ラヴェンダーパープル
この作品は霜月透子さん主菜される「ひだまり童話館」ぬくぬくな話参加作品です。
茉莉花の両親は共働きで、小学校から帰った茉莉花を迎えるのは母方の祖母の静江だけだった。茉莉花は大人しい子で、外で活発に動き回るより、家で本を読むことを好んだ。城下町の中。その中でも武家屋敷の集まる中にある茉莉花の住まいは和風の作りで、外から帰ると、お線香や佃煮のような匂いがする。
春の麗らかな天気に鳩が鳴く声が聞こえる。五感はとても大事で、茉莉花はこの頃のことが記憶に浮かぶたびに、お線香や佃煮の匂いや、鳩の声、下校途中に決まって会う散歩途中の紀州犬の毛並みの手触りなどを思い出した。
祖母は優しい人だった。だから茉莉花は、世の中の「祖母」という生き物は、皆が優しいのだと思い込んでいたが、どうやら違うらしいと友達の話などで知り、自分が恵まれていることを理解した。
「桜がもう散り始めたよ、おばあちゃん」
「そう。花筏の季節ね。さ、大福をおあがりなさいな。手を洗ってね」
「はあい」
茉莉花は祖母が大好きだった。
子供ながらに、祖母の溢れるような愛情を感じていた。だから、祖母はずっと家にいて、茉莉花と共にいるのだと信じて疑わない。
茉莉花の家の庭にも、小ぶりながら桜の樹があり、盛りを迎えた花が声もなく散っている。たおやかな風がそんな散り際を後押しするようだ。
祖母はいつも着物を着て、料理をしたり縫物をしたりする古風な人だった。茉莉花の母はスーツをぴしりと着込んで隙なく恰好の良い人だったが、茉莉花は祖母の在り様に心惹かれた。大和撫子、という言葉を知った時は、まさに祖母の為にあるような言葉だと思ったものだ。
茉莉花は大体にして聞き分けの良い子供だったが、時折、ひどく心寂しくなることがあった。春の夕暮れなどはとりわけ、茉莉花を孤独に寂しくさせた。祖母に黙ってしがみつくと、決まって無言で抱き締めてくれる。そうすると茉莉花は、ぬくぬくした愛情の湯に浸かった心地になり、寂しさはどこかへ飛んでいく。
「おばあちゃん。おばあちゃん、大好き」
「おばあちゃんも茉莉花ちゃんが大好きよ」
「ずっと一緒にいてね。約束だよ」
「――――そうね」
答えるまでの間を、不思議と思うことなく、茉莉花は祖母の温もりに陶然としていた。子供はいつまでもという砂漠の逃げ水にも似た言葉をなぜか信じ込む。永遠を疑わない幼さがそこにはある。いずれは時計の針が動き、今という舞台を押し流すことも考えずに妄信するのだ。
祖母が目に見えて瘦せ衰えてきた時も、茉莉花はその妄信を抱いたままだった。
母の帰宅時間が早くなった。祖母の付き添いで定期的に病院に行く。
桜の花は散り切って、夏の緑陰も秋の紅葉も過ぎ、雪花の冬となって、祖母は入院した。茉莉花が帰宅しても、迎えてくれる人はいない。茉莉花は足繫く病院に通った。茉莉花が病室に顔を見せると、祖母は大袈裟なくらいに喜んでくれた。そして、涙ながらに言うのだ。
「茉莉花ちゃんの、お嫁さん姿が見たかったねえ」
茉莉花がこの言葉を聴いた時、なぜか胸がつかえるような感覚があった。声を発しようとして、唇が震えるのが自分でも判った。
「見られるよ。だっておばあちゃんはずっと一緒にいるんだから」
「…………」
祖母は答えず、悲しそうに笑んだ。嘘、と茉莉花は思う。この時になってようやく、茉莉花は事態の重大さを認識した。息が苦しくなって、ようやく告げる。
「ずっと一緒でしょう? 約束したよね」
祖母の目尻に涙が光る。それをティッシュで拭い、祖母は声なく何度か頷いた。茉莉花の胸が早鐘を打つ。そんな筈はないそんな筈は。
だっておばあちゃんは今まで一度だって約束を破らなかった。
「嘘吐き」
「茉莉花ちゃん」
茉莉花は病室を出て駆け出した。母は、祖母の病気を「胃潰瘍」というものだと言っていた。治療すれば治るのだと。けれど母の表情は、母自身の言葉を裏切り悲壮だった。雪が降っていた。走る茉莉花の息が白くなる。その真白は茉莉花の後を追うようにいくつもいくつも生まれては消えた。
祖母が亡くなったのは、それから一月後のことだった。
茉莉花は泣かなかった。泣き方を忘れたビスクドールのように、お葬式の時も無表情で過ごした。
「茉莉花。これ、おばあちゃんからよ」
面やつれした母が、まだ呆然とする茉莉花に紙袋を手渡す。
中からはラヴェンダーパープルの毛糸で編まれたショールが出てきた。入院中に祖母が編んだものだ。紙袋には一筆箋も入っていた。左下片隅に紅葉の絵がある。秋に用意したものだろうか。
約束を守れなくてごめんね。いつまでも大好きよ。茉莉花ちゃん。
震える手で、茉莉花は黒いワンピースの上からショールを羽織った。
走馬灯のように祖母のくれた慈愛と温もりの記憶が駆け巡る。ショールは茉莉花を守るように暖かい。
茉莉花の頬を雫が伝う。
幾筋も幾筋も、雫はとどまることを知らない。ラヴェンダーパープルにも雫は落ちて、きらきらと光った。茉莉花はその場にうずくまり、声を上げて泣いた。この泣き声を聴きつけて、祖母が戻って来てはくれはしまいかと思ったが、その代わりのように母が抱き締めてくれるだけだった。
「おばあちゃん、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ずっと大好きだよ」
しゃくり上げる茉莉花に、母も涙を落とす。
母の腕の温もりは、祖母のそれとは違う。同じように優しいけれど、もう、祖母のくれた温もりと同じものは、この地上に二度と存在しないのだと茉莉花は泣きながら思った。