告白――Like Confession
私は雨脚の弱まる気配の無い空を見上げたまま、呆けていた。
――部活が終わるまでに止んでなかったら、逢い傘してあげる。
響子がそういっていたのは今朝。響子がくれた『嬉しい情報』は神埼先輩が『今年のレギュラー選手』だと言う事。でも、だからこそ、私は余計に気になる。
――先輩、何でピッチャーをやらないんだろ……?
つい考えちゃうのは、それだけ。
――私、先輩の投げている姿が物凄く格好良くて、この学校を選んだ。
時々、その考えが頭に浮かぶ。でも、最近の私には、それが二の次になっているのもわかっている。先輩の投げている姿が動機だったけど、先輩の直向きな姿が格好いい。先輩を近くで応援出来たら、どれだけ幸せだろうか。そんな事を考えるだけで、まだ、声すら掛けた事も無い。うちの学校は県でも有数の『野球強豪校』だと知ったのは、入学してから。強い、という事は知っていたけど、それほど強いなんて知らなかった。県大会ベスト8なんて当たり前。甲子園の優勝経験もあるし、六年前にも甲子園に行っている。去年だって、もう少しのところだった、という話を聞いた。本当にバカな話だけど、そんな事も知らないで、私は、たった一人の男子生徒の背中を追って、この学校を受けたんだ。
――ホント、バカだな、私。先輩、こんな強い学校で、一年生エースだった。
つい呑み込んでしまう言葉には、いくつか理由がある。強豪校でレギュラーを取るのがどれだけ大変か、それがわからないほどバカじゃない。でも、エースだったのがレギュラーに格落ちするという事は、同じ二年生の広川先輩が神埼先輩を抜いて、エースナンバーを奪ったからだ。スポーツの世界がどれだけ大変か、なんてよくわからないけど、でも、勝負の世界に甘えは禁物だという事くらいはわかっている。誰かが自分の上に行けば、その瞬間、自分は下に落ちちゃう事くらい、私にだってわかる。
――でも、今のエースナンバーの広川先輩が、神埼先輩よりすごいとは思えない。
そんな言葉も呑み込む。私は野球の専門家じゃないし、何より、絶対に神埼先輩を贔屓して見ている。だから、そう言う言葉は口にしちゃいけない。そんな事を考えているうちに、四時を知らせるチャイムが響いた。
――もう、四時か……。雨、止まないな。いい加減、止んでしまえ!
私が思わず声を上げようとした、瞬間だった。
「うわ! やっぱり傘無しじゃ、帰れそうも無いな!」
少し離れたところで、神崎先輩の声が響いた。
――か、神崎先輩だ!
つい隠れてしまった私は、その姿を見て、声どころか、息も止めそうになりながら、柱の陰から、その姿を見ていた。長身で、右手に持ったスポーツバック。バックにあるネームプレートには『神崎樹』と書かれている。間違い様が無く、神崎先輩だ。
「……ん? 誰か、いる? こんにちは」
神埼先輩が私の隠れている柱に向かって声をかけて来た。
――せ、先輩から、声をかけてくれた!
つい、その嬉しさが先走って、思わず柱の陰から飛び出して頭を下げた。
「お、おはようございます!」
私の口から出た第一声は、漫画でさえも使わない程に『お約束』な大ボケだった。その次の瞬間、神埼先輩は大きな声で笑い出していた。
――先輩に笑われちゃった!
私の頭の中は既にハムスターが走り出している。何を言っていいのか、どういう風に言えばいいのか、どうすればいいのか、全くわからない。わかっているのは、きっと私の顔は誰が見てもわかる位に真っ赤になっている事くらいだ。
「あ、ゴメン。笑うつもりじゃなかったんだけど、つい、ね」
神埼先輩がそう謝罪してくれて、私は余計に混乱する。
――何か、言わなきゃ!
