表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
燭光  作者: stepano
4/4

第四回・最終回

 四回・最終回


 その日の夜、大介は大阪・梅田まで出て、キタの繁華街“北新地”へ向かっていた。夕方、友人の沼田から電話があり久しぶりに会うこととなったのである。

 目的の店へ急ぎながら、大介の脳裏にはまだ、あの老紳士の鮮烈な印象が消えていなかった。六十数年間もの間、強烈に老紳士の心の中に生きていたその少年時代、その溢れるばかりの夢を与えたと言う本、そして、それに巡り合うまでは全国を探し回るという異常な蒐集欲。何も研究のため資料を集めている訳ではない。まして単なる懐古趣味とも思われない。そこに息づいているのは、彼の忘れ得ない少年時代の執拗なまでに熱い感動と憧れであり、それが今もって尚且つ強烈に老齢の胸をときめかせているのである。   

 “北新地”の入り口まで来た。大介にとってはまさに十ヵ月ぶりの“キタの飲み屋街”の全貌が甦ってきた。見覚えのある酒場のネオン、過ぎ去りし日の喧騒と虚栄、そして言い知れぬ寂寥。そこには彼のサラリーマン生活十七年間のすべてが凝集されているかのように思えた。降り注ぐネオンの中を通り行く人々の顔と声に一日の終わりをかみしめる活気がみなぎり、すれ違う酔客の足どりの中に一時の虚無と刹那的な人生の縮図が見られた。そんな人込みの中を縫うようにして、バーやクラブの立ち並ぶ露地を右に入り、左へ突き当たって進むうちにやがて、懐かしい雑居ビルの建物に辿り着き、その中に馴染みの店のネオンを確認すると、大介はその中に入って行った。               

 狭いエレベーターがきしんだ音を出しながら動き始めると、やがてそれはランプの点灯している3Fで停まった。スナック“由加”は3Fの一番奥にあり多分、沼田はもう来ているはずであった。

「あーら、おめずらしい」       

 扉を開けると、聞き覚えのあるママの声が微かな騒めきと煙草の匂いに混じって、ほの暗いカゥンターの内側から聞こえてきた。隅の方で沼田が手を振るのが見え、二、三人居た他の客が沼田と大介を見るともなく談笑に耽っていた。

「しばらく」              

 大介は沼田の横に腰掛けながら、ママの差し出したおしぼりを受け取った。

「ほんと。何ヵ月ぶりかしら」      

 沼田は最近、よく通っているらしかったがもとはといえば大介が前の商事会社に勤めていた頃、よく来た店なのである。

「新しい仕事が見つかって?」      

「いや、まだ当分の間は彼の店でアルバイトを…」                 

「これがかえって高くつく居候やねん」  

 傍で沼田が口をはさんで笑った。    

 大介は、グラスの中に漂う琥珀色の液体を眺めながら、しばし懐かしいカゥンターの前に拡がるひと昔前の自分の面影に浸った。十七年間、自分が追い求めていたものは一体何であったのか。あの老紳士のような浪漫がこの十七年間の自分の生活の中で息づいた事があったろうか。想えば想うほどただ過ぎ去った十七年間が空しく、その代償として不透明な焦燥が彼を覆った。しかし、やがてあの老紳士の今日の姿がしきりに彼の頭の中で交錯し始め、それはまるで彼がこの十七年間本当に求めていたものを焙りだしてくれるかのように、静かに燃え始めていた。      

「この間も総務部長さんが見え、あなたの話をしてはったよ」

「そう」                

「丑尾の奴、毎日何をしてるんやろって」

 まだ辞めてから一年も経っていなかったがあとふた月もすればちょうど一年になる。

「毎日、古書の店の中に座って物思いに耽っています」

「何抜かすか。俺はそんな余裕のある失業者を雇った覚えはあらへんで」

 三人は同時に笑った。そして、最初の軽い会話の終わった後、ママは右側に陣取っていた二、三人の客の呼びかけに振り向き、ふたりの前を離れた。            

「ひさしぶりやな」           

「うん」                

 沼田はつぶやき、大介はうなずいた。大介は今日の出来事を話そうと心に決めていたが早速には切り出せないでしばらく沈黙していた。                  

「中古のCDもやり始めたんだって?」

 最近、沼田が古本の他に中古のCDも取り扱い始めたことを聞いていた。

「あかん。あれは儲からんわ。当たる思てんけどなぁ。やっぱり、レンタルの方が儲けがええんかなぁ」             

 脂ぎった商魂が、沼田の横顔ににじみ出ていた。                 

「しかしなぁ、この間は俺も歳やなぁって思たわ」                 

「?」                 

「若い女の子が来て、SKAありますかって言うから、てっきりロックグループの名前だと勘違いしてもうてな」

「SKA?」             、

 大介だって思い出せなかった。     

「まさか、七十年代の後半流行った音楽のひとつのジャンルとは思わなかった。いわゆるR&B風の2ビート、4ビートの強烈なリズムの音楽でね、レゲエの前身だと言われてるらしいんや」              

 沼田が敢えて、歳を取ったと言った表現が果たして自分の流行遅れを嘆いて言ったものなのか、自分も若者として生きていたはずの時代に流行った音楽を忘却してしまっている恥じらいから出た言葉だったのか、大介にとってはよく分からなかった。       

「二十年も前、流行ったリズムか。なるほどね」                  

 大介は感慨深げにつぶやいた。     

「まあ、SKA自体は古いんやけど最近レゲエブームやからその影響があるんじゃないかな」                  

 沼田の考え方には、常に計算された市場性が潜んでいるように思えた。       

 依然と大介は、あの老紳士が探していると言った六十数年も前の単行本の事を思い浮べていた。そして、この話を今、沼田に言えばきっと一笑されるに違いないと思った。昭和初期に出た少年向けの本が今どきの古書業界に残っているはずがない。特殊な専門書は別として、単行本なんて今や二、三年前に世に出たものが並んでいるご時世に、そんな大昔の個別な“掘り出し物”を期待すること自体、時代遅れと言わざるを得ない、とんだ夢物語だ。と。

 やがて、店の中にカラオケの音が響き始め、沼田も陽気に唄い出した。歌と喚声と、煙草の紫煙と、笑いの騒めきの中に商事会社の社員だった頃の自分が途切れ途切れに浮かびそして次から次へと泡のように消えた。 

「丑尾さんも久しぶりに一曲どおぉ?」  

 ママが歌詞集を大介の目の前に置いた。 

「ええ」                

 大介は生返事をしたまま、横で熱唱し続ける沼田の下手な歌声に耳を傾けていた。

 しばらくたち、その耳に響く旋律が次第に十七年間の自分を新たに洗い流し、彼の胸の中にはようやく、先程からくすぶり続けていた自分の追い求めていたものが鮮明な形として浮びつつあった。やがて、それが焙りだされ完成すると、まるでそれを確認するかのように彼は一枚の名刺を取り出していた。それは、あの老紳士の名刺だった。

「何やそれ」             

 唄い終わって、沼田が大介の眺めていた名刺を覗き込んだ。

「今日、ある客が来てね…」

「何かあったのか?」

「いや、別に…」

 大介は名刺を見つめながらつぶやくと、やがて決心したように顔を上げて言った。

「もうしばらくあの店で物思いに耽ることにするよ」

「けったいな奴やな」

 それ以上、沼田は何も聞かなかった。

 マイクは右側の二、三人の客に渡り、次の曲がかかっていた。


                 



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