表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

女性が奮闘する物語

当然私を雇って下さいますよね? 婚約破棄の慰謝料を支払う代わりとして・・・

作者: 悠木 源基

彼女は人から辛い仕打ちを受けても復讐する気などは全く無かった。ただ身を引いただけ。それなのに関係者は本人の意思関係無しにぷち復讐されていきます。そんな話です!

「当然私を雇って下さいますよね? 婚約破棄の慰謝料を支払う代わりとして・・・」

 

 学園を卒業してから二か月後、突然元婚約者がトマス=アシュリーの経営する商会へやって来てそう言った。

 

 トマスはその彼女の姿を見て驚きを隠せなかった。なぜなら、体はまるで醜い豚のように締まりなく太っていながら、頬はこけ、目は落ちくぼみ、いつも顔を苦痛に歪めていた元婚約者が、すっかり変貌していたからだ。

 

 さすがにたった二か月ではスタイル抜群とまでは言えないが、ぽっちゃり好きなら許せる許容範囲内までに痩せていた。そして反対にげっそりしていた顔は程良くふっくらとして、瑠璃色の大きな瞳は美しく、生気を溢れさせていた。艶をなくしてボサボサだった髪も肩の上辺りで切り揃えられてはいたものの、美しく金色に光り輝いていた。

 

 トマスは暫くポカンと元婚約者のエレン=ワイドナリーを見つめていたが、段々と違和感を覚えてきた。急激に痩せたのは自分に振られたショックのせいなのだろうが、それなら何故顔色がこんなに良いのだろうか? まるで別人だ。そう、はっきりいって相当な美人だ。

 

 そしてそのうちに彼は苛立ちも覚えてきた。もっと早くにこの容姿になってくれていたならば、自分はこのエレンを婚約破棄などにはしなかったのに。あんな性悪な男爵令嬢のマリアン=ジョーンズに騙されたりはしなかったのにと。

 

 二か月前の学園の卒業パーティーで、衆人環視の中、一方的にエレンとの婚約破棄とマリアンとの婚約発表をしておきながら、トマスは自分勝手な思考をした。

 

 ◇◇◇◇◇

 

 トマス=アシュリーは候爵家の嫡子で、頭脳明晰、容姿端麗、学生のうちに商会を起こした若き起業家だった。

 彼は十二歳の時に同じ年のワイドナリー伯爵家の令嬢エレンと婚約をした。両家が貿易関係で重要な関係にあったからである。つまり、誰でもすぐに分かるあからさまな政略結婚だった。

 

 しかし、とある貴族のパーティーでエレンに初めて会った時、トマスは彼女に心がときめいた。なんて愛らしくてかわいい少女なんだろうと。

 彼女の隣には彼女と同じ髪と瞳を持つ兄が立っていたが、その兄カールは太っている上に、神経質そうな陰気な少年だったので、余計に彼女を引き立たせていた。

 彼女は両親から溺愛されている、純粋で素直な華やかな少女だった。

 

 だからエレンとの婚約が決まった時、トマスには不満など全くなかった。金髪に瑠璃色の瞳を持った、それはそれは愛らしくてかわいらしい少女。その上、彼女はとても優秀ながらもおとなしく控え目な性格だったのだから。

 そして成長すると共に彼にとって彼女は更に都合の良い婚約者となっていった。親の援助で起業すると、エレンは文句一つ言わずにその手伝いをしてくれたからだ。

 

 それなのに、トマスは次第にエレンに不満を抱くようになっていった。何故なら彼女がだんだんと太り始めたからである。痩せるようにといくら彼女に言っても、パーティーで人目も気にせずムシャムシャとデザートを食べているエレンを見ると、トマスは眉を顰めた。

 

 そのうちにトマスは公の場でエレンをエスコートするのをやめた。そしてそれを両親やエレンの父親に責められると、エレンがパーティーに出なくてもすむように、自分の商会の仕事をするように仕向けた。すると、それは思いがけない結果を彼にもたらした。

 彼女には商売の才能があったのだ。帳簿付けに始まり、仕入れや卸業務も卒なくこなしたのである。おかげで彼は商品開発やセールスだけに力を注ぐ事が出来るようになったのだ。

 

 しかし、トマスは仕事のパートナーとしてのエレンには満足していたが、婚約者としてはますます不満を募らせていった。

 マナーにのっとった上品な食べ方をしているとはいえ、エレンはバクバクと絶えず食べ物を口にしているし、体型だけではなく、美しかった顔さえ醜く変化していったのだ。頬がげっそりとし、目の奥がくぼみ、顔色は悪くなり、髪の毛も艶がなくなって、枝毛が目立っていた。

 どんなに彼女に注意をしても、彼女は困った顔、辛い顔をして彼の同情を買おうとするだけで、改善しようとする努力をしなかった。

 

 やがてトマスは、人がいる場所でも平気でエレンを見下し、邪険に扱うようになった。その上彼女を自分の商会のただの使用人として雑な扱いをするようになっていった。

 そんな時、トマスに急接近してきたのがジョーンズ男爵令嬢のマリアンだった。

 

 マリアンの素顔は平凡でけして飛び切りの美人とは言えなかったが、スタイルは抜群だった。そして化粧やヘアスタイル、ファッションセンスもあって、おしゃれで華やかだった。

 エレンとは違って自分磨きに励んでいるマリアンにトマスは好感を持った。そして次第に彼女に惹かれていった。

 