私が黙りこむと、神埼先輩も困った顔で私を見て、黙ってしまった。時間が物凄くゆっくり流れて、私の心拍数なんて凄い数字が出ているに違いない。もしかしたら、心音だって、神埼先輩に聞こえているかもしれない。
「あ、あの!」
ようやく言葉を出した時、私と神埼先輩はまた黙り込んでしまった。気不味くなって、声を出したら、二人同時だなんて、よくもまぁ、これだけ『お約束』が続くものだ。
「そっちからどうぞ」
そんな私に気を利かせてくれたかのように、神埼先輩が優しく声をかけてくれた。
「か、神崎先輩から……」
私がそう返したのは、考えがまとまらないどころか頭の中が真っ白になっていて、何を言っていいのかさえ思いつかなかったから。そうしたら、神埼先輩は空を見上げた。
「雨、止まないな……」
「は、はい」
神埼先輩の声に頷くのがやっとだ。
「あれ? 傘、使わないの?」
神埼先輩が私の手にある傘を指差して、そう尋ねて来た。
「今朝、バスに乗って、折れちゃったんです」
「そっか……」
神埼先輩は頷くと、小さく呟いた。
――残念だな。
その声に、私は慌てて顔を上げると、今度は神埼先輩が顔を背ける。その顔が、僅かに紅潮している。
「そっちの用件は?」
そっぽを向きながら、神埼先輩はそう声を出してきた。照れ隠しをしている。そんな感じがして、聞きたい事は、今聞かなくちゃいけない気がして、私は意を決して口を開いた。
「ピッチャー、辞めちゃったんですか?」
瞬間、神埼先輩の顔に陰が走った。
「す、すみません! 私、無神経でした!」
後悔先立たず。その言葉が私の頭によぎる。
「いや、いいよ。ピッチャーを辞めたのは確かだし、野球その物を辞めた訳でもないし」
神埼先輩は私にもわかる位に、無理をした作り笑いをしている。
「でも、何で知っているんだい? 俺を先輩だというからには、君、一年生だろ? 俺がピッチャーを辞めたのは去年の秋だよ?」
知らなかった。去年の秋は、私がちょうどこの学校に受かる為の猛勉強をして、響子に何度も怒鳴られていた時期だ。
「去年の、甲子園予選会で、神埼先輩が投げている姿が格好良くて、私、この学校を選んだんです」
なのに、私はピッチャーを辞めた事も、その理由も知らなかった。
「大して頭もよくなかったけど、先生にも無理だと言われたけど、それでも、一生懸命勉強して、この学校に受かったんです!」
バカだ、私は。そんな事、神埼先輩に言ってどうする。
「肘をね……」
そんな私を弁護するように、神埼先輩は自分の左肘を私の前に出してきた。
「壊したんだ。元々、変化球を投げるのには向かない筋肉だったのに、去年の夏の予選会、準決勝で負けて、カーブを覚えた。それで有頂天になって、秋の大会で投げ過ぎちゃってさ」
そこまで言って、先輩は両手を肩の高さまで上げた。
「医者は治っている、そう言ってくれたけど、でも、マウンドが怖いんだ。あの肘が壊れた瞬間を思い出しちゃって、上がれなくなったんだ」
神埼先輩の顔は辛そうに見えた。私は女だから、こういう時に泣けばいいけど、神埼先輩は男だから、泣けないのかもしれない。
「そう、だったんですか……」
私には、それが精一杯の言葉だった。それでも、うちの学校でレギュラーなんだ。それはきっと、私の想像が及ばない努力をしているんだ。
「俺さ……」
神埼先輩は、そんな私に優しい声をかけてくれた。
「俺、君がいつもグラウンドのバックネット裏に来ているの、知っているよ」
不意にそう言ってきた。
「はい……。え、えぇ!?」
思わず声が裏返った。神埼先輩、私の事に、気付いていたんだ。
「自分に向けられる好意の視線に気付かない程、鈍感じゃないつもりだけど?」
神埼先輩はそこまで言うと、自分の左肘に目を落とした。
「何か言いたそうな顔をしていたのも、知っている」
雨の音が少し、和らいできた。
「そう言う事だったんだ」
神埼先輩の声が凄く近くに聞こえる。
「私、先輩の投げている姿が好きなんです。いえ、本当は直向きな姿が全部好きです! だけど、私には一年前の、あの先輩の姿が一番印象に残っているんです!」
勢いに任せた言葉が私の口から出て行った。
「参ったなぁ……」
神埼先輩は困った顔をしている。でも、少しだけ嬉しそうにも見える。
「四月からずっと気になっていた娘に、告白されるなんて、思ってもみなかった。そうか、俺の投げている姿、か……」
神埼先輩の声に、私の心臓が一瞬止まった気がした。
――気になっていた娘に、告白。
「うん。なんか、吹っ切れそうだ。俺、もう一度、マウンドに立ってみるよ」
「はい! その方が、ずっと格好いいです!」
私が声を上げた瞬間、神埼先輩は空を見上げた。
