十五歳だった
高校の合格発表が終わると、学校中が卒業モード一色になり、お祭りみたいにあちこちで告白大会が行われ、毎日のように新しいカップルが誕生していた。ざわついた教室を冷めた目で見ていたけれど、莉子にだって気になる相手はいる。
本田将也。
バレー部のキャプテンで、幼なじみ。
幼稚園の頃からずっと一緒だったけれど、高校は別々の学校に進む。スポーツ推薦でT高に進学する将也と、都心にほど近い女子高に進む莉子。教室を飛び出してしまったら、この先もう二度と将也と会えない気がする。
子供の頃、将也は臆病で弱虫だった。いつだって莉子のかげに隠れて泣いてばかりいた。虫がこわい。年長さんに押された。ひとりでトイレに行けない。数えきれないくらいだ。それなのに、いつのまに将也はたくましくなってしまったのだろう。学校じゅうで将也のファンは多い。女子バレー部のあゆ子とつきあっていると知っていても、将也に思いをぶつける女子はあとをたたない。
もう二度と将也と会えないなら、何か記念になるものがほしいと莉子は思った。将也を感じることができる何か。
将也の制服のボタンがほしい。
「ボタンちょうだいよ」
昇降口の掃除中、通りかかった将也に莉子は声をかけた。ぞうきんとって、くらいの気安さを装って、できるだけ軽いノリで。
「なに」
将也が聞き返したので、莉子はもう一度勇気をふりしぼって言わなければいけなかった。
「ボタンちょうだいって言ったんだよ」
ほうきを動かす手はとめずに、わざと面倒くさそうなふりをして。
「無理」
即答だった。
「やっぱあゆ子にあげるんだ」
莉子が冷やかすと、将也がぽっと赤くなった。かわいい。昔から将也はこういう顔をしていた。
「べつに第二ボタンじゃなくてもいいよ」
莉子が言うと、将也はちょっと考え込んでいた。独占欲の強いあゆ子からほかの女子にボタンをあげるなとでも言われているのだろうか。
「遥花に頼まれてるんだよ」
とっさに言ってから、莉子は心の中で親友にあやまった。名前を借りたことがばれたらどうしようと思ったが、きっと大丈夫だ。莉子は遥花に将也の悪口しか言っていない。莉子の気持ちは知られていないはずだ。
「わかったよ」
そう言って、将也は下駄箱からかかとのつぶれた運動靴を床にたたき落とした。あゆ子が待っているのだろう。ふたりが毎日一緒に帰っていることは有名だった。
「じゃ、よろしく。卒業式が終わったら、中庭に取りに行くから」
握りしめたほうきで、砂や石ころを掃きだすように将也を外へ追い出すのがやっとだった。これ以上会話を続けていたら心臓が持たない。莉子はしゃがみこんで、胸をおさえた。将也といるだけで、どうしてこんなに胸が苦しくなるのだろう。幼い頃、何をするにも莉子にまとわりついてきた将也をウザいとさえ感じていたこともあったはずなのに。
将也の引退試合は莉子も見に行った。スピードのあるサーブも、高さのあるスパイクも、もう永遠に見ることはないのだと思っていたら、
「本田君、来年は春高バレーに出てるかもね」
うしろの席でしゃべっている女子の声が聞こえて莉子は思い直す。そうか。将也は毎年全国大会出場の強豪校に進むのだ。この先テレビで将也の姿を見ることだってあるかもしれない。でもそれは、もっと遠くの、莉子とは別次元の世界だ。
将也が手の届かない存在になってしまう。
そう思ったら、今この瞬間の将也を瞳に焼き付けておきたかった。まばたきをせず将也を見ていたら、莉子の目が真っ赤になって涙が出てきた。
これからは将也の思い出と一緒に生きていく。そう考えたら、莉子は自分が長年連れ添った伴侶を亡くした未亡人みたいに思えておかしくなった。
まだ十五歳なのに。
中庭にあらわれた将也と目があったとき、狩りに追われたウサギみたいだと莉子は思った。女子にもみくちゃにされたらしい。予想はしていたけれど、ここまでとは思わなかった。髪はぼさぼさで、ボタンをはぎとられた学ランは全開で、ひらひらと風にめくれていた。シャツは背中からはみだしていて、どこで転んだのか、ズボンのひざが白く汚れていた。
