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悠介は、あのとき以来、いつもと変わりなく振舞っていた。
あの日、高校の裏門を出てすぐの『一富士』で夕食になる食事をとりながら、悠介は自分の家のことを、きれぎれにしゃべった。ときどき、プレッシャーにつぶされるときがあるんだ、と。
悠介の家は、とても貧乏だった(みんな、かるがるしく「うちは貧乏だから」って言うけど、ほんとうの貧乏を経験してたら、とてもそんな言葉は発せないはずだ、と悠介は言っていた)。
姉が高校を出てから、家計はいくらか楽になった。けれど、姉の稼ぎの一部が悠介の学費になっていることを、ことあるごとに母親に確認され、あんたは私よりずっと頭いいんだから、いい大学いけるよ、と姉に言われる。五年前、おなじ清水高校で、常に三十位以内の成績をとっていた姉に。
「姉さんだって、大学なんか簡単に入れたはずなんだ」
のびかかってきたラーメンの器を前に、悠介は淡々としゃべった。「でも姉さんは、私はどうせ大学行ってもやりたいことないし、女だから学歴いらないし、悠介は自分のやりたいようにやりな、っていって就職したんだ」
私は無言でやきそばを口に入れた。「やりたいこと、あるけど、学歴なんか全然必要ないんだよな……。自分だけ大学行かせてもらっても……」
最後のほうは小声になって、うまく聞き取れなかった。
悠介は、ラーメンを割り箸に絡ませたまま、動きが止まっていた。
「……まずそう」
水を吸って、すっかりぶよぶよになってしまった麺を見て、つい言葉が出た。
悠介はその言葉で我に返ったように、ゆっくりと自分の器を見た。
「はは、ほんとだ」
そう言って苦笑いすると、その、まずそうなラーメンを、ずず、とすすった。
「ごめんな、こんな話しちゃって」
店を出てから言われた。私はなにも考えずに、構いませんよ、と、悠介に向かって薄く笑いかけた。悠介は、自転車のかごに鞄をつめながら言った。「なんか、井上、ってそういう話聞いてもらえそうだったから」
「そうですか?」
私は笑いかけたまま、すこし首をかしげた。
自転車をひいている悠介と私は、いつかとおなじように夜の街を並んで歩いていた。
違っているのは、高校のある街のほうが、あのときよりも車が多くて、光も音も多かったところだ。
「たとえば美緒だと、すごく深刻な顔をして、『ほんとうに?』なんて言って、そのあとも過剰に心配されそうでさ。いいやつなんだけど、知られたら鬱陶しくなっちゃう気がして」
なんとなくそのイメージが沸いて、そうかもしれないですね、と笑った。
「けど、井上ならそういうの大丈夫だ、って。それに話もわかってくれそうだな、って思って。だから、ごめん、なんか愚痴聞いてもらっちゃった」
それは、たぶん、私のほうが大変な生活だから。
それは、たぶん、私の家がめちゃくちゃだから。
それを、お互い、なんでもないように振舞っているから。
私は笑ったまま下を向いた。
横断歩道をわたって、交差点を曲がった。そして、そのまま無意識に歩こうとしていた私の手が、悠介に引っ張られた。
え、なに? と思っていると、悠介は、自分が車道側にくるように、私との位置を入れ替えた。
いままでそんなことをされたことがなくて、すこしびっくりした。
こんなふうにやさしくされることに、私の身体はうまく馴れていない。
そのまま私と悠介は、お互い無言で、なんとなく下を向きながら歩いていた。
「ここ?」
私は頷いた。バス停についていた。
悠介は、なんかこのままじゃ辛気臭いよなあ、とぶつぶつひとりで呟いていたけれど、突然、そうだ、と言って、私の顔をじっと見つめた。
「自転車、乗ってみない?」
「……え?」
私は自転車に乗れない。悠介にはそう伝えていたはず。それが顔に出ていたのだろう。悠介は続けた。
「いや、後ろにさ。この時間なら車も少ないし、家まで送ってくよ」
「でも」
「ちょっとお尻痛いかもしれないけど。なるべく段差は通らないようにするよ」
断りきれずに、私は自転車の荷台に座った。はじめ跨がろうとしたけれど、制服のスカートだと難しくて、よく女子がそうしているように横向きに座ることにした。どちらにしても足が不安だった。
「腕は腰に回して、しっかり掴んでおいて」
私は無言で悠介の腰に手を回す。心臓がきゅーっと締まるような痛みを感じた。緊張しているのか、悠介に抱きついているからか、心臓の音が大きくなっている。
「じゃあ、いくよ」
私が頷くと、ぐいっと悠介の身体に力が入った。
ゆっくりと自転車が動きはじめた。