「やっぱり、雨の日はいい事の方が多いな」
「え……?」
意外な言葉に私は思わず疑問を吐き出した。
「俺が野球に惹かれたのは、雨の中で見たプロ野球。リトルリーグで初めてマウンドに立ったのも霧雨の中だった。シニアリーグで全国優勝を決めた日だって、雨の中だったよ。ただ、肘を壊した、あの試合も土砂降りの中だった」
そう言いながら、空を指差した。雨は、ずいぶんと小降りになってきていた。
「でも、気になっていた娘に告白されて、もう一度マウンドに立とうと思えた今日も、やっぱり雨の日。ほら、悪い事より、いい事の方が多いじゃないか」
明るい笑顔に私もつられて笑みを浮かべてしまった。
「でも、一つだけ困った事があるな」
神埼先輩が少しだけ困った顔をして、私の方を見た。
「こういうの、凄く間抜けな話だけど、俺、君の名前を知らない」
あ、いつの間にか、自然に話をしていたけど、私が一方的に名前を知っているだけで、神埼先輩にとって私は『気になる娘』だったんだ。
「岸川、香澄です。神崎先輩」
「じゃぁ、香澄ちゃん。明日からも、俺を見ていてくれるかい?」
嬉しい一言が、私の頭の中でリフレインする。
「はい! もちろんです!」
私は元気よく声を出した。私の声に応えるように、僅かな日差しが戻って来た。
「あ、止んだみたいだ。じゃぁ、香澄ちゃん、また明日」
「はい! 神崎先輩、また明日!」
私が駆け出そうとした瞬間、神埼先輩の左手が私の腕を掴んだ。
「神崎、じゃなくて、樹、て呼んで欲しいな」
恥ずかしそうに、でも、嬉しそうに声を出す樹先輩に、私はもう一度元気良く頷く。
「わかりました! 樹先輩、また明日!」
「うん、また明日。約束だよ、香澄ちゃん」
樹先輩の声に、私も少しだけ、雨の日が好きになれそうだった。
つい嬉しくなって、気付いたら『メール送信ボタン』を押した、私の携帯が大きな着メロを響かせたのは、午後八時を過ぎた時だった。
『ふぅん……。それで勢い余って『告白』までしちゃった訳だ、香澄ちゃんは』
今日の出来事の詳細を聞き終わった響子は、恥ずかしくなるような言葉を確認してきた。
「う、ん。多分、あれは『告白』と言うと思う」
改めて考えると、かなり恥ずかしい。初めて声をかけられて、初めて会話して、三十分も経たないうちに『告白』だ。
『しかも、神埼先輩は香澄の事に気付いていた、と』
どこの少女マンガよ、呆れた呟きが耳に届いた。
「私だって、信じられない。でも、樹先輩はマウンドに立つ気になった、そう言ってた」
『へぇ……』
「な、なによ……?」
僅かにからかいの混じる声に私は小さく息を呑む。
『樹先輩、ねぇ……?』
強調された言葉に私は顔が熱くなってきた。
「樹先輩が、そう呼んで欲しいって!」
『あっれぇ? 私、まだ何も突っ込んでいないわよぉ?』
響子の声が意地悪く聞こえる。
「響子! 怒るよ!」
『アハハハ! 冗談、冗談。で、神埼先輩は香澄に『明日からも見て欲しい』と言っていたんでしょう? かなり勇気がいるわよ?』
時々、響子の言葉に意味深な物が含まれる。
「どういう事よ?」
『うちのエースは広川先輩。二番手は秋山先輩。どう考えても、去年の成績だけで『自分もピッチャーをやります』は通らない』
響子は厳しい口調で声を出した。
『高校野球は負けたら最後の『一発勝負』よ? 特に、三年生の選手からしたら、今年は最後のチャンス。どれだけ『昔』が凄くても『今』が全てなの』
わかりきった事を言ってきた。でも、私はその真意を掴めていないかも知れない。
「でも、樹先輩はマウンドに立ってみようと思えた、そう言っていたよ!」
『怒鳴らないの。私は香澄みたいに『神埼先輩』に入れ込んでいる訳じゃないから、少しだけ客観的に見れるのよ』
癇癪を起こしかけた私に響子は静かに声をかけてくる。
『まぁ、立ってみようと思っても、精神的な部分は難しいのよ。本当に立てて、本当に投げられれば、うちの学校が一つ抜けるのは確かだけど』
響子の言葉に、私は言葉を呑み込むしかなかった。
『でも、さ……』
そんな私を見ているかのように、響子は言葉を続けた。
『それでも、投げようと思う『きっかけ』を作った、香澄は凄いと思うよ?』
「え……?」
『それだけ、神埼先輩は『香澄が先輩を見ていた』ように『香澄を見ていた』という事』
一瞬にして私の顔が赤くなる気がした。否。絶対に赤くなった。
『真っ赤になっちゃって。かぁわいい!』
見えない筈なのに、見ているかのように、響子は声を出した。
『香澄の『告白』が、六年ぶりの甲子園への原動力かもしれないわね』
響子の言葉に、私は空中に『の』の字を書き始めていた。