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 アルバイトが終わったあと、喫茶店には寄らずに家に帰った。高校生活の初日は思ったより緊張していたようで、家までの道を歩いていると、勝手にまぶたが落ちてくるほどの疲労を感じた。

 気付くと私はエレベーターを九階で降りて、無意識のうちに家の前まで辿り着いていた。

 けれど、いつものように鍵を挿しこもうとした手が止まった。

 いつもと違う、嫌な感じを思い起こさせるデジャブ。私はそっと、その集合住宅の郵便受けを開けて耳を澄ませた。

 あれは、弟じゃない。

 私は、動けないまま団地の廊下にしゃがみこんでいた。頬に当たっていたつめたいドアの感覚はもう消えている。

 いやだ。

 いやだ。

 私は、ほとんど小走りになりながら、またエレベーターに向かった。

 『いやだ』

 頭の中にはその言葉しか浮かんでこない。

 左足に気をつけながら、私は急いでまだ九階に止まったままのエレベーターに乗りこむと、素早く階数指定のボタンと『閉』のボタンを押した。

 エレベーターはいつものように、ガタのきていることを隠さずに、きいきいと鈍い音を発しながら、ゆっくり上昇していった。

 私は屋上に出ると、深呼吸をしながら建物の端に向かって歩いた。今日の月は、薄い雲に遮られて、ぼんやりと黄色く光っている。

 スカートを翻す風で、私はまだ自分が制服を着たままだったことに気付いた。腕時計に目をやると、夜の十時をまわったところだった。

 私は、柵の手前まで歩くと、真新しい制服を汚してしまうのも構わず、コンクリートに腰を下ろした。

 いつもそうしているように、右足だけを抱えるようにして、左足はまっすぐ伸ばす。風に吹かれて、背中まで伸びた髪が顔にかかった。とても邪魔だったけれど、とても疲れていた私は、髪を払うことも縛ることもせずに、ただそのまま目をつぶった。