 婚約者がいながら別の女性と親しくするのは良くないと忠告する者もいたが、トマスの取り巻き連中はエレンよりもマリアン嬢の方がトマスに似合っている、と言ってくれていた。トマス自身もあの醜い婚約者よりも華やかで明るいマリアンの方が、自分の人生のパートナーとして相応しいと、次第に考えるようになっていった。

 

 マリアンの家は成り上がりの男爵だったが、商売の方は順調で、その辺の高位貴族よりも裕福だった。そして、あの努力家なマリアンならば、自分が望めば商売の方も勉強してエレンのように手伝ってくれるだろうと思った。そうすれば、社交上手なマリアンの方がエレンより役に立ってくれるだろう。

 

 頭脳明晰なトマスは女性二人を天秤にかけ、マリアンの方がエレンよりも自分にとって重要な存在であると判断した。

 そしてその結果、あのエレンとの婚約関係を断ち、周りの者達に手っ取り早くそれを周知させるには、卒業パーティーの大勢の人々の前で、婚約破棄宣言をするのが一番だという結論に達したのだった。

 

「エレン=ワイドナリー嬢、君には悪いがこの場において、君との婚約を破棄して、僕は新たにここにいるマリアン=ジョーンズ嬢と婚約する事にする」

 

 エレンはその落ちくぼんだ瞳を限界まで見開いて、驚きの表情をした。そしてこう呟いた。

 

「破棄? 何故? 私は貴男に何か悪い事をしたのでしょうか?」

 

 エレンが驚くのは無理もないと、その場に居合わせた者達だけでなく、トマス自身もそう思った。

 エレンは元々人の噂話などに興味がなかったのに加え、この一、二年社交場にほとんど顔を出さなかったからだ。しかも学園にいる時も授業以外はいつも王都一と言われれている隣接されていた図書館に籠もっていたから、エレンはトマスがマリアンと付き合っている事を知らなかっただろう。

 

「君は法を犯すような罪は何一つしていないよ。ただ、婚約者としての義務は何一つしてこなかったよね。社交場にも一切参加しなかったし、僕の婚約者に相応しい女性であろうと自己研鑽もしてこなかった。君は自分のその容姿を鏡で見て、僕に相応しいと思えるのかい? 未来の候爵夫人の地位は決まっていると胡座(あぐら)をかいて、努力を怠っていたのではないかい?

 それに比べてこのマリアンは絶えず自分を磨き、僕に相応しくなろうと努力してくれている。どちらが僕に相応しい相手なのか、火を見るより明らかだろう?」

 

 マリアンが恥じらうようにトマスの腕に両腕に絡みつけた。

 

 エレンは何か言おうと口を開きかけたが、結局何も言わず、ただポロポロと涙をこぼすと、トマスとマリアンに背を向けてよろよろとパーティー会場の出口に向かって歩き出した。

 しかし途中でよろめいて前のめりに転んで両手を床に突いた。なんて情けなくてみっともない女なんだろう、あんな女と婚約破棄して本当に良かった、そうトマスが思った時、どこからともなく黒髪の背の高い男が現れると、エレンを軽々と抱き抱えて会場からそのまま出て行った。

 

 卒業パーティー会場は一瞬シーンとなった。しかし、トマスの取り巻き連中が場を盛り上げようと、大きな声で楽団に向かって、

 

「さぁ、卒業の記念のパーティーですよ、最後の告白のチャンスですから、皆さんもトマス様のようにお好きな方に勇気を持って、自分の思いのたけを打ち明けましょう!

 では音楽スタート!」

 

 と大きな声を張り上げ、楽団に合図を送った。それによって音楽が流れ始めて、卒業生達はそれぞれのパートナーとファーストダンスを踊り始めた。

 しかし、みんな暗く浮かない顔をしていた。特に婚約をしている女性達は皆、不審げな顔で自分の相手を見つめていた。この人は本当は自分の事をどう思っているのだろうかと。

 その相手の男性陣達もそれに気付いて、みんな必死に相手の婚約者に愛を囁いていた。

 そして一番被害を被ったのは、今日が大っぴらに会える最後の日だからと、思い人に告白しようと本気で意気込んでいた男性諸君だった。今日は何を言っても女性には信じては貰えなそうな気がして、彼らは日を改める決心をせざるを得なかったからだ。

 

『なんでこんな記念になる大切な日に、こんな馬鹿な婚約破棄宣言なんかするんだ!』

 

 みんなはトマスとマリアンに酷く腹を立てた。そしてこう思った。

 

『男がみんなトマスのように婚約者を利用するだけ利用しておいて、代わりになる女が現れたらあっさり乗り換えるものだ、と女性に思われたら迷惑だな』

 

『エレン嬢を社交場に出られなくしたのは誰のせいだと思っているんだ。エスコートはしないし、自分の仕事や用事を押し付けて参加するのを邪魔していたくせに』

 

『マリアン嬢が自己研鑽に励んでるって? そりゃ見かけだけだろう。マナーはなってないし、会話の中身もおしゃれやダイエットやら、下らない薄っぺらな事ばかりだし。エレン嬢とは月とスッポン。あんなのがいいだなんて、トマスも趣味悪いな』

 

『マリアン嬢は入学以来あちらこちの男に愛想を振りまき、相手にメリットが無くなるとすぐに振っていたわ。あんな人から恨みを買っているような女をパートナーにして商会は大丈夫なのかしら』

 

『美人は一度太ったって痩せればまた元の美人に戻るけど、平凡な顔はそのまんま。いくら化粧したって中身は変わらないのに、そんな事にも気付かないなんて馬鹿な男ね』 

 

