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「純、そろそろ店、閉めたいんだけど」

「ん、……じゃあ、もういっぱい、ブレンドください」

 私は、シャープペンを握ったまま右手の人差し指をたてた。それを聞いたマスターは、やれやれ、と口に出しながらカウンターの奥にひっこんでいった。

「ごめんなさい。いま、うちとても勉強できる環境じゃないんです。明日までだから、許して」

 マスターに届くようにすこし大きい声を出すと、私は『スタンダード数Ⅰ』をカウンターに広げたまま、大きく伸びをした。

「ほら、あとは自分で飲みたいだけ飲め」

 マスターはコーヒーの入ったポットを、とん、と私の前に置いた。わあ、いいんですか、と訊く私に、入学祝いだ、今日はいいよ、と閉店の準備をはじめながらマスターは言った。

 五十代半ば、いま辞めたら退職金に色をつけるよ、と言われて迷った挙句、サラリーマンに見切りをつけて喫茶店をはじめた、と言っていた。サラリーマンには夢がないしな、と付けくわえて。じゃあ喫茶店には夢があるの? と訊いた私に、さあどうだろうな、と言って笑った。

 私はコーヒーを飲みながら、白髪混じりのマスターをぼんやりと眺めた。

 私は、将来、どうしたいんだろう。やっと高校生になったけれど、まだ拘束時間が三年もある。いや、やっと、あと三年になったんだ。あと三年、うまく立ちまわればいい。それから考えればいいじゃない。

 そのとき、すでに準備中の札がかけれられているはずのドアが開いて、ひとりの男の子が店に入ってきた。歳も、身長も私と同じくらいだろうか(私は、女子にしては背が高いほうだ)。

「あれ? まだ営業中?」

 彼は、私を見て軽く頭を下げると、ごゆっくり、といって笑った。

「ごゆっくり、じゃねえ。そろそろ帰れ、って言ってたところだ」

 レジでお金を数えていたマスターが言った。

「あれ? 私、帰れなんて言われたおぼえ、ないですけど」

 私は、すこしとぼけたような声を出した。

「俺が一時間もそういう雰囲気を醸し出してたのに気付かなかったのか」

 私はいつものように、あはは、と笑ってからコーヒーをひとくち飲んだ。

「きみは、いつも来てくれてるんだ」

 マスターとやりとりをしていた私に、静かに声がかけられた。その声がとても気持ちいい音をしていたので、私はおもわずグレーのシャツを着たその男の子をまじまじと眺めてしまった。

 中性的で女の子みたいに綺麗な顔。さっきの笑い方にしてもそうだ。同じ年頃の男の子が女の子に向ける笑顔と、あきらかに違う。女の子ばかりのきょうだいの中で育ったのだろうか。

「ここ三ヶ月ほどだな」

 彼に見とれて考え事をしていた私のかわりにマスターが言った。「で、何の用だ?」

「昌さんのコーヒーが飲みたくなってね」

 彼は、にっこりと笑った。

 マスターは、ふん、と鼻を鳴らして、ぶっきらぼうな声を出した。

「お前も、龍彦みたいにふざけたこと言うようになってきたな。残念だけど今日はもうコーヒーないよ」

「あ、ここにまだあるけど」

 私は慌てて目の前のポットを差し出そうとした。

「いいんだよ、どうせこいつは客で来てるんじゃねえから」

「あっ、ひでえ」

 ひどいよな、と、今度は私に向かって言った。私はどう答えていいのかわからず、曖昧な笑みのまま彼とマスターを見較べてしまった。

 彼はそんな私に構わず、それでさあ、と続けた。

「姉さんが結婚することになってね。結婚式に出てくれ、って」

 マスターは、聞いているのかいないのか、黙ってレジのお金を数えていたが、ふと顔を上げて、

「俺は、行かねえよ」

 とだけぼそっと言った。

「そう言うだろうと思った」

 彼は肩をすくめて、まあ、また来るから、と言って店を出ていこうとした。

 マスターはそれをじっと見ていたけれど、なにか思うところがある、とでもいうように彼を引きとめた。

「待て……。わざわざこんなところまで来たんだ。紅茶ぐらいなら淹れてやるから、すこし座ってけ」

 彼は、にっ、と笑って私の隣に腰掛けると、広げたままのノートに目を留めて、うわ、綺麗な字だね、と言った。

 私は、なんと答えていいのかわからず、彼の顔を見て、また曖昧な笑みを浮かべてしまった。

「純、そういえばそいつ、純と同じ高校の二年生になるんだ。わからないところあったら訊いといたらいい」

 カウンターの中からマスターが声をかけてきた。

 え、そうなんですか、という私の声と、きみ、新入生かあ、よろしく、と言った彼の声が重なった。

 そのとき差し出された彼の右手がとても自然だったので、私はついすんなりと握り返してしまった。あまり大きくはなかったけれど、彼の手は、顔だちや体つきよりもはるかに男の手をしていた。