 右膝に額を預けながら身体を休めていると、それまでざわざわとしていた胸が徐々に落ちついてきた。

 ときどき強い風が吹いて、私の髪を引きちぎろうとするかのように、ひゅうっ、と音を鳴らせて通りすぎていく。

 目を開けると、煙草の吸殻がつよい風にも吹き飛ばされることなくコンクリートに張りついていた。

 私は、その吸殻を剥がしてしまおうと、左足を伸ばした。


 屋上には、三十分くらいいた。

 自宅の前まで戻ってくると、私は無意識のうちに深呼吸をしていた。いつもは気にもとめないドアの音が、やけに大きく響く。

「純か。遅いんだな。いっちょまえにこんな時間に帰るようになって」

 スーツを着たままの父は、私を一瞥すると、とんとん、とコーヒーの空き缶に煙草の灰を落とした。

 私は無言で、父と、父の吸っている煙草と、今日のプロ野球結果を伝えるテレビを見ていた。

「なにも言わないのか。ま、いいけどよ……。はは、阪神この時期はいつも調子いいんだよな」

 父は、ふーっ、と大きく煙を吐き出した。きちんとした服装に、ネクタイまで締めている。これから出かけるのか、それとも他の住みかに帰る途中に寄っただけなのか。

「ところで純、相談があるんだけどよ」

 父は煙草を押し潰すと、私の顔を見た。目が合った瞬間、ざわざわとしたものがまた、足元から身体じゅうを駆け巡った。

「金、貸してくれねえか」

 ざわざわとしていたものが、急に熱を持った。

「ふざけないで」

「お、なにも喋らないから、俺はまた、口まで利けなくなったのかと思ったぜ」

「どうして私がお父さんにお金渡さなきゃならないの」

「ちょっとピンチでな」

 それが当然のことのように、にやりと笑って言ってのける父に、私の耳は熱くなった。

「大体、誰のせいで私がこんなに遅く帰ってくるようになってると思ってるの!」

「そうか。純、働いてるのか。偉いな」

 父の言葉を聞いて、自分が余分なことを言ってしまったのに気付いた。いままでの感情が熱を引くように去っていく。

「触らないで」

 肩をつかまれそうになって、咄嗟に身をよじった。父の目を見ていたら、とても気持ち悪くなってきた。

「これしかないから。渡すからすぐに出てって!」

 仕方なく私は、財布から千円札を二枚出して、テーブルの上に置いた。

 父はそれを手にとって、暫くひらひらさせていたけれど、

「本当にこれしかないのか?」

 といって私の顔を覗きこんだ。父の濁った目からは、平板な光が発せられている。

「……制服と授業料と定期代になってるんだから、あるわけないじゃない」

 怒りと情けなさの入り混じった感情に支配されて、おもわず泣きそうになりながら、踏みとどまって声を出した。なんとか怒ったような声を出せたと思う。

「ふん。お前が高校に行ったところで、たいして役に立つとは思えないけどな」

 父は、また煙草を深く吸うと、大きく煙を吐き出しながら、プルタブの部分でぐりぐりと火を消した。

「お願い。もう、出てって」

「おいおい、ここは俺名義の家だぜ。すこしくらいいたっていいだろ?」

 父はもう一本煙草を取り出すと、緑色の百円ライターで火をつけた。目をつぶって、深くまでその煙を吸いこんでいる。

 私は父を無視して、自分の部屋に行った。制服を脱ぐと靴下をはいたままベッドに横になった。わけもわからず、涙が出そうだった。


 父は、普通のサラリーマンをしていると言っているけれど、滅多に家に帰って来ない。昔からそうだった。そういう仕事をしているのか、他に住んでいる家があるのか、私は知らない。

 母は、二年前に家から離れていった。そのあとわかったのだけれど、父は、この家に一切お金を入れていなかった。

 母がいなくなった後も、父は同じようにふらふらとやってきて、私たちが母や伯母さんからもらっていたお金を盗っていった。

 まわりに迷惑をかけつづけるわけにもいかない、と思った私は、中学生だけど無理を言って働かせてもらうことにした。そうしなければ、教科書代も給食費も、なにもかもが払えなくなっていた。


「姉ちゃん」

 いつのまにか眠ってしまったらしい。

「どうしたの?」

 起こされたばかりでぼんやりとした頭を抱えながら、ゆっくり目を開けた。私の顔の上に、茶色い髪をした弟の顔が見える。

「金が、ないんだ。机の中に入れておいたのに」

 それを聞いて、がっ、とベッドから起きあがった。

 リビングには、父の吸っていた煙草のにおいがかすかに残っている。

 私は、灰皿がわりに使われていたコーヒーの缶をじっと眺めた。

「……どうして?」

「ねえ、あいつ、来てたのか?」

 弟の顔がはっきりと怒りで真っ赤になっている。

「私、お父さんにお金、渡したんだよ、二千円しか持ってなかったけど、それ全部渡したのに」

 私が屋上になんて行っていなければ、弟までお金を盗られずにすんだかもしれない。

「くそ、このところ気配がなかったから油断してた。今度会ったら絶対に刺してやる」

「弘樹、気持ちはわかるけど、早まったことはしないで。私たちがいままで耐えてきたのが台無しになっちゃう」

 私は懇願するように言った。あと三年、私が高校を卒業する年に、両親はきっちり離婚することを決めている。片親だと色々面倒な手続きがあるし、制約がかかる場合もあるからといってまだ離婚はしていない。

 それが済めば、私たちは、自由になれる。

 弟の目は、やり場のない怒りに満ちているようだった。

「ねえ、弘樹、わかってるんでしょうね」

「……わかってるよ!」

 弟は、感情を抑えることなく壁を蹴りとばした。

 深夜の静寂のなかに、ばん! と、やけに大きな音が響き渡った。


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