「やばかった」
将也が言った。それにはあえて反応せず、莉子は手を出した。
「わかったよ」
将也がズボンのポケットから出した金のボタンを手のひらで受け止めた。ボタンは少しだけあたたかくて、莉子は泣きそうになった。
「ありがと。遥花、きっとよろこぶよ」
震える声を寒さのせいにして、莉子はセーラー服の襟を首元に寄せた。将也に背を向け、莉子は自分から歩き始めた。心の中で、さよならを告げると涙があふれてきそうだった。
こうして、莉子は中学時代好きだった人に嘘をついた。
家に帰ると、莉子は子供の頃から大切にしているオルゴールの宝石箱に将也のボタンをしまった。嘘をついてまで手に入れたのに、莉子の気持ちはどこか晴れない。満ち足りた気持ちと交互にちくりとした痛みが襲ってくる。
きれいになりたいと莉子は思った。あゆ子なんかよりずっと、何倍も。
古いオルゴールからとぎれとぎれの乙女の祈りが流れていた。
どうして女子はボタンにこだわるのだろうと将也は思っていた。この頃、誰かとすれちがうたびに「ボタンをくれませんか」と言われる。名前も知らない一年生の女の子から言われた時は正直まいった。瞳をうるませて今にも泣きそうな顔をしていたから。これでは将也がいじめているみたいじゃないか。
こんな時、莉子ならどう言うだろう。幼なじみの莉子は、たよりがいのある存在だった。幼稚園の頃なんて、莉子は怖いものなしだった。蚊が飛んでくればペチャンコにたたきつぶしてくれたし、転んだら真っ先に助けに来てくれた。真夜中にトイレに行くのがこわくなくなる呪文やピーマンの味を感じない食べ方を教えてくれたのも莉子で、なんでも莉子の言う通りにしていればうまくいった。
その莉子がよそよそしくなったのはいつからだろう。小学四年生のとき赤白帽を借りに行ったときかもしれない。いつもだったらすぐに貸してくれる莉子が「やだ」と言って、絶対に貸してくれなかった。
その頃から莉子はいつもぷんぷん怒っていて、声をかけづらくなった。中学に入ると、ひとことも口をきいてくれなくなった。中二の終わり、あゆ子から告白されたときも、莉子に相談したかったのに知らんふりだった。
その莉子がボタンをほしいと言ってきたときは正直びっくりした。
「ただのボタンじゃん。なんの意味があるの」
莉子ならそんなふうに言ってのけると思っていたから。でも、それが遥花の頼まれごとなら理解できた。莉子は遥花と親友だ。学校を休みがちな遥花を莉子は毎朝迎えに行っているらしい。莉子が遅れて来ても遅刻にならないのはそのせいだと、クラスのやつらがうらやましがっていた。
ボタンの約束だけすると、莉子は相変わらずイライラして将也にほうきをむけた。足元を掃かれ、さっさと行けと言わんばかりに追い払われた。
あゆ子と校門で待ち合わせて帰ることが日課になっているけれど、最近少しだけ憂鬱だ。正直何を話していいかわからない。つきあいはじめた頃は、お互いバレーの話で盛り上がったが、部活を引退した今、試合や練習の話も尽きてしまった。それに、あゆ子は高校ではバレーをやらないらしい。将也が進学するT高の話をするのはなんとなく気がひけた。
たまには気楽にひとりで帰りたいとも思ったが、
「一緒に帰れるのもあと何日だね」
卒業までの日数を数えているあゆ子にひとりで帰りたいとは言えなかった。
引退試合の日、第二ボタンはあゆ子にあげる約束をした。
「将也君は何かほしいものある?」
あゆ子が言ったので
「キスしたい」
とずっと考えていたことを言ってみたら
「いいよ」
あゆ子はすんなり言って笑った。もはや将也にとってあゆ子と帰る日々はキスまでのカウントダウンだった。
卒業式の日、体育館を出たとたん、将也はあっという間に女子の集団にかこまれていた。もみくちゃにされて、あちこちから伸びてきた誰かもわからない手にボタンをもぎとられた。立っているのがやっとだった。なんとか第二ボタンは死守して、あゆ子が待っている屋上へあがった。