『エレンは社交場には出ていなくても、普段から親切で人の為に色々していたから、皆トマスの商会にも協力してきたけど、マリアンは自分の事しか考えていない女で社交上手とは言えないわ。そんな事も分からないなんて呆れるわ』

 

 自分がエレンと婚約者破棄をすればみんなも納得してくれるものだとトマスは信じて疑わなかった。あんなに太った醜い女とは別れて良かったね、と賛同してくれるものだと。

 しかし、周りの者達の目は皆冷ややかで、彼を褒め称えたのは取り巻き連中だけだった。

 

 ◇◇◇◇◇

 

 卒業式の三日後、トマスは父親から廃嫡された。そしてアシュリー家を継ぐのは弟になった。


 公衆の面前で娘のエレンが婚約破棄された事に、プライドが非常に高いワイドナリー伯爵は怒り狂った。そして貿易の取り引きをやめると言い出した。爵位は下でも、実際の力関係はワイドナリー家の方が上で、アシュリー候爵家は取り引きをやめられると家が傾く恐れすらあった。

 アシュリー候爵はトマスを廃嫡して慰謝料を払うと言ったが、プライドの高いワイドナリー伯爵は慰謝料を受け取る事を拒否した。しかしその代わりに、アシュリー家のまだ婚約者のいない娘を長男のカールの嫁に寄こせと言ってきた。


 アシュリー家には息子二人の下に娘が二人いた。上の娘には既に候爵家の嫡男の婚約者がいた。そして末の娘にもそろそろ本決まりになりかけた相手がいたが、運悪くまだ正式には書類が提出されていなかった。

 ワイドナリー家はその事も短い間に調べ上げていて、拒否できないように手を打っていた。末の娘はまだ十二歳で、元々の婚約予定の相手に思い入れがあった訳ではなかったが、九つも年上のカールを見た瞬間に泣き出してしまった。

 

「候爵家は貴族としてどういう教育を子供にしているんですか、あの非常識な兄といい、この妹といい・・・」

 

 顔合わせの席で、アシュリー候爵家はワイドナリー伯爵家に散々嫌味を言われた。 

 

 怒りながら帰ってきた父親にその出来事を聞かされたトマスは、不謹慎にもこう思った。

 

『あの太った陰気そうな男じゃ泣いて嫌がってもしかたないだろうな。妹は僕や弟を見て育ってきたから、白馬の王子様のような美形に憧れていたからな』


 と。自分の尻拭いの為に妹が婚約させられたというのに、全く無責任で薄情な兄だった。しかし、妹はそんな単純で子供じみた理由で泣いた訳ではない。

 大体カール=ワイドナリーは太ってなんかいなかった。数年前に色々頑張ってきたダイエットが成功して、彼はすらっと程良く筋肉のついた素晴らしい体型になっていたのだ。しかも金髪に瑠璃色の瞳を持つ整った顔をしていた。

 妹が泣いたのは、整ってはいるがカールの陰険そうな暗い目が怖かったからであった。そして妹の人を見る目は、兄とは違って正しかったのだ。

 

 カールは父親と一緒になって、実の妹のエレンを伯爵家から追放し、貴族の身分から平民に落としていた。トマスから婚約破棄されたその日のうちに。妹には何一つ落ち度が無いという事を承知していながら、家に恥をかかせたというその理由だけで。

 後からそれを知った時、妹は恐ろしさに震え上がった。自分もきっといつか恐ろしい目に遭わされるのではないかと。

 

 ◇◇◇◇◇

 

 トマスは候爵家の嫡男としての地位は無くしてしまったが、自分には商会があるし、マリアンの家の婿養子になれば、最低ランクでも取りあえず爵位にもつける。まあなんとかなるだろうと思っていた。

 トマスはどこまでも楽天的で現実の見えない男だったのだ。

 

 しかし、トマスは卒業してすぐに商会の仕事に本腰を入れたが、一月も立たないうちに商売は上手く立ち行かなくなってしまった。今まで仕事を手伝ってくれていたアシュリー家の者達が、父親の命で皆手を引いてしまったからである。その上エレンもいないのだ。

 マリアンに手伝って欲しいと言ったが、計算が苦手だから帳簿付けなんか絶対に無理と言われた。それでも将来の為に勉強をしておくようにと彼女には言いつけ、取りあえず急いで経理担当者を見つけなければならなかった。帳簿付けする者がいないのでは話にならないからだ。

 

 しかし、職員を募集したが良い人材はなかなか見つからかった。トマスが卒業パーティーでやらかした事はすぐに社交界に知れ渡り、貴族の中から職員を見つける事を諦めたトマスは、商会仲間に紹介してもらおうとしたが、良い返事を貰えなかった。

 

「何故協力して頂けないのでしょうか? 今までそちらとは良い関係を結んで頂いていたと思うのですが」

 

 トマスがこう尋ねると、他の商会関係者は皆口を揃えてこう言った。

 

「今までそちらと取り引きをしていたのはエレン嬢が信頼のおける人物だったからです。納期の約束は必ず守るし、無理を言っても嫌な顔一つせず丁寧な対応をしてくれた。しかし、貴方は全く違う。今後のお付き合いは見直そうと思っています」

 

 そう。今まで商会が上手くいってきたのは自分の力ではなく、エレンのおかげだったのである。トマスはそれを知って唖然とした。

 こうなってはエレンの代わりになれるのはマリアンだけである。トマスは一月ぶりにマリアンに会いに行った。しかし、ジョーンズ男爵家の執事には困惑の顔をされた。そして

 

「今マリアン様は所用があってお目にかかれません。日を改めて、先触れをまず寄越してからおいでください」

 

 と、とてつもなく失礼な事を言われ、トマスはカッとした。

 

「無礼な事を言うな。急ぎの用があるから来たのだ。マリアンの所用が終わるまでこちらで待たせてもらうぞ」

 

「それは困ります。どうかお帰り下さい。マリアン様は今婚約者の方と、結婚式の相談をしているのです。ですからどうかお引き取り引き下さい」

 

 執事の言葉にトマスは瞠目した。婚約者とは何を言っているのだ。マリアンの婚約者は自分ではないか!

