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マイクを繋ぐ音が、ぶつ、ぶつっ、と流れている。
高校生活の二日目は午前だけで授業が終わり、生徒会による歓迎会がはじまろうとしていた。
授業初日だというのに、昨日のことが頭から離れず、なにも集中できなかった。まだ初回ということで、導入だけに留めてくれた教師が多かったことは救いだった。
そう、あと三年……、三年の我慢じゃない。
私は、今日何度目になるかわからないその言葉を、頭の中でゆっくりと繰り返した。けれど、何度つぶやいてみたところで、泣き出したい辛さは減ってくれなかった。
耐えられなくなって顔を上に向けた。目をつぶる前に見えた灰色の空が、肌寒さを一層感じさせる。私はゆっくり、いち、に、さん、と数えながら息を吸った。そして、よん、ご、ろく、と数えながら息を吐き出す。もういちど、いち、に、さん、と数える。
三回目の、さん、を数えているときに司会の女の子が喋りはじめた。顔は遠くて見えないけれど、とてもかわいい声がスピーカーから流れている。隣にいた万由子が、アニメの女の子の声みたい、と言った。
そして、生徒会長の挨拶がはじまった。
「桜の舞う春、新入生の皆様、ご入学おめでとうございます。さて、今日から授業もはじまり、みなさんの高校生活三年間が本格的にスタートしました。伝統と歴史あるこの清水高校が、世間に向けて堂々と文武両道を掲げていることは、みなさんも受験のときにイヤというほどやった面接対策のおかげで、すでに周知のことでしょう。……いや、僕はそうだったんですけどね」
数人から笑いが漏れた。
私は、マイクを通して聞こえるその声に、なにかを思い出しそうな気がして、ゆっくり顔を上げた。
「文武両道、言葉に出すのは簡単ですが、実行するのはかなり難しいことです。一ヶ月ごとに行われるテスト、そのための勉強量は、すぐに高校受験のときの比ではなくなります。そして、それだけ勉強をやらされるのに、一年生の体育では、基礎体力をつけるためにひたすら走らされます」
朝礼台の上で喋っている男の人は、遠くて横顔しか見えない。目を細めてじっと見つめてみた。
ときおり吹く春の風が、グレーと黒の制服をなぎ倒すように通りぬけて、運動場の遠くの方で砂ぼこりが舞った。
生徒会長は、変わらない調子で喋っている。
――スポーツテストは常に優秀校、甲子園出場経験のある野球部をはじめ、陸上部、水泳部、バスケ部など、全国大会に出場している運動部もたくさんある――
万由子は隣で欠伸をかみ殺していた。春休みに出された数学の課題が終わっていなくて夜中までかかったそうだ。
「さて、これから部活紹介がはじまります。ここでのスピーチを参考に、一週間、色々な部活をまわって、三年間やりとおせそうだ、というところに入部してください。……えー、ここでついでなんですけど、今期は生徒会も人が足りなくてですね。手伝ってやってもいい、という人は、ぜひ生徒会室も覗いてください。それでは、応援団からお願いします」
挨拶を終え、拍手の中で一礼してから、彼は朝礼台を降りた。
入れ替わりに学生服を着た男子がそこに上がると、セイヤー、と、大きな声を出した。目の前で大きな旗が上がり、吹奏楽の合奏が聞こえて、校歌の斉唱がはじまった。
「純、部活どうする?」
「まだ決めてないけど、あまり遅くまでかからないところにしようと思って」
運動場から教室に戻っていた。
放課後の教室は授業中よりも明るく感じる。それは単に生徒の密度がすくなくなるからだろうか。それとも、一日の終わった解放感が、何でもないものをそう見させてしまうのだろうか。
「そっか。大変だな、純は」
机に腰掛けていた万由子は、遊んでいた足をぶらぶらさせて、窓の外に顔を向けた。
もう見学に行っているのか、それとも帰宅してしまったのか、教室に生徒はほとんど残っていない。
「そんなこと、ないよ」
私は軽く笑った。そんなことない。
アルバイトなんて、ぜんぜん大変じゃない。
「さて、私もどこか見に行かなきゃ。部活、入らなきゃいけないんだよね」
私は鞄を持って立ちあがった。万由子の頭を、ぽん、とひとつ叩きながら。
「失礼します……」
「はーい、なんですかー?」
すこし緊張しながら部室棟の一角にあるドアを開けると、元気のいい声が返ってきた。
……あのとき、スピーカーから流れていた声だ。
ごちゃごちゃとダンボールや本が積み重なっている部屋の中には、茶色がかった髪をした女の子がひとり、いかにも使いこんでいる、という木の机に向かって本を読んでいた。
笑いながら、何の用かな? という表情をしている彼女はとてもかわいく見えた。
本は、『あしたのジョー』の三巻だった。
「あの、一年生募集してる、って言ってたんで見にきたんですけど」
「えーっ! ほんとうにあんな台詞で効果あるもんなんだあ」
彼女は『あしたのジョー』を机の上に伏せ置くと、「どうぞどうぞ」と私を部屋にひっぱりこんで、立て続けに喋りはじめた。
「ごめんね。いま会長、部活行ってていないんだ。もうそろそろ顔出すと思うけど」
彼女は腕時計を見て言った。つられて私も自分の腕時計を見ると、五時をすこし回ったところだった。
