毎年、夏になると海水浴に行っていました。太平洋側にある海――とだけお伝えしておきます。海沿いの街のとあるマンションの一室を親戚一同で共有しておりまして、そこで二泊するのが恒例行事でした。
その夏も例年通り父が運転する車で海沿いの街へと向かい、マンションの一室に着いたのです。
私は部屋に荷物を置いて早々、水着に着替えました。あとは浮き輪の準備ですね。まだまだ泳ぎが下手だった私は腰に着けるタイプの浮き輪を信用していませんでしたので、肩に付けるタイプの浮き輪を両肩にセットしたのでした。
マンションから歩いて数分。家族全員で海にたどり着くと、白い砂浜を他の旅行者が埋め尽くしている光景が目に飛び込んできます。
父が適当な場所にレジャーシートを敷いたのを確認するや、当時中学生だった姉の背中を追って私は海へと駆け出しました。
夏真っ盛りだったこともあってか、浅瀬がぬるま湯のようだったのを覚えています。さっそく姉と水を掛け合いっこをしますが、まだまだ体格差があったので私ばかりが顔面に海水をくらっていました。それでも楽しかったことには違いありません。
そうやって浅瀬で遊んでしばらくして、姉が「もうちょっと向こうの方、行く?」などと聞いてきました。私もそれに「うん!」と即答しました。ちょうど私も、もう少し沖の方に行きたいと思っていたところだったのです。
浅瀬の方は余りにも人が多すぎて窮屈でしたし、海水も少し濁っていました。せっかくなら綺麗な海で泳ぎたいと思う気持ち、分かっていただけるかと思います。
私は自分がそんな気持ちになったことを、後悔しています。
さて、少し海の向こうへと進んでいくと思った通り、水の濁りは薄まり、海中を泳ぐ魚の姿がはっきりとゴーグル越しに見えるようになってきました。私と姉は海の生き物探しにどんどん夢中になっていきます。
海底にうずくまる影を見つけては、
「お姉ちゃん、あれってエイかな?」
「ヒラメじゃない?」
とかなんとか言って、とても楽しかったんです。
泳げば泳ぐほど、先へ進めば進むほど、海は綺麗で……私たちは吸い込まれるように沖へと向かいました。沖へと向かった――といっても海水浴場なので、制限区域より向こうに行く気はありません。境界線が分かるようにロープが張られていましたので、私たちもそのラインには近づかないようにと決めていました。
制限区域の境界線が最初よりは近くに感じられ始めた頃、私は砂浜に帰りたくなってきました。
怖くなったわけではありません。寒かったんです。
当然ですが、浅瀬から奥に向かうほど海は冷たくなっていきます。
私は「お姉ちゃん。戻ろう?」と姉に呼びかけましたが、姉が見当たりません。姉はビート板を命綱代わりにして潜っていましたので、私はまずビート板を探しました。
あった! 私は姉が使っていた青色のビート板を見つけ、そこに近づいていきます。
まだかな、まだかな。姉が水面から顔を出すのを待っていたのですが、なかなか戻ってきません。
「お姉ちゃん……?」
十秒、二十秒――あるいはもっとか。姉を待つ時間がとても長く感じられて、徐々に不安になってきたその時。
「こんにちは」
という大人の男性の声が後ろからしました。海水浴客は他にもまばらにいましたが、わざわざ声をかけてくる人なんて今までいませんでした。
私は思わず手で水をかいて旋回して振り返りますが、誰もいません。
私はなんだか怖くなって、「お姉ちゃん……! お姉ちゃん……!」と繰り返し叫ぶように呼びかけます。
ばしゃん
不意に背後から音がしたかと思えば、私の手を誰かが掴みました。
「帰るよッ!!」
切迫した声――私の手を掴んだのは姉でした。
私は姉の方に振り向きます。
姉の顔は真っ青で、唇は紫色になっていました。呼吸が荒く、ひゅーひゅーと今にも息絶えそうです。何より怖かったのは、姉が泣いているように見えたことでした。
私は姉に「どうしたの……?」と恐る恐る尋ねましたが、姉は「いいから……! 早く……!」とだけ言って、理由を教えてはくれませんでした。
ただ、私にもなんとなく分かりました。姉はきっと、何か見てはいけないものを見てしまったんです。
姉は言いました。
「絶対に振り向いちゃだめ!」
私たちは急いで砂浜へと向かいます。私は必死に足をばたつかせ、手で水をかきました。でも姉の方が早くて、私は「待って! お姉ちゃん待って!」と叫ぶのですが、姉はちっとも振り返ってくれません。
その時点で既に私は泣いていました。待って、待って――何度そう叫んでも、姉はこっちを見てくれません。
だんだん姉との距離が離れていき、泣いたことで視界がぼやけたことも相まって、私は自分がどこを泳いでいるのか分からなくなってきました。