将也を見ると、あゆ子は一瞬汚いものでも見たような目で将也を見た。たしかに、もみくちゃにされてボロボロになっていたかもしれない。約束通りあゆ子に第二ボタンを渡すと、
「思い出にするね」
あゆ子は思ったより冷静な反応だった。
「これで最後だし、もう会わないから」
耳を疑った。あゆ子が踵を返し、屋上を出て行った。わけがわからなかった。
キスさせてくれるんじゃなかったのかよ。
身体の力が一気にぬけて、将也はその場に座り込んだ。
「本田くん、ふられちゃったね」
振り返ると、紅林がいた。でぶで、もの言いが上から目線の紅林は、学年じゅうの嫌われ者だった。こんなところ、紅林にだけは見られたくなかった。分厚いレンズの黒ぶち眼鏡の奥でどんな目をして見られているかと思うとぞっとした。早くこの場を去りたい一心で立ち上がると、莉子と約束していたことを思い出した。
しまった。もうボタンが残ってない。ちくしょう。何をやっているんだ。ほとほといやになる。頭をかかえていると、ぴちぴちとはじけそうな紅林の制服に金のボタンが並んでいるのが目に入った。
「ボタン、くれよ」
将也は紅林に言った。
「え?」
紅林はおどろいたようだった。
「おまえのボタン、それひとつくれ」
「もしかして、本田君、ボクのこと好きなの?」
どうしてこうなるのだろう。
「ちげぇよ」
殴ってやりたいと思ったが、将也はこらえた。ここは紅林の機嫌を損ねたらまずい。
「しょうがないなあ」
もったいぶって、紅林は上から二番目のボタンを右手でむしりとると将也の手のひらに置いた。
「ありがと」
将也が礼を言うと、今度は紅林が手のひらを出した。
「三百円」
「金とるのかよ」
将也はあきれた。誰がお前のボタンに金なんか払うか。腹の底からふつふつと怒りがわいてきた。
「これは取引だからね。本田君はボタンを持っていない。僕はボタンを持っている。需要と供給がマッチしたんだ」
人の弱みにつけこんで、どこまでも卑怯なやつだ。将也はため息をついた。
「でも、交渉はできるよ」
紅林が言ったので、将也は顔をあげた。
「二百五十円に負けてあげる」
紅林が差し出した手のひらを上下させた。これ以上紅林につきあっている暇はない。将也は尻ポケットの小銭入れから二百五十円を出し、紅林の手のひらにのせた。紅林はにんまりと笑って、
「将也くん、元気でね」
そう言って屋上から出て行った。紅林にだけは、もう一生会いたくない。紅林の姿が完全に消えたのを確認し、将也は中庭へ急いだ。
中庭に着くと、すでに莉子が待っていた。ボロボロの将也を見て、莉子は一瞬眉をひそめた。紅林のボタンを渡すのは気がとがめたがこの際仕方ないだろう。それに、同じボタンであることに変わりはない。差し出された莉子の手のひらに、将也はボタンをのせた。
「ありがと。遥花、きっとよろこぶよ」
莉子の表情が、一瞬ゆがんで見えて、将也はどきっとした。大丈夫だ。ばれていない。莉子の背中を見送り、将也は胸をなでおろした。
こうして将也は中学最後の一日を嘘で締めくくった。
家に帰ると、将也の制服を見て母親が叫んだ。
「ええっ。なんでボタンがひとつもないのよ。春から智也に着せようと思っていたのに」
息子がボロボロになって帰ってきているというのに、将也の母親は家計のことが大事なのだ。この状況をどう説明しようか将也が考えている横で、母親はさっさと受話器をとって、制服業者に電話をはじめた。
「ええ、ええ。そうなんです。ボタンだけでいいんです」
「ええ、そうしていただけると助かります」
「それで、おいくらですか?」
「ひとつ二百円ですね。わかりました。ありがとうございます」
母親の会話を聞いていた将也は落胆した。
紅林のやつ。ぼったくりやがったな。
鴨居にかけられ揺れている着古した学ランを眺め、将也は中学最後の苦い思い出をかみしめていた。とんでもない一日だったし、とても疲れていた。