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「ありがとうございましたー。またお越しくださいー」
会計を済ませた客に頭を下げる。レジに向かってくる人がいないことを確認してから、私は客のいなくなったテーブルを片付けに向かった。
回転寿司屋をアルバイト先に選んだのは、シフトに融通が利くこともあったけれど、それよりも食事を安く上げることができるのが決め手だった。それに、キッチン担当なら客と顔を合わせなくて済む。なんとなく知人にばれるのは避けたかった。
今日はホールの担当だった。高校生になってからはじめたアルバイトだったけれど、それまでやっていた喫茶店のアルバイトとはわけが違った。接客をして、テーブルを片付けてセッティングして、コップや醤油、粉茶や生姜の補充を延々繰り返していると、いつの間にか時間が経って終業の時間になっている。ずっと動いているということもあって疲労も段違いだったし、はじめはクレームや客の要望に戸惑うことも多かったけど、正社員の後藤さんと大学生の剣持くんがいろいろ教えてくれて、なんとか自分から動けるようになってきたところだ。
手早くテーブルと椅子を拭き、プラスチック製の皿やコップをワゴンに回収する。醤油や生姜の減りを見て、必要があればワゴンのものと交換する。食器はバックヤードまで持っていき、食べ残しを通称「ドブ」に流してから、洗剤の入った「プール」に放り込んでいく。
無心で動いていたら、少し動きに余裕ができてきた。ふう、とひとつため息をついて店全体を見ると空きテーブルが増えているのがわかる。時計は午後九時を回っていた。手持ち無沙汰になってきて、トイレと洗面台を掃除して客のいないゾーンのモップがけをしていたら、上がっていいよ、と言われて、他のスタッフに挨拶しつつ店をあとにした。
私は家には向かわず、いつもの喫茶店へ向かった。働いているときは無心になれたけれど、昼間感じた胸のざわざわがどこかに引っかかっている。このまま帰りたくなかった。
しばらく歩くと、ぐっと街灯が減って虫の鳴き声が聞こえてきた。そこここから、りーりー、りりりり、という音が聞こえてきて耳が痛くなりそうになると、たまに通る車の音にかき消される。そんなことを繰り返し感じながら十分ほど歩いて、暗い中にぽつんと温かいひかりを灯している喫茶店にたどり着いた。
からんからん、と音を立ててドアを開けると、いらっしゃい、というマスターの声が聞こえた。ほかの客はカウンターにスーツ姿の女性がひとりだけだった。二十代後半から三十前後、というところだろうか。
「テーブル席いいですか?」
「空いてるんだ。好きにしな」
「ありがとうございます」
マスターに断って、私は一番奥のテーブル席に荷物を置くと、カウンターの中に入っていき、冷蔵庫を開けた。ぱっと牛乳が目についた。気分を落ち着かせるために、今日はコーヒーじゃなくてカフェオレにするのもいいかもしれない……。
すこし考えてから、水を鍋に入れて火にかけた。そこに数種のスパイスを入れる。お湯の色が茶色く変わってきたら、いったん火を止めて茶葉を入れた。
「いいにおいね」
カウンターの女性がこちらを見ていた。私は意識してにっこりと笑いかける。「その制服、うちの高校だよね」
言われた意味がわからず、笑ったまま固まってしまう。
「ああ、ごめんごめん。なんて声かけようかなー、って思ってて。あたし、今日あなたに会ってるんだけど、覚えてないかな」
そう言うと、彼女は眼鏡をかけて髪をまとめた。その姿を見て、三時間目の授業がばばっとフラッシュバックした。
「山中先生!」
「よかった。生徒に覚えてもらえない教員とか、自信なくすから」
彼女は眼鏡をはずしてケースに元どおり仕舞うと、「ま、進学校じゃ家庭科なんてまじめにやらない子も多いから仕方ないけど」と続けて、手元の紅茶を飲んだ。