 

「卒業パーティーで貴方様が勝手に一方的に婚約を発表をなさっただけで、婚約を結ぶ書類も作ってはいないはずです。よって婚約は成立してはおりません」

 

「それは色々と忙しくてその時間がとれなかっただけだ。それはそちらもわかっているだろう!」

 

 トマスがそう叫んだ時、玄関ホールへ続いている二階の階段から、マリアンが見知らぬ男の腕に自分の腕を絡ませながら下りてきた。

 

「マリアン!」

 

 トマスは驚いて彼女の名前を呼んだが、彼女は平然とした顔をしてこう言った。

 

「あら、トマス様。お久しぶりです。ごきげんよう。お忙しいとお聞きしていましたが、今日はどのような御用でしょう」

 

「その男は誰だ」

 

「私の婚約者のベンジャミン=ハンソン様ですわ。ハンソン商会の次期後継者ですわ」

 

 この時トマスもようやくマリアンという女の本性を悟った。

 

「あの女はきらびやかな社交界が好きで、誰でもいいから高位貴族を狙ってたんだ。君が候爵位を継げなくなった時点で、あれは君に見切りを付けたんだ。俺達のように。

 悪い噂が広まった以上、もう貴族とは結婚できない。それなら仕事の手伝いなんかしなくても済む平民の金持ちにターゲットを変えるだろう。君が自分の損得だけでエレン嬢からあの女に乗り換えたように。自業自得だ。

 まあ、俺も人の事言えないけど。君と共に婚約破棄騒動を起こしたせいで、俺も家族や恋人に見捨てられたからな!」

 

 取り巻きの一人にこう言われた時は、彼が何を言っているのかわからなかったのだが。

 トマスは、すうーっと自分の感情が地の底に落ちていくような感覚に陥った。彼は静かにマリアンの婚約者に向かってこう言った。

 

「婚約おめでとう。まあ、化粧を落としたら性格の悪さが顔に出ているし、色々な男と関係を持った淫乱女だが、君がそれで良ければ問題ないよな。君達の幸せを祈っているよ」

 

 マリアンがヒッ!と声を上げ、男が真っ青になるのを見てから、トマスは呆然としている執事に顔を向け、

 

「邪魔をしたね。用は済んだからもうここへは訪れない。安心してくれ」

 

 こう告げると、男爵家を出て行った。

 

 自分の商会に戻ったトマスは深いため息をついた。そして思った。

 自分はもう終わりだと。あんな女にまで捨てられたのだから、もう貴族への婿入りの可能性は無いだろう。豪商にでも婿入りして平民になるか? いや、こっちがたとえその覚悟ができたとしても、悪い評判の立った俺を欲しがる家なんてないだろう。

 何故こんな事になったんだろうな。何故あんな女に夢中になったのかな?

 

 その時だった。

 商会のドアを叩く音がして、中へ入ってきた人物を見て、トマスは目を見開いた。つい二か月前まではこの場所で一緒に仕事をしていた相手だった。しかもそれは、もう二度と会えないし、話も出来ないと思っていた人物でもあった。

 

 以前の彼女は、顔を合わせると、いつもトマスに対して素晴らしいカーテシーをしていた。しかし、突然現れたエレンは挨拶一つもせずに、いきなり元の婚約者に対してこう言った。

 

「私をここで雇って下さい。

 当然雇って下さいますよね? 婚約破棄の慰謝料を支払う代わりとして・・・」

 

 ◇◇◇◇◇

 

 突然現れて、突然突拍子も無い事を言われて、トマスは面食らった。彼女が自分に対して言いたい事は山ほどあるだろう。彼女にはなんの落ち度も無いのに、自分の方が浮気をしておきながら彼女だけを責め、一方的に婚約破棄をしたのだから。

 その為に彼女は公の場で恥をかかされただけでなく、家から勘当されて平民落ちしたのだから。

 

 今まで考えた事もなかったが、この二か月彼女は一体どうやって暮してきたのだろう。彼女はいつも最高級のドレスに身を包んでいたが、今は質素で地味な綿のワンピースを着ている。

 

「君に対して本当に申し訳ない事をしたと思っている。だが、慰謝料はいらないと君の父上に言われたよ」

 

「あの人はプライド高い人ですから当然断ったでしょう。しかし、貴方はあの人ではなく私を傷つけたのだから、あの人ではなく、私に支払うべきでしょう? 大体私はもうワイドナリー家を追い出されているのだから、あの人がいるかいらないかは関係ありませんよ」

 

 以前とはまるで違うエレンの物言いに、トマスは再び面食らった。エレンは静かで優しい少女だった。こんな強気な話し方をした事はなかった。

 

「自分の父親に対してあの人はないんじゃないのか」

 

「私に何一つ弁明をさせず、ただお前のせいで恥をかいたと、簡単に親子の縁を切って、その日のうちに着の身着のまま娘を追い出すような人を、貴方なら父と呼べますか?

