眠りに還る少女
霧が出てきたカーヴィラの街、その劇場。
時折、ほんのわずかにではあるけれど、翠の色彩が混じる、乳白色の幻想的な霧の海によって、劇場の看板はかすんでいて、良く読めない。
俺と素馨は、佇むバーベリちゃんの手を握って静かに歩きだした。
素馨の頭の上にある獣の耳―――正式な名称を、獣角と呼ぶそれがふるふると揺れる。金色の眼が背後のバーベリちゃんを不安げに見つめていた。
「大丈夫だよ」
「………先生のすることですから、分かってますけど。でも、心配は心配なんです」
「ふふ、優しいね。良いことだよ、魔法使いには必須の才能だ」
人に優しさを与えることを、魔法使いは絶対に忘れてはいけない。
さて。手を引くバーベリちゃんは夢うつつのようで、目を閉じたまま歩いている。なぜかと言えば、俺が魔法にかけたからだ。
こういうと悪いことをしているようだけれど………決してそんなことはない。彼女が本当の願いを見つけるまでは、俺も素馨も魔法使いとしては動けない。
魔法使い帽子もローブも身につけずに、しまいには杖すら出さずに街に散策しに来たのは、その意思表示なのだ。
君の願いを教えてほしい、ただそれだけのためにわざわざ街に出るというリスクやちょっとした魔法を使うことなんて、明らかに対価に見合っていないと思うかもしれないけれど。でも、大丈夫。
俺の見立てが正しければ、これくらいのサービスは許容範囲内に収まるだろう。
「さあ、素馨?」
ふらふらと進むバーベリちゃんの手を離し、その向かう先へと見送る。
弟子に視線を合わせれば、獣角を揺らして素馨が首を傾げた。
「なんでしょう?」
「バーベリちゃんの正体。一体、なんだと思う?」
これは君への課題の答え合わせでもある。
あのシャムロックのケープの少女の、その正体。素馨、君はもうわかっているよね?
だって君は耳が良い。最初は分からなかったかもしれないけれど、こうして一緒に街を歩いていれば、その違和感に気が付くだろう。
「………人の身体より、飛び出した魂。私の国の言い方だと、生霊、ですね」
「その通り」
「香炉にセージを使ったのは、セージの香りの煙には、魂を繋ぎとめる力があるから、ですか?」
「それも正解。ふふー、良く出来ました~」
素馨の頭を胸元に抱いて、軽く撫でる。
もぞもぞと動く感触がくすぐったい。素馨は暫く嬉しそうにされるがままだったが、バーベリちゃんの方を見ると俺の腕の中から抜け出した。
「古来、薬草は魂や死者の魂に作用するものが多い」
例えばフランキンセンス。乳香と呼ばれるその植物は古の時代から儀式の道具として使用され、エジプトではラベンダーと並んで墳墓の中から見つけだされたものだという。
元々、エジプトのピラミッド自体が王様のお墓であり、いずれ魂が帰る場所にわざわざ取り入れられることからも、その効果の高さが窺い知れる。
今回使用したホワイトセージはどちらかといえば西洋世界で多く使われていたハーブだ。俺自身もかなり多用するもので、セージとタイムが強力な魔法の触媒となる事が多い。元々、この二つは強力な魔力を持つと信じられており、また薬効作用も非常に高いので、シンプルに使いやすいというのもあるのだけれど。
そんなセージは、肉体と精神の両方に作用する。悪霊を払うことにも使われるのだけれど、今回はその性質の逆―――死へと向かおうとする魂を、現世に留めるために、その香りの助けを得た。
バーベリちゃんの状態は、それだけ悪かったのだ。今にも、彼女の魂はその髪や瞳と同じように、色彩を無くしてしまいそうだったから。
「当然、バーベリさんは自分の状態を………」
「分かっているさ。だから、殺してほしいと願った。そうすれば、終わりに出来ると思ったんだろうね」
鼓動なき少女、心優しき少女。君が死を願ったのは、誰のため?