「どうぞ。そんなとこ立ってないで、かけてよ」
彼女の笑顔につられて、私も笑いながら、失礼します、と彼女の隣に腰をかけた。
「あたしは副会長の秋山美緒。23HR。よろしくね」
まだ、入る、とも言っていないのに、一方的に自己紹介をされた。けれども、彼女の雰囲気につられて、井上純です、よろしくお願いします、と言ってしまっていた。
部活、まわってきた? と訊く美緒に、私はいくつかの文化部をまわったことを告げた。
はじめに万由子と吹奏楽部を見学した。
そのあと、中学のときにバスケ部に入っていた万由子は、体育館に向かい、私は生物部と囲碁部と美術部を見て回った。どこの部も、入れ替わりで新入生がやってきて、一緒に説明を受けた。
吹奏楽をやってみたかったけれど、かなり練習に時間を割かれるようで、八時九時まで練習していることはざらだと言っていた。それに、夏には野球部の応援に行くから、そのための練習もかなりこなすということだった。
時間だけならなんとかなる。問題はお金のほうだった。
生活費さえままならない今の状況で、部活にかける費用のことを考えると、どうしても吹奏楽部には入れそうにない。
美緒は、黙っていてもかわいい女の子だったけれど、話をはじめると、彼女の魅力はとても大きいものになった。それをおおげさにいうと、そう、雨上がりの雲を割って射す日の光のような。
話す行為そのものが苦痛になってしまうことの多い私でも、彼女と話すことは苦にはならなかった。
「生徒会、っていってもそれほどやることはなくて、そうだなあ、六月にある文化祭の準備のときは忙しいけど、あとは体育大会も、今日みたいな歓迎会も一日で準備しちゃうからね」
「それじゃあ、普段はなにかしてるんですか?」
「うーん、この部屋にたまって、おしゃべりしたり、お菓子食べたり」
美緒は軽い調子で言った。生徒会といっても、あまり構える必要はなさそうだった。
「そうなんですか」
「そんなわけないだろ」
ドアが開いて、男子生徒がひとり、生徒会室に入ってきた。
「ああ、会長。新入生来たよ」
「予算折衝に部活の壮行会だろ、あと、夏と冬の球技大会、体育大会は体育科の教師がやっちゃうけどな」
彼は、黒いリュック型の鞄と青いビニール袋を、机の上にどさっと置いた。
「きみ、来てくれたんだ」
彼が笑った。やっぱり彼は、とても綺麗な顔をしている。
私は、ゆっくりと頭を下げた。
「え? ふたり、知り合いなの?」
美緒が私と彼を見較べた。私は、なんと答えていいかわからず、美緒に薄く笑いかけてしまった。
「知り合いっていうか、友達っていうか、きょうだいっていうか」
「ええ? きょうだい?」
美緒はびっくりしたように高い声を出した。おもわず私は笑いながら声をはさむ。
「きょうだいじゃないですよ」
「もう。またいいかげんなこと言うんだから」
美緒は全身で、呆れた、というようにため息をついたけれど、彼は、ははは、と悪びれもせずに笑っていた。
「他には新入生来なかった?」
「うん。でも、今の人数でもやれないことはないでしょ」
「うーん、そうかあ。それじゃあやっぱり、一年生向けに役員募集のプリント刷るか。美緒、できる?」
「いいけど、そんなに会長は一年生欲しいの? 私たち二年だけでなんとかなるでしょ」
彼も美緒も一転して真面目な顔になっている。
「うーん、そりゃ、ただこなすだけなら問題ないよ。来年は僕らサポートするわけだし。でも、この時期から一年生いたほうが、次に繋がるだろ」
美緒は暫く黙っていたけれど、わかった、それじゃ明日印刷する、と顔を上げた。
「でも、こんなに美人でかっこいい子が来てくれたんだもん、まずは安心だよ」
美緒が私を見て笑った。
ああ。美緒は、笑顔がすごく魅力的なんだ。さっき感じた晴れ間のようなものは、美緒の笑った顔から放たれていたんだ。
「そうだな。それじゃ、歓迎を兼ねて『一富士』にでも行くか」
「いいねえ。会長のおごり?」
「美緒は自分で出せよ」
彼が、今日は引き上げるか、というニュアンスをこめて言うと、咄嗟に美緒が言葉を返す。
ふたりは、仲、いいんだなあ。
「あの……」
なにそれー、という美緒の声と重なった。
私は、ただ見学をしに来ただけだった。そのことを伝えておこうと思った。シフトの入っている日は、顔を出せるかわからない。生徒会に入っても役に立てないどころか、足を引っ張るだけかもしれない。
話は中断されて、ふたりが私を見つめた。一瞬の間が三人のあいだを漂う。
「どうした? なにかわからないことでもある?」
けれど、彼の顔を見た瞬間、そういえば、と、ひとつの疑問が私の頭を駆けた。
彼が、捜せばすぐに見つけることができるよ、と言った理由はわかった。
私を見つめているふたりに向かって、ひとつ、わからないことがあるんですけど、と言った。彼は軽く頷いて、私は軽く息を吸った。
私の目が、彼のその綺麗な顔を捉えた。
「会長の名前、教えてください」
えーっ? 知り合いじゃなかったの? と言う美緒と、あれーっ、言ってなかったっけか、と苦笑する彼の前で、私も苦笑いしていた。
彼は、高原悠介です、よろしくお願い申し上げます、と、わざとらしく丁寧に名乗った。