 貴族の笑い者になり、大事な末娘を無理矢理婚約させられても、馬鹿な息子を廃嫡しただけで家に置いておくような、貴方の優しい父親とは全く違うんですよ、あの人は」

 

 エレンの言葉はトマスの胸にグサグサと杭を打ち込んでいった。自分を廃嫡し、自分の商売の援助から手を引いた父親を恨めしく思っていたが、なんと恩知らずだったのだろう。家族に恥をかかせ、領地経営まで傾けさせた息子と縁を切る事もせずに、そのまま家に置いてくれているというのに、それに感謝もせずに不満を抱いていたとは。

 それに比べて何も悪くないエレンの方が勘当され、平民に落とされるとは。今まで貴族の令嬢として何一つ不自由なく暮らしていたであろうに、よくこの二か月間生きてこれたものだ。

 何故こんな当たり前の事を思いやれなかったのだろうか。元の同級生達に散々言われたように、自分は本当にどうしようもないくらい、冷たい駄目人間だったらしい。

 

「出来る事なら慰謝料を支払ってやりたいが、ご覧の通りこの商会は俺一人でやっていて倒産寸前だ。だから今すぐに金を支払うのは到底無理だ。ただ親に頭を下げてでも借金し、いくらかでも慰謝料を準備するから、後少しだけ時間をくれないだろうか」

 

 トマスのこの言葉にエレンは驚いたような顔をした。自分から慰謝料を請求しておきながら、それは無理だろうと思っていた様子だった。

 

「貴方が慰謝料を払えないという事は最初からわかっていましたよ。ここが破産寸前だという噂が流れていましたからね。だからこそ、私を雇って下さいと言っているんですよ。私がここを立て直してあげますよ。

 ですから黒字が出るようになったら、純利益の1/3を給与として私に支払って下さい」

 

「1/3はいくらなんでも多すぎじゃないか?」

 

「今まさに破産しようとしているのに、何を欲をかいているんですか。どうせ最初のうちは儲けが出てもたかがしれているでしょうに。

 それに心配しなくてもたとえここが持ち直したとしても、ずっと居座り続けるつもりはありませんからご心配なく。慰謝料と、ここで無償で働いた二年分の給与分を給与とは別に貰ったらすぐに辞めてあげますから。契約書もきちんと作っておきましょう」

 

「何故過去二年分の給与を支払わねばならないんだ。君は僕の手伝いを無償覚悟でやってくれていたのではなかったのか?」

 

 トマスはエレンの要求に目を瞬いた。エレンは自分に好意を持ってくれていたからこそ、自主的に手伝ってくれていたのだろう。それなのに今更賃金を要求してくるとは、なんと強欲なんだろう、そうトマスは思った。すると、エレンはトマスの心を読んだように軽蔑の眼差しを向けてこう言った。

 

「いずれは二人の商会になるのだから一緒に頑張ろうと貴方がそう言ったから、私は寝る間も惜しんで働いたんですよ。そして無理して体調を壊しながらも頑張ったのに、私の見てくれが悪くなったから、自己研鑽しないからと言って、貴方はそれを婚約破棄の理由にしてましたね。

 それでは私はどうすれば良かったのでしょうかね?

 商会の仕事をしながら学校へ通い、そして化粧やファッションに時間を注ぎ、社交場にも出る。それってどうやれば可能だったんでしょうかね? やれる方法があったのなら今後の参考にしたいので、是非ともやり方を伝授して下さいよ」


「・・・・・」

 

 暫く沈黙した後、トマスはすまなかったと再びエレンに謝罪し、二年分の給与も支払うと約束した。しかしその後でこう尋ねた。

 

「君は僕の事を恨んでいるのだろう? それなのに何故ここで働こうとするんだい? 辛くないのかい?」

 

「勿論辛いに決まっているじゃないですか。あの仕打ちを受けた後、二度と貴方に会いたくないと思いました。しかし、人間生きて行く為には現実と向き合わくてはなりません。婚約破棄された上に実の親からも縁を切られたような女に、まともな仕事が見つかると思っているんですか? どんなに嫌な男と一緒だろうと、体を売る商売よりはましだからここで働くのです。生きて行く為に」

 

 体を売る商売に限りなく近いくらい、自分と一緒なのは嫌なんだと、トマスはようやくエレンの心情を理解した。

 

 エレンは契約書を書く直前にこう言った。二人きりでここを切り回すのは絶対に無理なので人を雇って欲しいと。利益が増えるまでは取りあえずは一人でも構わないからと。人が見つからないと言うのなら、自分が良い人を知っているのでお願いしておくからと。

 

 それからもうひとつ、エレンはトマスにこう願った。自分もトマスと同じようにデスクで仕事をさせて欲しいと。

 この商会にはデスクが三つあって、以前はトマスとアシュリー家から手伝いに来ていた侍従二人がそこで仕事をしていた。それ故にエレンは応接室のソファに座ってローテーブルで仕事をしていた。

 しかしテーブルの高さがかなり低いため、上半身、特に頭が前方につき出す姿勢となり、しかも巻き肩になるので、かなり辛い姿勢だった。それでもエレンは頑張って仕事をしてその姿勢を続けた為に、絶えず酷い肩コリや首コリに悩まされていたのだ。そしてそのコリがともっと酷くなると、吐き気を催したり、頭痛が起きたり、眠れなくなったりしていた。

