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生徒会室に入ると、美緒が椅子を踏み台にして、上の棚からファイルを何冊かひっぱり出しているところだった。他には誰もいない。
「こんにちは」
「あー、ちょうどいいところに。純ちゃん、背高いでしょ。ちょっと代わってくれないかな」
「……いいですよ」
断るわけにはいかない。
鞄を机の上に置くと、どれですか、と美緒と一緒に棚を見上げながら靴を脱いだ。
「えーとね、左からみっつめの清高展要綱、そう、その赤いファイルと、うーん、一応隣にあるおととしのもお願い。それと、仮装要綱も二年ぶん、そう、その青いファイルね、あとは……」
美緒の指示に従って、次々とファイルを取り出してゆく。
「他は、いいですか?」
「うーん、とりあえず、これだけでいいわ」
美緒がファイルをぱらぱらとめくっているあいだに、私は慎重に椅子から降りた。
「去年のを参考にするんですか?」
訊きながら、手早く革靴を足にはめてゆく。左足にすぽっ、そして右足にすぽん、と。
美緒はまだファイルを眺めていた。
「参考っていうか、もうほとんどそのまま使いまわすんだけどね」
私もひとつ手にとって眺めてみた。まずはじめに活動計画があって、予算表、展示団体募集、部屋割り表、団体ごとのタイムテーブル提出用紙、などが日付けを追うようにきちんとファイルされている。
「そうだなあ、まずはアンケートとろうか」
美緒が言ったとき、ちょうどドアが開いて悠介が部屋に入ってきた。
「こんにちは」
「どうもー」
悠介の声がいつもより低く響いた気がした。
「なんだか、会長、疲れてる?」
咄嗟に美緒が訊いた。
「……すこしね」
悠介は、ぐるぐると首をまわした。私はすこし気になって訊いた。
「どうかしたんですか?」
「ん……、いや、ちょっと徹夜で勉強してさ」
ワンテンポ遅れて言葉が返ってきた。
「テスト終わったばっかりだっていうのに、会長は優等生だねえ」
美緒が皮肉っぽく言った。
「はは、まあね」
「まあね、だって。純ちゃんどうする?」
私は無言で美緒に笑いかけた。悠介は苦笑いして私と美緒を交互に見た。
「……それで、どうするんだ?」
「そうだなあ、まずくすぐってみようか。純ちゃんちょっと会長の手首押さえてくれるかなあ」
「そっちじゃなくて、文化祭だよ」
悠介が笑った。美緒は、あはは、そっちの話かあ、と言うと、まずは全校にアンケートとろうと思うんだけど、と、真面目な顔になって言った。
部屋に入ってきたときの悠介の声は、いつもより平板に聞こえた気がしたけれど、すぐにそのかけらは感じとれなくなっていた。
「アンケート?」
「ほら、仮装やるかどうか、っていうのと、他の出しものを何をやるか、っていうこと。去年は生徒会主催で綱引き大会とバンド演奏やってる」
美緒がさっき取り出したファイルを見ながら言った。
「毎年違うことやってるのか?」
「仮装は毎年やってるけど、綱引きとかは毎年決めてるみたいね」
「ああ、去年ろくに文化祭参加してなかったからわからないなあ。綱引きなんてやってたのか」
「あたしも、田沼先輩にすこし話を聞いただけだし。……これの通りにすすめればまず問題ない、って」
美緒がファイルを指して言った。
「あ、そういえば、田沼先輩と、吉沢先輩がきてくれるんだったよな」
「うん、ほかにも詳しい人いたらぜひお願いします、って頼んできたけど」
美緒と悠介がそんなことを話しているうちに、ぞろぞろと他の生徒会役員が顔を出しはじめた。
はじめて生徒会室に顔を出した三年生に教えられる形で、悠介と美緒はタイムテーブルを書き、文化祭当日までの担当が割り振られていった。私は悠介と展示部門を担当することになった。
そのあと、部門ごとに今後の予定を立てて、今日はそれぞれ解散した。
私は、悠介に、そういえば井上、字きれいだったよね、と言われてアンケートを書くことになった。
六時半をまわって、窓の外は暗くなっていた。朝から降っていた雨もあがって、高校生が帰る時間にはちょうどいいかもしれないけれど、私が帰る時間にはまだはやい。私は、悠介と美緒が箇条書きで書いた項目を、FAX原紙に丁寧に清書していった。
美緒は塾に行くといって引き上げていった。いつのまにか生徒会室は、私と悠介ふたりだけになっていた。
「井上は、家大丈夫? おやごさん心配しない?」
「だいじょうぶですよ」
遅くなったって、うちには誰も怒る人はいない。弟すら、中学に入ってから夜になると出かけていくから、あの部屋で人と会うことは滅多にない。「うち、そういうの何も言われないんですよ」
私は悠介の顔を見ずに答える。そうか、うちはうるさくてさ、と悠介が言った。
「それで、いまちょっと家に帰りたくないんだよなあ」
私の手が、一瞬止まった。
同時に止まってしまった思考を再び動かすために、そうなんですか、と、原稿をじっとみつめて、むりやり手を動かしはじめる。
いいじゃない。
人がいるだけ、いいじゃない。
私は何も考えず、そのあとはただ黙々とFAX原紙に向かって清書した。悠介も、もう何も言わない。シャープペンが古い机の上で立てる音だけが、とっ、とっ、と湿って響いた。
「会長、できましたよ」
悠介は机に突っ伏していた。
しずかに眠っている悠介をじっと見ていたら、すこし気分がおちついてきた。
家にはなにも期待してないつもりなのに、ああいう話を聞くと、いつも胸のなかで、なにかもやもやしたものが熱をもってしまう。それでも、人と目が合うと、笑ってやりすごせるようになったから、もう大丈夫だと思っていたのに。
私は目を瞑って、ゆっくり、ふかく、息を吸いこんだ。
いち、に、さん
よん、ご、ろく
悠介が目を覚ます気配はなかった。
起こすのも悪いかな、と思って、鞄から数学の教科書を取り出した。シャープペンをくるくる回しながら、明日の宿題になっている単元を睨む。
すぐに私は、教科書のなかに入っていく。
二重根号の開きかた。そのままだと開けないものは、分子分母にルート2をかけてみる、最後に忘れずに分母の有理化をする。
中学のときはそれほどでもなかったけど、数学、わりと好きになってきた。ルールに則って、ひとつの道筋を立てる。解答のルートが見つかれば、それに沿ってあとは必死に解いていく。解いているあいだは、そのことしか考えなくていい。
14かける3をそのまま計算するか、7かける6にしてから計算するか、そんなちょっとした工夫で、最後まで解きやすくなったりするのもおもしろかった。
調子が出てきたところで、くるくる回していたシャープペンが手から滑り落ちて、かたん、と音を立てた。
「……あ、寝ちゃった」
「おはようございます」
悠介が頭を上げた。私は、できましたよ、と言ってアンケートを渡した。
「ああ、ありがとう」
悠介は目を細めてそれを見ると、じゃ、明日やるか、と言って、さっ、と自分の鞄に仕舞いこんだ。
「ところで井上、このあと時間ある?」
「……ありますけど」
まだ七時半だった。
「ちょっと『一富士』に食べにいかない? お金はだすよ」
私は、にっこりと笑って承諾した。うまく笑えていたはずだった。