第3語:記憶の旅
チチチ、と小鳥の囀りがどこからか聞こえ、朝日が悠の顔を照りつける。
振り返ると一人暮らしをしているアパートの黒塗りの無機質なドアがぬっ、と立っていた。
「これは・・・・・・・・・」
『いらっしゃい』
いつの間にかに電柱の頂点に腰掛けていた幸恵が大袈裟に両手を広げこう言った。
『貴方の記憶の世界へ』
すると背後の扉がガチャリと開き、そこから――
「な・・・・・・!」
もう一人の、制服を着た悠が何事も無いように出てきた。
『ここは記憶の世界。そして私と貴方は言うならば精神だけこの世界に来ているの。だから私達の姿は見えないし私達もこの世界には干渉できないわ。ビデオテープを再生をしているのと同じようなものよ』
制服を着た悠はそのまま最寄りの駅までの道を歩き出す。
『ただついて行くだけなのも暇だからお話でもしましょうか』
そう言うとふわりと宙に浮き始める幸恵。悠が驚嘆の眼差しを送ると幸恵は『精神世界よ?物に触れたり出来ないだけよ』と当然のように言う。ソレを聞いてああ、そんなものか。と納得してしまう悠。
幸恵のように浮くイメージを頭の中で作ると同じように宙に浮かぶ。
『ふふ。初めてにしては上出来よ?』
赤ん坊が初めて歩いたときの母親のような愛おしさと見透かすような鋭さの両方を混ぜ合わせながら悠をじっ、と見る幸恵。
『それじゃあ、悠くん。早速貴方に聞きたいことがあるのよ』
「聞きたいこと?」
『ええ。貴方は―――“運命”を変えられると思う?』
「運・・・命・・・・・・?」
毎度の事ながら突拍子の無い、あまりにも漠然とした、つかみ所の無い質問に悠はしばらく沈黙する。
運命とは何を指すのか。そもそも何故そのような質問をするのか考えていると、悠の回答を待たずして幸恵が話を続けた。
『私はね、変えられないと思うの。ちっぽけな人間の意思が変えることの出来る運命なんて存在しない。運命を変えようと努力する事すらも運命の一部だと思うから』
幸恵は“記憶の悠”の後を追いながら話し続ける。
『運命は吉凶禍福を不平等に全人類にまき散らす。幸福だらけの運命を歩む者も不幸だらけの運命を歩む者もいる。けどね?もしソレが意思を持ったらどうなると思う?』
「ソレって・・・運命が、ってことですか?・・・・・・世界が滅ぶ、とかですか・・・?」
『ふふ。そこまではいかないかしらね。けれど、今の世界のバランスは壊れ、破綻する。そして新たな世界のバランスが出来るの』
醜悪な微笑で顔を歪ませながら触れることの出来ない小鳥に手を差し出す。
『もし、そんな事が起きるのなら、是非見たいわね――』
悠にしか感じ取れない空気の鋭さに息を飲む。
『あら。随分人通りの少ない道を行くのね』
しかし、身構えている悠などお構いなしに幸恵は打って変わって穏やかな口調に戻った。
違和感を憶えつつ悠は自分が歩いている道に視線を向ける。
そこは確かに人通りの少ない、いわば裏道。確かに気まぐれで使うことのあるルートだが未だに記憶は戻らない。
“記憶の悠”はそんな裏道を進み続ける。
裏道とはいえど、朝にも関わらず人はおろか生物の気配もしない道。
本来心地良いはずの朝日は生暖かい、纏わり付くように身体を包み、異様で異質な空気が充満していく。
ふと、視界がひらりと動く、布を捉える。
ビルの屋上にいる黒いローブで身体を覆っている二人組。
風に僅かになびくローブが影を深くする。逆光でただでさえ見えない顔がより一層濃い影に埋まり、視線だけが背を向けて歩く“記憶の悠”を追いかける。そして、無言のまま三階建てのビルを音も無く人間離れした動きで器用に降りると同時に、
『“思い通りに動け”――』
呟いた。
ぞわりと冷水を当てられたように腕から首筋にかけて鳥肌が駆け抜ける。未知なる悪寒は霧散すること無く黒ローブの一人からむしろ増長されながら“記憶の悠”に向かってき――
『――<人心掌握〉』
覆った。
霧のように“記憶の悠”を包むが当の本人は気づく事もなくそのまま通学路を進み続けた。そう。操られたように。
夢遊病患者のように意思がない足取りで歩き続け、景色に住宅が多く映るようになる。『歩行者注意!』と書かれている古びた看板が日に照らされて鈍く輝く。