 

 トマスはその話を聞いてようやく合点がいった。何故エレンの頬が次第にこけて、目は落ちくぼみ、いつも顔を苦痛に歪めているようになったのかを。

 

「どうしてそれをあの頃言わなかったんだ?」

 

「何度もデスクを使わせて欲しいとお願いしましたよ。でも貴方は、『女の癖に男と同様にデスクで仕事をしたいだと? 思い上がるのもいい加減にしろ』と一蹴しましたよね? お忘れですか?」

 

 エレンは冷ややかに言った。彼女の言う通りトマスはまるで覚えていなかった。彼女の顔色があんなに酷かったのは自分のせいだったのだ。

 

「すまなかった。デスクは空いている。勿論それを使ってくれて構わない」

 

 トマスがそう言うのを聞いてから、エレンは半年間の雇用契約書にサインした。毎月の給与の他に、慰謝料と二年分の未払金を貰えるまでこの契約を延長させるつもりだった。

 

 トマスは商会の二階の窓から、エレンが彼女を待っていたと思われる男と連れ立って歩いて行く後ろ姿を、愕然としながら見送った。

 あの貞淑だったエレンにもう男がいるのか? あのマリアンといい、女の心変わりの素早さにトマスは驚きを隠せなかった。マリアンへの思いを今日だけですっぱり断ち切った自分が言える事ではないが。何故か今頃になって、エレンへの未練がトマスの胸の中で渦巻いていた。

 

 ◇◇◇◇◇

 

 翌朝、トマスは自分が思い違いをしていた事に気付いた。エレンが夕べの男、いや少年を連れて商会へやって来たのだ。

 

 彼の名前はケント=ゴードン。年は十四。王都にあるある教会付属の孤児院に住んでいる少年だった。エレンは昔からその孤児院で子供達に勉強を教えたり、面倒を見る奉仕活動をしていたらしい。

 ケントはエレンの教え子の中でも飛び切り優秀だとエレンは言った。今では教会や孤児院の帳簿付けもみんな彼がやっているそうだ。

 

「取りあえず半年間お試しという事で、彼に手伝ってもらうのはどうでしょうか。もし、貴方がもっと優秀な方を見つけて来られたら、本契約はしなくても結構ですので」

 

 エレンはそう言ったが、トマスは半年待たずにケントと本契約を結んだ。ケントは本当に優秀で事務仕事を完璧にこなした。しかもまるで少女のような中性的な美しさを持った少年だったので、取り引き先にも評判がよく、営業の面でも大層役にたったのだ。

 

 破産しかけていたトマスの商会は、エレンとケントのおかげで順調に利益を出し続け、右肩上がりに業績を伸ばしていった。そのおかげで、更に男女二人を新たに採用出来るくらいになっていった。

 

 

 マリアンと別れたあの日、もしエレンがここを訪れてくれなかったら、自分は今頃どうなっていただろうか、最近トマスはよくそう思う。商会は借金を抱えて倒産し、首をくくるか、候爵家で引き篭もっていたか、そのどちらかだったろう。それを考えると、エレンには感謝しかない。いや、感謝だけではない。

 

 トマスはエレンに対して、初めて会った時のようなときめきを覚えていた。

 エレンはすっかり痩せて、マリアンなんかよりよっぽど見事なプロポーションになっていた。そして痩せこけていた貧相な顔もふっくらし、本来の輝くような美しさを取り戻していたのだ。

 

 トマスはエレンともう一度やり直したいと切にそう願っていたが、それは叶わなかった。それは彼が自重する分別を持てるようになったからではない。物理的に無理だったのだ。

 

 エレンは教会付属の孤児院でケントやその他大勢の子供達と一緒に暮していた。故に出社から退社までエレンの側にはいつもケントが張り付いていた。

 彼に外周りの用事を命じても、他の二人が代わりにエレンの側から離れなかったので、トマスはエレンにモーションをかける事が出来なかった。勿論、食事や芝居に誘っても全て断られた。仕事以外の事は一切関わりたくないと、はっきり言われていた。

 ケントはエレンの用心棒としてこの商会にきたのだなと、今更ながらトマスはそう思うのだった。そうだよな。彼女が自分と二人きりの部屋で過ごすなんて、普通我慢できないよなと。

 

 そして更に一年近くたち、四回目の契約更新が近くなった頃、トマスは父親から嬉しいニュースを聞かされた。末の妹と、ワイドナリー伯爵家の嫡男カールとの婚約が解消される事になったというのだ。

 ワイドナリー家の貿易が上手く行かなくなったために、さすがにプライドが高い当主も、アシュリー家よりも裕福で資金援助をしてくれる新興の下位貴族との縁組みをしなければならなくなったようだ。

 

 確かに婚約解消となれば妹にはキズが付く。しかし、兄である自分への恨みの対象として、一生辛い目に遭わされるよりはましだろう。第一妹はまだ十四だし、美人で気立てが良いのだから、きっとそのうち良い縁組みがあるだろう。

 妹に対する罪滅ぼしの為にも、少しでも多くの持参金を用意出来るように頑張らねば、とトマスが意気込みを新たにした時、父親がトマスにこう言った。

 

「ワイドナリー家の貿易が上手く行かなくなったのは、どうもエレン嬢がいなくなったせいらしいぞ。彼女が以前は貿易の仕事を手伝っていたらしい。彼女が仕事から手を引いたらどうなるか、お前が一番よく分かっているだろう? 今後は彼女を大切にしろよ」

