第一回
一
いつものように熱い茶をすする音が静かな書籍の山の陰から響き渡った。十坪ばかりの店内の片隅には一個の事務机が置かれ、この古本屋の主人である丑尾大介が先程出勤してきて、開店準備を終え、今し方その机の前に腰を下ろしたところである。彼の手にしている高田焼の湯呑みからいく筋もの湯気がたちのぼり、やがてその香りは店内の書棚に漂う古書の重厚な匂いの中に溶け込んでいった。
彼がこの古本屋を学生時代の友人から経営を譲り受けてからやがて一年になろうとしていた。大学を卒業してから十七年間も勤めていたある商事会社を辞め、何となくブラブラするのも気が引けて退屈しのぎにこの商売を始めた。最初は何も生涯、この古本屋をやっていくつもりは毛頭なかった。しかし、このままでいくと当分、転職のあてもあるはずのない毎日であった。
買い受け蔵書約五千冊余り。学術書の古典から果ては文庫本、雑誌、コミック、映画、演劇の古いパンフレットの類まで扱い、ここの古本屋はいわばジャンルを問わない全般的な古書店といえた。場所はある私鉄沿線の静かな住宅街の一角にあり、近くにはラクビーで有名な私立大学があった。毎日、午前十一時には店を開け、閉店の午後八時まで彼はたった一人でこの店の中に住んでいた。
店先には「古本・ヌマタ」という小さな看板が掛かっていたが、これは前の友人から譲り受けた時の店名がそのままになっており、彼の友人沼田は別の古書店を大阪本町のビル街のど真ん中に構えていた。譲り受けたとはいえ実質的には沼田の店であり、いわば彼にとっては次の職が決まる迄の間この店を任されていると言ったほうがよかった。
彼が十七年間勤めた商事会社を辞めた時、妻が看護婦をしていたので差当って生活費に困るという事はなかったが、中学三年の男の子と小学六年の女の子を抱えている今、このままこの商売を続けていくことは収入の面から言っても苦しい限りであった。しかし、丑尾大介にとっては今の時期がこの上もなく充実している時間のように思えた。
開店したばかりでまだ客の来ない時間を利用して彼は今日もこうして先ず入れたばかりの熱い茶をすすっていた。外は若葉が薫り、吹く風に初夏の訪れが感じられた。こういう時、会社に勤めている時とはまるで違う別世界に息づき、呼吸している自分を感じざるを得なかった。考える時間は十分あった。それは仕事そのものより、今の時期の意味についてゆっくりと深く、まるで戦士の休息にも似た安息の中に自分を埋没させたかった。