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燭光  作者: stepano
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第三回


     三


 やがて、この白髪の老紳士の書棚を走らせていた目からその閃光が消えた。それは、深い落胆のため息と共に、その求めていた古書が遂に見当たらなかった事を意味した。そして彼が店に入って来た時、微かに覗かせていた老齢の中の童心は既にその焔を燃焼し尽くしたかのように思えた。

「随分昔の本なのですが…」

 老紳士が、隅にいた大介に向かって初めて口を開いた。それは、幾多の人生経験を経た柔和で重みのある響きがあった。

「確か、文明社の出版で…、日下実男の『未来の科学』全三巻。ありませんか」

 先程から、本は拡げてはいたが読むふりだけをして、この老紳士の姿を一部始終観察をしていた大介は、突然の問いかけに一瞬戸惑った。

「いつ頃の本ですか?」

「そうですねぇ…」

 老紳士は、皺の寄った口元を僅かにほころばせながら遥か昔の、自分の少年時代をまるで懐かしむようにしてつぶやいた。

「昭和の始め頃ですかねぇ…私がまだ小学校に通っていた頃です」

 大介はあっけにとられた。昭和の始め頃といえば今から六十数年も前の話だ。

「ちょつと無いですねぇ。そういうのって」

 申し訳なさそうに大介が答えるのをあらかじめ予期してたかのように、老紳士は話を続けた。

「そうでしょうねぇ。もうどこにも無いでしょうねぇ。随分、私も全国を歩きましたが、無いようです。無理なようです」

 大介は、何となくこの老紳士の持つ奇異な情熱に惹かれながら、近くにあったパイプ椅子を用意し、無言で彼に勧めた。

「もう、私も七十を越えました。今になって少年の頃に読んだ本をどうして想いだすのか、不思議でしてねぇ。若い頃はそれこそ必死になって働きました。そして随分、家庭を犠牲にしてきましたよ。その反動でしょうか、会社も持ち、家も建て、やがて現役から離れた時には、自分自身にとっての楽しみがひとつも残ってない事に気がつきましてねぇ。子供も遠くに離れ…」

 穏やかに、そしてしみじみと回想していた老紳士の声が突然、途切れた。大介は次の瞬間、彼のうなだれ、うつむいた姿を見た時、その気品ある老齢の両肩が微かに震えているのに気付いた。

「四十数年連れ添った家内も二年前、亡くしまして…今や話相手のない一人暮らしです。空虚な毎日を送っているうちに、ふと想いだしたのが、少年の頃に読んだその本の事でしてねぇ」

 低くつぶやくような声が続いていく。

「夢がありましてねぇ…その本は小学生の私の胸をいっぱいにしてくれましたょ。ただ、自分の本じゃなかったので、むしょうに欲しくなりまして…でもその頃家が貧しくて結局、買ってもらえなかったですょ」

 老紳士は優しい目を店内の書棚に走らせ、まるでそこにひしめき合って眠っている古書があたかも自分の探していたものであるかのように、それらに向かって語りかけるのであった。

「全国をお巡りになっているのですか?」

「ええ。この間も東北の仙台へ行って来ました…大分、歩き回りましたがやっぱり見つからなかったです」

 大介は、ただ驚嘆するばかりだった。これ程までに異常な固執が、この初老の紳士の内に宿っているとは思いもよらなかった。少年時代に受けた感銘が六十数年経った今なお生き続け、その焔は消えていない。そしてそこにあるのは、永年連れ添った伴侶を失い、子供も遠くに離して、今や老後を孤独に生きるもうひとつの寂しい老齢の姿であった。

「難しいでしょうね」

「ええ。でも、また出かけます。どこかでそれに巡り合えるまで…生きている限り探し続けたいと思っています…」

 老紳士は笑った。その微笑みの中には、童心のような純粋さと深い年輪に刻みこまれた哀歌とが同居しているように思えた。そして大介はこの時、何気なく言った老紳士の言葉の裏側に一人の人間の浪漫を感じとっていた。 

やがて、老紳士は帰る気配を見せ、パイプ椅子から立ち上がった。

「おや?高田焼ですね」

 彼の目は事務机の上の湯呑みを捉えていた。

「ええ。よくお分りですね」

 答えながら大介も自分の目の前に置いてあったその湯呑みを眺めた。

「この間、女房と一緒に九州に行って来まして。その時買ったものです」

「ほおぅ、そうですか」

 老紳士はうなずきながら、もう一度その艶のある青磁器を眺め、いい焼き物だと言って讃めた。そして気品ある微笑みを浮かべ、大介に向かって軽く会釈をすると入口へ歩んだ。

「じゃあ」

「あっ。ちょっと待って下さい」

 思わず大介は声をかけてしまった。

「その本が、万が一出て来ましたらご連絡しましょうか?」



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