「ああ、課題テストか。うちの高校、入学式初日からテストやるんだよね。僕らもやったけど、初回のはまだまだ甘いから、そんなに心配することないよ」

 彼は、私のノートを覗きこんでから問題集を手に取ると、それをぱらぱらとめくった。

「よかった。でも、私、数学って苦手で」

 彼は軽く頷いた。

「この単元なら、ヤマ場はこの、因数定理を押さえておけば大丈夫でしょ」

「そうか、ああ……、でも、もう明日だし、間に合わないわあ」

 ため息混じりに、私はもう一度、今度は手を組んで大きく伸びをした。

「はは、因数定理くらいなら、いま教えてやるよ」

 そして私は、彼と一緒に、また一時間ばかり問題集に取り組んだ。


 青白い月明かりが、アスファルトに私と彼の影をくっきりと形づくっていた。

 近いし大丈夫、と言おうとしたのだけれど、時計を見るとすでに十二時半をまわっていた。マスターも彼に、純のこときっちり送っていけよ、と言った。ああ、これでやっと眠れるぜ、と付け加えて。

「きみ、いつもあそこにいるの?」

「ええ、いつもは十時には帰ってるんですけど、うち、いまとても勉強する環境じゃなくて」

 そういって私は笑った。彼はすこし考えるふうにしてから言った。

「うーん、きょうだいがたくさんいて、家が騒がしいから」

「ちがいます、きょうだいは弟がひとりいますけど、我慢できないほど騒がしいことはありません」

 彼のひいている自転車が、休みなくちりちりと音をたてている。

 えーと、それじゃあ、といって、なにかのクイズを当てようとするかのように考えている彼の向こう側を、ものすごいスピードで車が追い抜いていった。

 一瞬の光と騒音が通りすぎたあとがいつでもそうであるように、あたりには闇と静寂がよりつよく染みていった。

「引越してきたばかりで、まだ部屋が片付いてない」

 あ、でも、もう三ヶ月もあそこに行ってるんだよね、ちがうか、と彼は自分の言葉をすぐに否定した。

「そうですね、私は物心ついたときから引越したことはないです……。部屋は片付いてないですけど」

 彼は、うーん、そうか、と笑った。私も笑った。

「それじゃあ、ここでいいです」

 県営団地の前に着いていた。

 『十二階建て』と呼ばれているその建物の九階に、私は生まれたときから住んでいる。

「ここに住んでるのか。へえー」

 彼は団地を見上げていた。私もつられて見上げてみると、濃い藍色の空に、つよく自己主張している月が目に入った。

 その左下を、赤い光が点滅しながらゆっくりと移動していく。

「飛行機……」

「うん」

 暫くじっと見ていたけれど、そのうちに首が痛くなってきて顔を下げた。そうしたら、彼もちょうど頭を下げたところだったのか、ぱっと視線が合った。

 それで、なんとなく笑ってしまい、私たちは別れるタイミングを損なってしまった。

 私たちはなにを言うともなく、そのままお互いの顔を見て立ちつくしていた。

 やっぱりこの人は、とても綺麗な顔をしている。月明かりに青白く照らされた彼の顔に、つい見とれていた。

 そのままぼんやり彼の顔を眺めていると、先に言葉を切り出された。

「じゃあ、明日から、自転車通学がんばれよ。はじめの一ヶ月は筋肉痛になってきついから」

 きっと、なんの気なしに言った言葉だったんだろう。けれど私は、どう答えていいのかわからなくなって、言葉に詰まった。

「ありがとうございます。でも私、バス通学するんです。たぶん、自転車使うこと、ないです」

 彼は、あれっ、という顔をした。

「珍しいな。このあたりで自転車通学しないなんて。朝じゃ、却ってバスの方が時間かかるんじゃない?」

「そうなんですけど、私、自転車って、乗れないから」

 すっ、と言葉を発することができた。

「ええっ、それはもっと珍しいなあ。この自転車だらけの都市で」

 彼は、私の顔をまじまじと見つめた。

 じっと見つめられることに耐えられなくなった私はおもわず目をそらしてしまった。

「そうなんです。私はこの都市では珍しく、自転車に乗れない人なんです」

 訊かれたら隠すつもりはないけれど、あまり続けたい話題じゃなかった。

 けれど、彼はまた視線を空に戻すと、私が予想した、なぜ自転車に乗れないの? という問いを発することなく、そうかあ、とだけ言って自転車にまたがった。

「それじゃあ、高校でもよろしく」

 構えていたぶん、私は拍子抜けしてしまったけれど、よろしくお願いします、と言った。

「たぶん、きみが捜そうとしたら、僕のことはすぐに見つけられると思うよ。それじゃあ、おやすみ」

 私はそのまま、手を振りながら遠ざかっていく彼の自転車を眺めていた。

 自転車が視界から消えたあと、私は彼の名前を聞いていなかったことに気がついた。



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