その答えを、俺達は知っている。
「家族、ですね」
「うん。家族だ」
霧の劇場、眠り姫と毒林檎にて語られたように、彼女は彼女を見守る家族のために、死を願った。
シャムロック、三つ葉のクローバー。
厳密に言えばクローバー以外のカタバミなども含まれるのだけれど、それはともかく。
シャムロックは俺の世界で言うところの古代ケルト文明に於いて、魔除けやお守りとして使われていたデザインなのだ。
もちろん、病からの治癒を願って、その羽織ものに刺繍を施すということだって―――おかしな話ではない。
ヒールサンダルが石畳をコツコツと叩く音を聞き流しながら、そのシャムロックのケープを纏う少女をゆっくりと追いかける。
彼女は霊体だ。だから、他人とぶつかる心配はないし、俺達ならばその魔力の香りや音を辿れるから、見失うことはない。
見える人ならば見えるだろうけれど、見た目は普通の人である彼女を違和感に感じることもないだろう。
時刻は夕暮れ、逢魔が時。春の夕焼け空は、ほんの少しの雨模様の後だからか、むしろ澄んで見えた。
………夕日が鮮やかに染め上げる大通り。茜と橙に熔けてしまいそうな道の中を人々が歩んでいく。少女もまた、その中をゆっくりと進んでいく。
さあ、きっと。そろそろだ。
靴の音が変わる。影の中へと落ちる。
そして、バーベリという名の少女は眠りの中へと帰っていく。
そこは、カーヴィラの街に幾つかある診療所の一つだった。
魔術や魔法が存在する世界であっても、医学は変わらず進化を続ける。内外を問わず、人の身体という神秘を癒す技術は秘術だけでは足りないから。
カーヴィラの街の最も大きな診療所………病院は、街の中央付近にあり、その他の診療所は個人のお医者さんが患者さんを見るためにある。治療法は様々だ、流石に現代文明の医学と同じレベルは求められないし、そもそもこの世界だと病の原因が単純な風邪とかではなく、魔力や人の悪意によって生じる怪異などが原因である場合もあるから、医者という人は簡素な呪い師であることも多い。
少女が眠る場所は、まさにそういった診療所だった。
へドリー診療所という看板の掛けられた、カーヴィラの街では主流である煉瓦造りの一軒家程度の大きさの診療所。嵌め込まれた大きな窓から中が少しだけ見ることが出来て、玄関扉の先は待合室になっている。時間帯もあるのだろう、幸運なことに今は誰も居ないようだった。
カーテンや扉でさらに中は仕切られていて、診察室と―――特殊な患者が入院する部屋も、あるようだった。
俺は素馨の方を見て、頷いた。彼女の背中を軽く叩いて、一歩遠ざかる。その頭の上に、俺の魔法使い帽子を軽く被せてから、ね。
「行きます」
その言葉と共に、一人となった素馨が、その診療所の扉を潜った。
シャムロックの少女の魂が通り過ぎていったその道を、魔法使い帽子を被った獣の耳を持つ魔法使い見習いが歩く。
気配を察したのだろうか、診療所の奥にある診察室から白髪が随分と混じった老齢のお医者さんが出てきて、その目を見開いた。彼は、素馨の幼さと、大きな帽子を交互に見て、驚きを飲み干してから冷静に問いかける。
「………あなたは、魔法使いですかな?」
「はい。私はまだ、見習いですけど。先生が、依頼を受けたので、その願いを叶えに来ました」
「依頼、を?………いや、信じましょう。案内します、どうぞこちらへ」
「ありがとうございます」
木製の床を踏む、二人分の足音。
素馨の耳が揺れて、扉の奥にある気配を捉えたようだった。
「人、がいますね」
「今日の夜が峠ではないかと判断しましてな。私の力ではどうしようもなく、学院の方々すら触れ難い、そんな呪いに犯された少女がいるのです。それこそ、高名なシルラーズ学院長でもなければ、干渉しようとしただけで色を奪われるでしょう。しかし、そんな方にお願いを出来るだけの伝手は無く、そして呪いそのものも、しがない診療所の呪い師である私には、どうしようもありませんでした」
「だから最期の別れのために、家族を?」
「………ええ。分かるのですな、流石は魔法使い様だ。昔、出会ったことがありますが、彼ら彼女らは本当の意味での奇跡を起こす」
私も助けられました、と。その老齢のお医者さんは呟く。
「今日は、奇跡を見ることになるのでしょうか?」
「………私はあくまでも、先生の弟子で、実際に奇跡を起こすのは先生ですけど」
太陽を閉じ込めたような、鮮やかな金色の目を細めて、素馨は微笑んだ。
「でも、大丈夫です。先生は、必ず奇跡を起こしてくれます。そう、信じています」
「………良い師に巡り合えたようですな。さて」
たどり着いたのは一番奥の部屋。
扉越しにすら分かる、死と呪いの気配。しわくちゃの手で、お医者さんは取っ手を握って、回す。
「七年もの間眠り続けるお姫様に、どうか幸福な未来がありますように」
祈るようにして、囁いたそのお医者さんを背後にして、素馨は進む。
そして、魔法使い帽子を胸元に抱いて、告げた。
「我が師、魔法使いのマツリの名代として、バーベリさんの願いを叶えに参りました」
花で飾られたベッドの上で眠る、青白い肌にシャムロックのケープを纏った少女。
それを囲むように、その手を握る、彼女の家族………恐らくは母と父と、そして姉と兄。
彼らの瞳が、素馨をじっと見つめていた。