 

 彼女は自分の家の仕事もさせられていたのか。それではストレスで過食になるのも当たり前だな、と改めて自分の思いやりのなさをトマスは反省した。それと同時にある不安が顔を覗かせてきた。

 

「それでは、ワイドナリー家ではエレン嬢を取り戻したいのではありませんか?」

 

「そうしたいのは山々だろうが、馬鹿みたいにプライドが高い奴だから、自分からは頭を下げないのではないか」


 そう父親は言った。

 

 それから数日後、午後のお茶休憩の時、トマスは傍にケントがいるにもかまわずに、エレンにこう話しかけた。

 

「君の兄上と僕の妹の婚約が解消となった」

 

 するとエレンは本当にそれを知らなかったようで、目を大きく見開いた後、とても嬉しそうに微笑んだ。

 

「それは良かったですね。あんな良い子があんな性悪男と結婚しなくてすんで。あの子には申し訳なく思っていたのです。私達のとばっちりを受けて」

 

「妹とは知り合いなのか?」

 

「何を驚いているのですか? 貴方とは六年間婚約していたのですよ。貴方のご家族とは自分の家族よりも仲良くお付き合いをさせて頂いてましたよ。そんな事もご存知なかったのですか?」

 

「知らなかった・・・」

 

 道理でエレンと婚約破棄した後、家族は俺に酷く冷たかった。特に末の妹は泣きながら怒っていたっけ。

 

「それじゃ、君は妹の為に何かしたのか?」

 

 エレンはそれには答えず、ただじっとトマスの顔を見た。それは肯定しているのも同然だった。

 

「いいのか? 自分を裏切った元婚約者の妹の為に、自分の家族を裏切るような真似をして・・・」

 

「前にも言いましたが、あの人達は私の家族ではありません。私の見た目がかわいい時は猫可愛がりをしていたくせに、容姿が変わったらすぐにポイして別の見目の良い方を可愛がる。貴方と同じですね」

 

「・・・・・」

 

 トマスはぐうの音も出なかった。しかし聞きたい事はまだまだあったので、気力を振り絞ってこう尋ねた。

 

「君が過食して太ったのはやはりストレスのせいだったのか? 僕が君を蔑ろにしたり、商会の仕事をさせたから・・・君が自分の家の仕事までさせられていたとは知らなかった。本当に悪い事をした。すまなかった」

 

 トマスの謝罪する姿にエレンは少しホッとしたような笑みを浮かべた。

 

「そういう風に言ってもらえるとは思っていなかったわ。以前の貴方は私に痩せろと命じるだけで、何故太ったのかその訳も聞いてくれなかったものね」

 

「すまない」

 

「確かに忙し過ぎてストレスが溜まっていたのは事実よ。でもね、私があそこまで過食していたのは、兄の命で侍女が私の食事に薬を混入させていたからよ」

 

「薬???」

 

「薬っていっても毒薬とかじゃなくて、病弱な人の為の食欲増進剤よ。食べたいわけじゃないのに、どうしても食欲が抑えられなくて、おかしいおかしいと思っていたら、偶然侍女が私のスープに粉薬を混ぜているのを目撃したの」

 

「なんなんだその侍女は! 君の美しさに対する嫉妬か?」

 

 驚きの展開にトマスが大きな声を出すと、エレンは首を振った。

 

「そうじゃないの。彼女は幼い頃から私を可愛がってくれていたのだけど、彼女はデブ専だったの」

 

「デブ専?」

 

「太った人が好きという人のことよ。兄が子供の頃太っていたのも、太っている方がかわいいという偏った彼女の趣味嗜好のために、兄にカロリーの高いおやつばかり与えていたせいなの。

 兄は思春期に入ってダイエットの研究を始めてその事に気付いたらしいの。私はそれ程甘い物が好きではなかったので、子供の頃は太らずにすんだのだけど」

 

 ワイドナリー伯爵夫妻は自分の子供の事は装飾品の一つくらいにしか考えていなかった。もしくは家の役に立つ道具。

 エレンが可愛らしかった時にはエレンを可愛がり、太っていたカールの事は殆ど構わなかった。エレンは子供を同じように扱って欲しいとお願いしたが無駄だった。この時点でエレンは両親を見切ったが、カールは両親の愛を求めた。

 

 必死にダイエットをして痩せるとようやく両親が自分を見てくれるようになった。しかしそれだけでは満足できない。両親の愛情を自分だけに向けさせたい。そう思ったカールは自分を太らせた侍女を今度は利用した。

 エレンは痩せ過ぎだ。もっとふっくらした方がかわいいと思わないか? この薬を飲むと食欲が増すんだよ。と囁いた。

 カールが痩せてしまってがっかりしていたその侍女は、かわいいお嬢様をもっと可愛らしくしたい、そんな思いだけで、エレンの食事にその薬を混ぜていたのであった。

 

 エレンが太り始めると、両親の愛情は今度は全てカールに向けられるようになった。それでもカールは満足出来なかった。両親の愛情を独占したい。エレンなんかいなくなればいい。そう思っていた頃、カールに絶好のチャンスが訪れた。

 エレンがトマスによって公衆の面前で婚約破棄をされたのだ。こんな不名誉な事はない。プライドの高い父親は怒り狂うだろう。

 最初のうち、父親の怒りはトマスやアシュリー候爵家だけに向けられていたが、カールが上手く先導して怒りの矛先をエレンにも向けさせ、勘当、貴族籍の剥奪をするように進言したのだった。