大通りの裏道としてよく使われている為、朝は車が多いことで近所の人間に知られている住宅街。
淀みなく動く脚。
駅へ向かうルートを大きく外れているにも関わらずに。
低く唸るエンジン音が遠くから近づいてくる。住宅街の小さな交差点に吸い寄せられるように向かう“記憶の悠”と一台の車。
医者に言われた「交通事故」という言葉が響き、容易にすぐ起こるであろう悲惨な事故現場が浮かぶ。
が、そんな悠の予想に反し、“記憶の悠”は歩みを交差点でピタリと止めた。あまりにも不自然な停止。
まるで、何かを待っているかのように。
そして、待ち人来たる――。
ぐしゃり、
厚紙を握りつぶしたような破壊音が低く響いた。タイヤの模様が血痕で地面に押される。
にも関わらずに車は速度を緩めずに走り続けた。ずりり、と血痕と鈍い音が肉を引きずっていることをこれでもかと押しつけてくる。
数十メートルほどするとボロ雑巾のような物体が車の側面からごろりと出てくる。正確には、引きずられたせいで皮も肉も同一化し、こね合わせたような肉の塊に成り果てた悠が――。
「ぐ・・・・・・・・・っ!」
記憶の世界故に嘔吐することが出来ずにこの形容しがたい気色悪さを溜め込む。
悠は小さな頃に見た、道ばたに放置されていた小動物の死骸のことを思い出した。
初めて直面した、生々しい死。平衡感覚が狂うと錯覚するほど血の気が引くあの感触。
『ふふ。酷いわね』
対照的に道楽的な態度の幸恵。もはやこの状況を楽しみにしていたのでは無いかと疑いたくなるほどだった。
『あら?気に障ったかしら。ごめんなさいね』
悠の幸恵に対する訝しげな視線を感じたのか、謝罪の言葉を口にするも、未だに口調が弾んでいる。この惨劇を映画や演劇と勘違いしているのではないかと疑いたくなるほどあっけらかんとしていた。
だが、そんな幸恵が何かに気づいたように目を僅かに細める。
ずちゅっ、ずちゅっ、ずちゅっ、
視線の先――ぼろ雑巾のようになった“記憶の悠”から聞こえてくる肉を捏ねるような音。
一度逸らした戻したくも無い視線を再び“記憶の悠”に向ける。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・!」
そこには、正に生命の根源を破壊するかのような光景が広がっていた。
ぱっくりと開いた傷口に蟻が巣に戻るかのように飛散した肉片が這いずりながら“記憶の悠”を目指す。
千切れていた左腕は傀儡のように左肩に向かっていく。
飛び散っている黒い血液は新鮮さを取り戻すかのように赤々しくなり、あらゆる傷口に吸い込まれていく。
そして、この世のものとは思えないおぞましい再生ショーはピタリと突如終わりを告げた。目も当てられないほどの傷は一瞬のうちに大けが程度にまで治っていた。このことに悠の心の中にある感情が浮かんだ。
恐怖。
狂気、驚嘆、絶望。それらの感情では無く圧倒的な恐怖。それは交通事故に遭ったことでも凄惨な事故現場を見たから浮かんだわけでは無かった。
自分は普通の人間なのか?という疑問。そして、今の自分は本当に霜月 悠なのか?僕は僕なのか――?という疑問から膨らみ続ける恐怖。
『・・・そんなに怖い?自分が自分じゃ無いかもしれないのが』
「当たり前でしょ・・・!」
『良いじゃない別に。そんなのは小さな問題よ。なにより貴方は助かった事を喜ぶべきだわ』
「それは・・・・・・」
確かにその通りだ。しかし普通を好み、求めてきた悠にとっては余りにも大きすぎる問題だった。
『あら。時間ね』
ぽつりとそう呟いた瞬間、この前のように再び世界に亀裂が走る。
「・・・・・・僕が、こんなになっても生きているのも運命ってことですかね?」
『そうかもしれないわね。これは明らかに普通ではないわ。もはや普通の運命とも言えないかもしれないわよ?』
電柱のてっぺんに座りながら傍観していた幸恵は空に脚を踏み出し、“記憶の悠”を見下ろす。電線に止まっていたカラスが一つ、鳴く。
『ふふ。運命って、本当に残酷――』
救急車のサイレンが、頭に響きながら、世界が崩れた。