「井上さん、ここの子なの? 前は働いてたよね」
その言葉を聞いて、私は再度固まってしまった。なんて答えていいのかわからなくてマスターを見る。中学生で働いていたことがばれてしまうと迷惑がかかるかもしれない。いや、相手は私の名前も知っているし、今日会ったと言っていた。どう考えてもばれている。心臓が早鐘を打っている。頭が回らない。
「俺の子じゃないが、知人から面倒見てくれって頼まれてな。手伝わせてたんだ」
マスターが答えてくれて、なんとかその場は逃れられた。山中先生が、ふうん、という声を聞きながら、私は心を落ち着けるようにゆっくりと鍋に牛乳を入れて、また火をつける。
しかし、まさかここで働いていたときの客が自分の高校の教師だったとは。狭い。
鍋の中があったまってきて沸騰しそうなところで火を止めて、息をゆっくり吐きながら茶漉しで濾しながらみっつのカップに分ける。ひとつはマスターに。もう一つは自分に。
「あの、先生。私が中学生のときにここで働いていたことは……」
できたてのチャイを渡しながら様子を伺った。
「なあに? 買収? そんなことしなくても言わないから安心して」
でもこれはおいしそうだからもらっとく、と彼女は微笑んだ。
「ありがとうございます。……好みで砂糖を足してください」
「ん、ありがと」
私はひとまずほっとしてテーブル席に座ると、気持ちを切り替えるように深呼吸をしてから、生徒会でとったアンケートを広げた。手分けはしているが、五百枚くらいある。とても全部は集計できない。ぱぱっと見つつ、印象に残ったものをよけておいて、何か思いついたらメモを取った。
アンケートからは、バンド演奏を希望する声が多かった。あとは、去年やったからか、綱引きもある程度の票が集まっていて、そのイメージにつられたのか、玉入れとか騎馬戦とか書いている人もそこそこいた。これじゃ運動会だ。
おもしろかったのが、「お料理対決」だった。場所や準備に手回しが必要そうだけど。あと教師の協力も必須だろう。
「なあに、それ。宿題?」
「生徒会のアンケートです。文化祭の」
山中先生がカウンターからこちらを見ていた。
「ほほう。井上さん、生徒会だったっけ」
はい、と言いつつ私は先生を見上げる。授業のときと違って、どことなくふわふわした印象がする。
「あの、先生」
「なあに?」
「文化祭で、家庭科室って借りることはできますか?」
「そうねー。いまのところはどこの部活にも貸す予定はなかったかなぁ」
「よかったら、押さえておいもらってもいいですか」
「いいけど、なにするの?」
これなんですが、といってお料理対決の説明をした。山中先生がチャイを持って私の正面に座る。
「なるほどね。ほかの場所でやるよりは水や火の心配はしなくて済むね。いいよー。押さえとく」
「ありがとうございます」
「しかし面白いこと考えるね。あたしもギャラリーで見たいわあ」
先生が、うっとりとした顔でチャイを飲んだ。
「決まったら、ぜひ。むしろ参加してもらっても」
「やあよ。生徒に負けたら目も当てられないもの」
「そうですか。残念……」
「でも、場所は悪いし、ギャラリー入れづらいかも。家庭科室だと」
思い浮かべると、確かにその通りだった。
「なるほど。言われてみるとそうですね」
「ぶっちゃけ火と水があれば料理はできるから、カセットコンロがあればどこの教室でもいけると思うけどー。でもそうすると火の許可が必要そうだよね。監督する教員も何人か必要になりそうだし」
家庭科室ならあたしが見てれば大丈夫そうだけど、と先生が続けて、私は、うむむむ、と唸る。
「いいなー、学生」
先生が私を見つめていた。「全力でやったことは、なんでも楽しくなるよ。でも、手を抜くとだめ。あとから思い出すと、そのときの自分にがっかりする」
人生の先輩からのアドバイス、と彼女はふんわり笑った。