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復帰――Relife Pitcher

 偶然とも言える、土曜日の午後に組まれた試合に、私は滑り込みに近い状態で球場に駆け込んでいた。

『ただいまより三日月学園高校と明稜実業高校の試合を開始します……』

 アナウンスを聞いて、ギリギリで間に合った事を実感した。

――高校野球の甲子園予選に来る人なんて、すごく少ないな。

 去年の私はそう思っていた。アルプスにいる人も少なければ、外野スタンドにいる人も少ない。いるのは、野球部のベンチ入りから外れた人と、応援をする人。そして、私たちみたいな酔狂な人。去年の私は確かにそう思っていた。でも、今年の私は全然違う。樹先輩は昨日の電話で、私に見て欲しいから、投げるんだ。そう言ってくれた。私はその一言で、昨日から全く寝ていない。

『三日月学園高校のスターティングメンバーを紹介します』

――来た!

 その声が響いた時、私の心臓が大きく跳ね上がった。名前をコールされる度に選手が守備位置に散らばっていく。

『五番、レフト、市川君……』

 まだ樹先輩は呼ばれていない。でも、ファーストもピッチャーも呼ばれない。

『六番、ピッチャー、広川君……』

――え……?

 私は耳を疑った。

――だって、樹先輩は昨日、投げるって、言ったじゃない……。

『七番、ファースト、神崎君……』

 樹先輩がコールされた。

――何で、樹先輩は、一塁なの……?

 樹先輩は言っていた。左ピッチャーは同学年の広川先輩と自分しかいない。だから、どっちかがファーストで、どっちかがピッチャーを務める。

――だけど、樹先輩は約束してくれたじゃない……!

 唇を噛み締めながら、一塁の守備に着いた樹先輩を見た。

――え……?

 樹先輩が私に気付いて、口を動かしていた。七回動くと、守備練習に専念する。

――し・ん・ぱ・い・す・る・な……?

 気のせいかもしれない。でも、私にはそう見えた。

――でも、樹先輩は、約束、してくれた……。

 そう思いながらも、試合を見る。試合は三日月学園が有利に動いていた。今日の樹先輩は打撃で凄い働きをしていた。先制の二点タイムリーヒット、追いつかれた直後には勝ち越しの犠牲フライ。三回目の打席はスクイズを決めて、合計四打点。でも、ピッチャーの広川先輩の調子が今一つだ。よく踏ん張っているけど、毎回のようにランナーを背負っている。

――何でよ! 高校野球は負けたら最後なのよ!

 七回の表、三日月学園は大きなピンチを招いていた。ワンアウトから、ヒット二本とフォアボールで満塁。二点差はヒット一本で同点になる。しかも、相手バッターは四番で、今日の広川先輩とタイミングが怖いくらいに合っている。さっきは打ち取ったけど、ライトの秋山先輩がファインプレーをした結果だ。ベンチから伝令が走って、マウンドに内野手が集まる。伝令の選手がベンチに帰った後、監督がベンチから出てきて、審判に何かを言う。同時に、樹先輩のところに伝令の選手がもう一度走っていき、樹先輩が神妙に頷いて、ファーストミットを渡し、グラブを受け取っていた。

『三日月学園高校、選手の交代をお知らせします。ピッチャーの広川君に代わりまして、ファーストの神崎君が入り、七番、ピッチャー神崎君。ピッチャーの広川君に代わりまして……』

 スタンドから大きな声が響いた。

――樹先輩が、投げる……。

 誰だって思うはずだ。少しデータを探せば、樹先輩が肘を壊したのはすぐにわかる。でも樹先輩は絶対に大丈夫。

――でも、このピンチにマウンドは厳しくないの?

 私がそう思った時、もう一回、樹先輩が私を見て七回口を動かす。今度は見間違えない。あの口の動きは『心配するな』だ。

――樹先輩、笑っている……。

 表情が見える訳じゃない。さっきからだって、口が動いた気がするだけだ。でも、あの動きはこのピンチを楽しんでいる。投球練習が終わって、試合再開。向こうだって、うちがどれだけの強豪校で、去年だって準決勝にまで駒を進めているくらい、承知のはず。樹先輩がセットポジションから、第一球を放る。去年見た程の速さがある訳じゃない。相手バッターも余裕で見送った様に見える。

――ボール球……。

 樹先輩がもう一度セットポジションから投げる。さっきよりも、少しだけ速いボール。それがミットに収まると、審判の手が上がる。

――ストライク……。

 三球目は外角に行って、相手バッターがバットを振る。けど、三塁線に切れていくファールボール。

――息が、詰まる。

 去年、そんな事は無かった。ただ、純粋に『格好いい』だけが印象に残った。でも、今日は違う。四球目は内角に入ったけど、審判の手は上がらない。

――ツーボール、ツーストライク……。

 樹先輩がキャッチャーのサインに首を横に振る。嫌だったんだ。もう一回サインの交換をして、樹先輩が頷く。そして、五球目。もう一度内角に入ったボールを相手が打ち返した。

――駄目!

 私が心の中でそう叫んだ瞬間、樹先輩が『それ』をグラブで叩き落とした。

――え……?

 強烈なピッチャー返しを、すごく落ち着いて、叩き落とした上で、キャッチャーに素早くトスをする。そのまま、キャッチャーがファーストにボールを送って、ゲッツー。

――凄い!

 あのピンチを、たった五球で終わらせた。しかも、最後の球。あのストレートは、私が憧れた、あのボールだ。打った方も凄いけど、それよりも、樹先輩が凄い。それを誰に見せつける訳でもなく、ただ、小さく左手でガッツポーズをして、そのままベンチに帰って来る。ベンチの広川先輩が樹先輩を嬉しそうに迎え入れる。樹先輩の顔がしっかりと見られなかったけど、でも、笑顔だった筈だ。

――樹先輩、約束を守ってくれた。

 その後、樹先輩は八回の表を三者凡退で仕留めて、八回の裏、樹先輩からの打順。

――樹先輩……。

 嬉しくて、涙を拭いた瞬間、鋭い金属音と、歓声が上がる。よく見たら、樹先輩が右手を大きく突き上げながら、ダイヤモンドを一周している。

――ホームラン……?

 信じられないくらいに凄い活躍。今日、四回の打席で、全部に打点が付いている。結局、樹先輩の最後のホームランが効いて、樹先輩は九回の表も投げた。一人フォアボールで歩かせたけど、最後のバッターを三振に切って、ゲームセット。広川先輩が樹先輩になんか楽しそうに話しかけている。一瞬、私の方を見て、肘を突いているのも見えた。


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