そんな時、私を助けようとする男性の声がしたんです。
「こっちこっち」
私は藁にもすがる思いで声のする方に振り向いたのですが、誰もいませんでした。
もう一度、声がします。
「こっちこっち」
この声はいったい、どこから聞こえるのでしょうか。
不思議なことに、その時の私はその声に安心感を覚えていたんです。声の主に助けてもらいたくて、私は必死に探しました。
それで何を思ったのか、私は海の中を覗いたんです。
「こんにちは」
聞こえるはず、ありませんでした。
私が見たのは、逆さまの人間――海面に足の裏をぴたりとくっつけ、海底に向かって真っすぐ立っている人間。ずぼんも服もぼろぼろで、お腹のあたりが妊婦みたいにぽっこり膨らんでいて、最初は女の人なのかなって思ったんです。でも違いました。
だってその人、水中なのに言うんです。「こんにちは」って、男の人の声ではっきりと。
どうして私は、顔を見るまで恐怖を感じなかったんでしょうか。今でも分かりません。
だって、私に呼びかけていたのは、両目と口が真っ黒の化け物だったから。
人間の形をした何かが、海中から私を、穴の開いた目で見下ろしています。
やけに大きく見える、真っ黒な動かない口で私に呼びかけるんです。「こんにちは」って。
その人、ずっと逆さまで立ったまま動きませんでした。私も、固まってしまって動けません。
しばらくして、その人が不意に片足を動かし始めました。
そして、海面を逆さまに一歩、踏みしめたのです。
その人のまん丸で真っ黒な両目と口が、ぐにゃーっと歪みました。
さっきまでずっと話しかけてきたくせに、その人――無言で笑ったんです。
まるでもう、声は必要ない、とでも言いたげに。
私は叫びました。いえ、叫びましたが声は出ませんでした。口からは声の代わりに、大量の泡が出てきます。空気を吸おうとして海水を飲んでしまい、ドブでも飲み込んだのかと思うほどでした。私はなんとか海面に顔を出し、すぐにげえと吐き出します。
それからはもう必死でした。自分がどこに向かっているのかも分からないまま、ただひたすら声が聞こえない方へ、早く、早く――。
そしていつの間にか、私は意識を失ったのです。
私を助けてくれたのはまったく知らない旅行者の人でした。その人は私が海でもがくように泳いでいたのを遠目に見つけ、動かなくなった私を泳いで助けに来てくれたということです。
姉はというと、自分が浜辺に着いた時に私がいないと気がついてパニックになり、すぐに両親に助けを求めてくれたそうでした。それから自分でも海に入って、私のことを両親と一緒に探してくれていたということです。あんなに怖いものを見たのに、凄いですよね。
私は溺れていたわけではなかったので、マンションに戻る頃には体の調子を取り戻していました。
私は海で遭遇した何かについて両親に伝えます。両親はびっくりした顔をしていましたが、私の言葉を否定することもなくただ「怖かったね」と私を慰めてくれました。
そんな私たちの様子を見ていた姉が、ぽつりと言います。
「やっぱりいたんだ……」
後で姉に聞いたのですが、姉は自分で見たものが信じられなくて、幻を見たのだと思い込もうとしていたそうです。でも私の話を聞いて、幻ではなかったのだと確信したということでした。
あの日以来、私はあの海水浴場に行くこともなくなりました。海の中に人の形をした何かがいるような気がして、怖かったんです。
……ただ、あの海水浴場に行かなければ本当にあれとは出遭わずに済むのでしょうか。海は繋がっています。逆さまに歩くあれが、いつか私が暮らす地域の海にたどり着かない保障なんてないんじゃないでしょうか。
そんなことを考えているうちに、私は底の深い川にも近づけなくなりました。川って海と繋がっているじゃないですか。あれが川の水面を歩いてやってくるような気がして、嫌だったんです。
あの化け物はきっと、この世のものではありません。私と姉はきっと、この世とは違う別の領域――言ってしまえば『あの世』に近づいてしまったのだと、今ではそう思っています。
ところで、あの世とこの世の境目って……どこにあると思いますか?
『そんなものはない』ですとか、『分からない』ですとか、あるいは『三途の川』――なんて、思い浮かぶかもしれませんね。
私にとって、あの世とこの世の境目は『海』です。この地球という星の7割を占める海が、私にとってのあの世なんです。
どこへ行こうと、海を遠目に見るたびに思います。
『あれが歩いてくる』
今はもう、あの化け物と出遭うことはありません。ですが日々を過ごす中で『こんにちは』なんて言葉を聞くたびに、私はこんな風に考えてしまうんです。
いつかあれがひっくり返って、ここまで歩いてくるんじゃないかって。