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雨心――Rainny Mind

 私、岸川香澄は雨の日が大嫌いだ。特に梅雨時の雨はたちが悪い。蒸し暑いから下着や制服に汗が染み込むし、周りから注ぎ込まれる泥水が靴下を汚す。あの気持ち悪いナメクジだって自然発生しちゃうし、何より、いつも楽しみにしている野球部の練習を見る事が出来ない。

「神崎先輩、いつになったらマウンドで投げてくれるのかな……?」

 去年の夏の甲子園予選会で、親友の水口響子に無理やり連れられて見に行った、高校野球の試合。それまで、テレビでしか見なかった本格的な野球。そこにいたのは、三日月学園高校の一年生エース、神崎樹先輩だった。長身のサウスポー。そして、投げたと思ったら、キャッチャーのミットに吸い込まれる、凄いストレート。

 とにかく、格好良かった。野球の事なんか、はっきり言って殆ど興味が無かった私が、その日を境に百八十度反転していた。次の日、勇気を出して教員室に飛び込んで、三日月学園を受験したい、そう告げた瞬間、担任が呆れた顔をしたのを覚えている。

――お前の学力だと、結構つらいぞ。

 担任が事実を叩きつけて来た時も、私は『頑張ります!』と返していた。響子が三日月学園を受けると聞いて、必死に拝み込んで、徹底的に勉強をした。響子も最初は呆れてたけど、私の本気を見て、難しい問題をわかりやすく説明してくれたし、とにかく受験の日までに出来る限りの努力をした。試験だって一生懸命問題を解いて、後は神頼みしかない状態だった。

 だから、合格者発表の掲示板に私の番号を見た瞬間、傍にいた響子にしがみついて、大声で泣き叫んだのも覚えている。

――やっと、やっと、神崎先輩の練習が見られる!

 そんな恥ずかしい言葉を大声で泣き叫んで、響子が辺りを見回しながら、困惑した顔をしていたのだって、昨日の事の様に思い出せる。

 けど、野球部のマウンドに神崎先輩の姿は無かった。練習自体はしていた。でも、やっていたのは走り込みとバッティング練習が中心で、マウンドはおろか、ブルペンでの投球練習すらしていなかった。

――きっと、先輩は明日こそマウンドに上がるんだ!

 そう思って、毎日のように野球部のグラウンドに足を向けた。いつもバックネットの裏側から、神崎先輩の練習を見ていた。

――マネージャーになればいいのに。

 響子が呆れ半分でそう言った時、私はつい、その言葉を口にしていた。

――だって、そんな事をしたら、神崎先輩だけを見る事が出来なくなっちゃう。

 その『想い』は今だって変わらない。だから今日こそは、と思ったのに、今日の天気は雨だった。しかも間が悪い事に、思いっきりの寝坊。家から学校までは、歩いて三十分。走れば二十分。でも、今日はその時間さえも、かなり疑問出来る程に余裕が無かった。

――こうなったら、最後の手段!

 心の中で声を上げて、駆け込んだのは通学ルートをうまい具合に通過してくれる、環状線バス。これなら、十分で間に合う。間に合うけど、通勤ラッシュ時の環状線バスがどれだけひどい物なのかを、私はすっかり失念していた。乗車率約二百五十パーセント。鮨詰めとはかくあらん、というべき状況を忘れていたのは、最大の誤算だった。前に一回だけ乗った時、その辛さに泣きを上げて、徒歩通学にしたのに、そのバスに乗り込み、あまつさえ、今日は雨だ。乗客の殆どが雨に濡れた傘を持っているし、普段歩こうと考えている人も、バスに乗り込む。

「濡れてもいいから、走るべきだったなぁ」

 思わずそう呟いた瞬間、バスが急ブレーキをかけた。

『事故防止のため、止むを得ず急ブレーキをかける場合がございます』

 そんな声が耳に届く。でも、私はそれよりも自分の手にあった傘の方が心配だった。思いっきり折れる音がした。お気に入りの傘だったのに、綺麗に折れた。

「今日の牡牛座は最高についているはずだったのに」

 いつも、家を出る前に見ている五分間占いの番組。今日はそれを起き抜けで見て、慌てて朝食を食べて、急いで家を出たんだった。それでも普段よりも確実に遅くなっている訳だし、そこに文句を言うべきじゃない。

「さいってぇ……」

 思わず呟いた私の耳に、バスのアナウンスが響き、誰かがブザーを押した。それに乗じる様に私も声を上げていた。

「降ります……」

 既に、私の声は疲れ切っていた。


 教室に入って、机に突っ伏すように座り込む私に、前の席で既に授業の準備を終えていた響子が、私の姿を見て、同情とも思えるような表情を浮かべていた。

「オハヨ……」

「朝っぱらから疲れてるわねぇ。おはよう、香澄」

 私が疲れた声を上げながら鞄を開くのを見て、響子はよく通る声をかけてきた。

「乗車率二百パーセントを超えた、環状線バスに乗ればわかるわよ」

「どうしたのよ? あんなのは乗り物じゃない。お金を払って乗る人間の気が知れない、とか言ってた気がするけど……?」

 前に私が一回だけ乗った時に言ったセリフを、一字一句間違えずに言う響子に、私はピンクの腕時計を突き出す。

「思いっきり、一時間以上の寝坊。いつもなら、出掛けに見てくる『君の五分間』を起抜けに見たのが、今日の始まり」

 私がいつも見ている五分間占いの番組タイトルを言うと、響子は身を乗り出してきた。

「ホント、好きよね、香澄は。で、今日の牡牛座はどうだったの?」

 響子は割と占いを信じないタイプだ。でも、私にそれを押し付けないし、むしろ、それを聞いて話のネタにする事も多い。

「最高についている。災い転じて福となす事多し、だって」

 私がそう言うと、響子は私の机の横にある傘に視線を移した。

「ふぅん。で、それが香澄の今日の『災い』なのかなぁ?」

「お気に入りの傘が折れたら、誰だって『災い』だと思うけど?」

 私の声に響子は少しだけ含み笑いを浮かべる。

「な、何よ……?」

「じゃぁ、そんな香澄ちゃんに、ホットでラッキーなお知らせ」

 響子がこういう言い方をする時は、本当にそういう時だけだ。だから、私もつい、身を乗り出して、響子に顔を近付ける。

「神埼先輩、今年の予選会、レギュラーよ」

「え……?」

 響子の言葉に私は呆けた声を出した。

「今年のレギュラー選手の応援曲目にふってあった。番組名は忘れたけど、昔の野球アニメのテーマソングをアレンジしたやつ」

「なんで、響子が知っているのよ?」

 思わず声を上げる私に、響子は呆れた顔をすると、自分を指差す。

「私、一応は吹奏楽部で、野球部の応援担当の一人。今朝の練習で渡されたわよ?」

 一応、とか言っているけど、響子のトランペットは素人の私が聞いてもすごい。実際、中学時代に音楽で五段階評価の五以外の数字を見た記憶も無い。他の成績も私と比べるべくも無く良いけど、音楽に関しては絶対に勝てる気がしない。

「まぁ、今日からその練習で忙しくなるけど、部活が終わって、雨が止んでいないようだったら、家まで逢い傘してあげる」

 響子がそう言った瞬間、予鈴が鳴り響き、響子は私に背を向け、教壇の方に向いていた。


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