雨願――Rainy Wish
霧雨の降る中、私は僅かに空を見上げると、お気に入りの時計に目を移す。
――後、一時間、か。もうじき響子が来てくれるから、それまでの我慢。
今日程度の雨なら、野球部の練習はある。でも、学校側の配慮で、こういう日に一般生徒の見学は許されていない。だから、こういう日は吹奏楽部の練習が終わった響子が、私の話し相手をしてくれる。
「香澄ちゃん!」
私は予想にもしていなかった元気な声に振り返ると、急いで靴を履き替える樹先輩の姿を見つけた。
「樹先輩!」
私の声も、自分でわかるくらいに明るく弾んでいるのを感じる。先週告白して、最近は帰る時間も同じだ。と、言っても、私が自発的に帰る時間を遅くしているだけで、樹先輩の帰る時間が変わったわけじゃない。練習が終わってから、ストレッチやミーティングがあるから、樹先輩の帰りは私たちよりも遅くなる。
「……今日は早かったですね?」
いつもより一時間は早い声に、一瞬だけ嫌な予感にかられて、すぐさまそれを振り払う様に首を振った私を見て、樹先輩は軽く手を振った。
「監督に『明日からは栗原を座らせるから、今日は早上がりをして、念入りに手入れをしておけ。特に肘を中心に』と言われたんだ。明日から、本格的にピッチング練習。まぁ、マウンドにはまだ遠いけど」
少しだけ嬉しそうに言う樹先輩の顔は、振りかけた雨が上がったみたいに明るい。
「バッティングの方はどうですか?」
私の言葉に樹先輩は少しだけ上を向くと、私に視線を移して少し黙りこんでしまった。
「あ、あの……!」
「五番から六番に降格。広川が八番に下がって、六番だった秋山先輩が五番に繰り上がり。三番には今まで五番だった市川先輩」
そう言うと、樹先輩は私の頭に軽く左手を乗せた。
「……秋山先輩は不服そうだったな」
「どうしてですか? 六番からクリーンナップに昇格じゃないですか?」
私が素直に疑問の声を上げると、樹先輩は困った顔を浮かべた。
「打撃センスでも得点力でも俺の方が上なのに、俺の打順を下げるなんて勝率が下がる。それが秋山先輩の言い分。高校野球は『一発勝負』だから、三年の秋山先輩にとって、自分の打順が繰り上がるよりも、チームの勝ちの方が大事なんだ」
樹先輩は一旦息を吐くと、私の髪をくすぐる様に指先に絡めてきた。
「でも、俺は三年生の先輩たちには悔いの無い試合をして欲しいな。確かに甲子園は『四千校以上の中からたったの四十九校しか』出られない。ここだって県大会だけでも最低で五連勝が必要なんだ」
樹先輩は私の髪をいじりながら、現実を見つめる真剣な瞳をしていた。私の髪さえいじっていなければ、物凄く真剣味が増すのに、左手の指先がそれを台無しにしている。でも、それが樹先輩の私に向けた配慮だという事も、たった一週間でわかっている。
「今日の牡牛座はかなりついている筈なんですけど……」
私が溜息交じりに先輩の指先に触れると、樹先輩はまた無邪気な顔つきに変わる。
「じゃぁ、今日の獅子座は?」
「……上昇気運が抜群、でした」
樹先輩の言葉にそう返すと、樹先輩は笑みを浮かべる。
「うん、香澄ちゃんの運気をこうやって『毎日』貰っているからね」
「い、樹先輩……?」
不意に間近まで近付いた樹先輩の顔に、私は一瞬目を閉じる。
――ファ、ファーストキス……。
「香澄ぃ! 今日も話し相手に……」
凄まじく悪いタイミングで、肺活量よろしく大きな響子の声に慌てて瞳を開くと、樹先輩の身体が私から五十センチ程離れていた。
「……ゴメン、もしかして、馬に蹴られた方がまし、だった……?」
響子の声に私は小さく頷く。
――なにが、かなりついている、よ!
私の心の声を聞き取ったかのような動きで、響子は申し訳なさそうに樹先輩に近付いて行くと、深く頭を下げた。
「すみません、神崎先輩! メンタル面を乱しました!」
「いや、いいよ、水口さん。いつも香澄ちゃんの話し相手になってくれるんだろ?」
少しも残念そうな顔をしない樹先輩に、私は一瞬だけムッとした。
「ブルペン練習どうですか? 栗原君、手が痛いとか言っていたらしいですよ?」
「ん? あぁ、将平の奴はミットの綿抜いているからね。俺は気にしないって言っているんだけど、自分のポリシーらしいしなぁ……」
樹先輩の言葉に響子は表情を曇らせる。
「栗原君、一年生で唯一のベンチ入りですよね? 大丈夫なんですか?」
「キャッチャーセンスはレギュラーの喜田川先輩以上だよ。肩もいいし、なにより、キャッチングの時にミットが動かない。あれでインサイドワークをもう少し上積みすれば、来年と再来年は将平が正捕手確定かな?」
「うわ。じゃぁ、今二番手の相川先輩は必死ですね?」
樹先輩と響子の会話を余所に、私はもう一度雨空を見上げた。
――野球の専門的な話になると、私は出る幕が無くなっちゃうんだけどな……。
そんな感情の仕草に気付いたかのように、響子は私の肩を軽く叩いてきた。
「ゴメン、香澄。邪魔者は退散するから、ごゆっくり」
その声に顔を響子の方に向けると、響子はすでに鞄を傘代わりに走り出していた。
「ご、ごゆっくりって……」
響子が現れる直前の出来事が頭を掠め、私は下に俯いてしまった。
「……香澄ちゃん、送っていくよ」
樹先輩の言葉に私は顔を上げる。
「で、俺は傘を持ってないけど、香澄ちゃんは?」
「折り畳みなら……」
私はそう言って、慌てて鞄からピンクの傘を取り出した。
「……逢い傘、してもらえますか?」
私の精一杯の声に樹先輩は嫌な顔どころか、嬉しそうに笑みを浮かべる。
「雨の日は、いい事が多いですね?」
「あぁ、いい事の方が多い」
いつの間にか、私は『樹先輩と同じような気持ち』を持っていた。