 

 カール、あの陰気な陰険男がエレンを太らせたのか! そのせいで自分はエレンと別れる羽目になったのだ。諸悪の根源はあの男だったのか。そうトマスは怒りを膨らませたが、エレンはせっかく柔らかくなっていた顔を、再び厳しいものに変えた。

 

「私には兄を恨む資格がありますが、貴方には無いでしょう。それにいくら正当な治療薬だとしても、必要のない人間に薬を飲ませるのはやはり犯罪です。しかし、私は途中で飲むのをやめた後も、あえて痩せようとはしませんでした。太っていると、人の本心が見えてきますから。私は私が太っていた頃に態度を変えた人の事は信用しません」

 

 トマスはまた言葉を無くした。もうエレンからの信用は取り戻せないのだという事をはっきり悟ったのだった。

 

「太っていた頃、トマス様は私に痩せろといつもおっしゃっていましたが、どうして太ったのか、何か訳があるのか、悩みはあるのか、そんな風には聞いてはくれませんでしたよね」

 

「すまない」

 

 トマスは謝罪の言葉を繰り返す事しか出来なかった。

 エレンはそこで深呼吸を一つしてから、トマスの目をしっかり見つめながらこう言った。

 

「今日、仕事が終わったらお話ししようと思っていたのですが、この際ですから今お話ししておきます」

 

「なんだい?」

 

「こちらで働かせて頂くようなってもうすぐ丸二年たちます。そして間もなく契約更新になりますが、私はもう更新するつもりはありませんので、新しい方を早めに探しておいて下さい」

 

 トマスは驚いて立ち上がった。エレンが今でも自分を憎んでいる、恨んでいる、嫌っている事はこれまでの会話でさすがに分かっている。しかし、二年も一緒に仕事をしてきて何故今なのかと。

 

「ずっと復讐の機会を狙っていて、それが今なのか?」

 

 トマスがこう尋ねると、エレンは珍しく驚いた顔をした。それから、ふわっと笑った。

 

「一方的な理由で突然婚約破棄をされた事にはさすがに私も腹を立てていました。ですから、この二年、恨みつらみを少しずつ貴方に小出しにしてきました。しかし、貴方に復讐しようなんて全く思ってはいませんでしたよ。

 私がここで働きたいと言った理由は、最初に言った通りです。そしてここを辞める理由も。今月で過去二年分の給与と、慰謝料分を全て頂く事になります。ですからここを辞めるのです。

 もしここを潰す気なら、新しく入った方に教育なんて私は致しませんわ。そうでしょう?」

 

「復讐ではないのなら、辞めないでこのまま一緒に仕事を続けてくれないか? この商会を二人の共同名義にしてもかまわないから!」

 

 トマスは必死にエレンを引き留めようとした。商会は今飛ぶ鳥を落とす勢いだ。他の職員達も順調に育っていて、エレンが抜けたとしてもどうにかやっていけるかも知れない。しかし、大事な事はそこではない。エレンと共に生きていきたいのだ。

 

 しかし、エレンは微笑みを浮かべながらこう言った。

 

「そのように言って頂けるとは思っていませんでしたから嬉しいですわ」

 

「それじゃ・・・」

 

「でも、やはり辞めさせて頂きますわ。ようやくこれで持参金も貯まりましたので、私、ようやく結婚式を挙げられますわ」

 

「結婚? 誰と?」

 

 トマスは思いがけない言葉に呆然となって呟いた。

 

「アーネスト=ソルトン様ですわ。ソルトン男爵様もアーネスト様も持参金などいらないとおっしゃって下さっていたのですが、私自身がどうしても自分の力で用意したかったのです。婚家とは自分の気持ちの中では対等でありたかったので」

 

「アーネスト=ソルトン・・・」

 

 確か同じ学年の成績上位者の中に、そんな名前の男がいたな。黒髪、黒い瞳の美丈夫。真面目で静かだが、男女共に人気がある男だった。そして、俺が婚約破棄した後に、エレンを抱き上げて会場の外へ連れ出した男・・・

 

「学生時代から付き合っていたのか?」

 

 エレンもマリアンと同じか?

 すると今まで微笑んでいたエレンの顔が急に厳しくなった。

 

「私達を貴方方と同じ人種だと思わないでくださいね。

 ソルトン男爵夫人とは同じ教会で以前から一緒に奉仕活動をしたので、アーネスト様とも昔から顔馴染みでしたわ。もちろん、同級生でしたし。ですが私には婚約者がおりましたので、きちんと節度を持って友人としてお付き合いしていましたわ。貴方方とは違います。

 アーネスト様はいつも私を心配して下さっていましたの。顔色が悪いけどどうしたの? 食欲がすごいけど、ストレスが溜まっているの? 無理しないで。何か悩みがあるなら相談に乗るよ・・・

 太って醜くなった私を、心底心配して下さったのはアーネスト様だけでしたわ。親に捨てられ、平民に落ちた私の面倒を見て下さったのも。ご自分には何の得もないというのに」

 

 エレンはポロポロと涙をこぼした。トマスが彼女の涙を見るのは、二年前の卒業パーティー以来二度目の事だった。

 

 トマスは何度も何度も同じ失敗を繰り返した。そして何度も何度も謝罪した。しかし、最後まで彼は愚かなままだった。

読んで頂いてありがとうございます!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