殺し合い
黄昏時からの雪が、静かに薄汚れた無法街を白装束に着せ替えていた。街は何の抵抗もせず、ただそれを受け入れるしかない。
やがて夜の帳が訪れても、雪は降り止むことを知らない――穢れを浄化するように。
街の住人のほとんどが凍てつく白の世界に赴こうとはしない。この時期の気温が零下二〇度にもなる
にも、関わらず一人の男が人も車も通らない路を悠然と歩いている。ちょっと散歩にでも、という足取りだ。
そして少し離れた物陰から注意深く、その男を見つめる瞳があった。
「……やっと見つけた」
黒く長い髪の少女はそう呟くと、すぐに前を行く人物の後を追った。相手に気付かれぬよう気配と足音を殺して。
男はしばらく直進したかと思えば、左の角を曲がり――急に閉じられた店の前で立ち止まりショーウインドウを眺め、そしてまた歩き出すなど、行動に一貫性がない。背後の追跡者に気付いているのか、それと元々そういう性格なのか。
どのくらいの時間が経ったのか、男は街外れの一角までやってくる。そこは朽ち果てた建物の墓場だった。そんなところにも、いまだに電気が通っているらしく古びた街灯の群れが寂しい光を灯している。
誰が何をしようとも、決してバレることはない――そんな場所だった。
「そろそろ追いかけっこも辞めにしようか」
男は空き地に入ると、振り向きもせずに追跡者に告げる。
「だから、こんなところまで連れて来たの?」
姿を現した少女は慣れた手つきで安全装置を解除しスライドを引く。そして素早く拳銃を相手に向けて構える。微かに震えているのは、寒いためだけではない。
銃口の数メートル先で背中を見せていた男が少女のほうに向き変える。その顔には不敵な笑みを浮かんでいた――子供の遊びに付き合ってやるか、とでも言いたげに。
「こんな時間に夜遊びとは、ね。それとも強盗? どっちにしても悪い子だなあ」
少女が対峙したのは若い痩躯の男だった。赤茶の長髪をツインテールのようにまとめているが、なかなかの美男子だと言えよう。
「そうね。でも、人を殺した貴方ほど悪い子じゃない」
「へえ。僕を知ってるんだ? というか、前に逢った事あったっけ?」
うーんと唸って一頻り考え込む。そして、思い出したという表情で
「ああっ、何年か前に殺り損ねた娘か――元気だったかい?」
最後の一言が少女――リーナを激高させる。大きい碧眼には涙をためているが、強い憎しみと殺意の眼差しは真っすぐ相手を捕らえていた。
「貴方だけは絶対に私が……!!」
吹きつける風の中、リーナが叫ぶ。
「許せない……絶対に貴方だけはっ!!」
叫びとともに、突風が舞い上げた雪と一緒にリーナの美しい黒髪をなびかせる。
「そうかい。じゃあ撃ってみなよ」
仇の男――シオンは他人事のように言い放つ。逃げようともせず、真正面を向いたまま動こうともしない。
そのふざけた姿にリーナの指先に殺意が集まり、トリガーを絞る。
照準をシオンのにやけた顔に合わせる。
乾いた銃声が白亜と宵闇の世界に響き渡った。同時に空薬莢が排出され地面に落ちる。
中性的できれいな顔立ちだが、残忍さを内面に潜めた男を殺すためにリーナはこれまで生きていた。とある男と出会い、銃の使い方を教わってきたのだ。何百何千と射撃訓練をし、念のためにと体術も叩き込まれた。たった一人の人物を殺すためだけに。
その成果が今、実を結ぼうとしていた――はずだった。
「どうした? まさか今でおしまい、ってわけではないよな?」
平然とした様子でシオンがお道化る。
9ミリの弾は間違いなく相手の脳天にぶち込まれたはずだった。
リーナは続けて二発、三発、四発と連射する。
それでも――弾丸はシオンの身体に当たるどころか、かすり傷一つも出来ない。ただその場に突っ立っているにも関わらず、だ。その度に空になった薬莢が、虚しく白地に埋もれる。
「ほらほら、もっとよく狙いなよ。そんなんじゃあ俺は殺せないぜ? 家族の仇を討つんだろ?」
「そうよっ! 貴方はっ!!」命中しない焦燥を振り払うように、リーナが叫びながら撃ち続ける。「貴方は私のパパとママを……弟を殺したっ!! だから――」
リーナは生まれてから、ずっと幸せな時間の中を生き、成長してきた。そしてその幸福な時が、ずっと続くものだと信じてやまなかった。
しかし、幸福という時間が崩されるのは、誰にでも訪れるものなのか。それとも因果の応報というものか。リーナはある日を境に絶望の淵へと叩き落されたのだ。
あの日のことは、今でも脳裏から消え去ることは決してない。
数年前――目の前にいる若い男が、リーナから家族を奪っていった。無論、リーナだけが見逃されたわけではなかったが、重傷で済んだのもまた運命だったのか。
薬室がリーナに弾切れを知らせてくる。
「……っ」
舌打ちしつつも、すぐさま空になった弾倉を捨て、予備の弾倉と入れ替え、スライドを引いて構える。
「ああっ、そうか。離れすぎてるから当たらないんだな」
わざとらしく両手を真横に広げ、リーナの方にゆっくり歩み寄ってくる。間違いなく当たるように。
「なんでっ?! どうして当たらないの!? どうして死なないの!?」
文字通り狂ったように連射を続ける。追い詰められている気分になったのは、他ならぬリーナ自身であった。
シオンとの距離が徐々に縮まっていく。三メートル、二メートル、そして――三度弾倉を交換した直後、シオンの顔が銃口からわずか数十センチの位置にあった。
「これなら、どうだい。これで当てられなかったら、君は――」
連続して響く銃声。
それでもなお――シオンは無傷だった。
「君は死ぬことになる」
驚愕と困惑とが入り混じったリーナがほんの一瞬だけ硬直するのを、シオンは見逃さない。指が引き金に接触する前に、左手でリーナの銃を掴んだまま、後ろ手に締め上げる。と同時に足で膝を崩して自由を奪って雪の上に倒れ伏させる。
「くっ……どうして……?」
「どうして、か。それはとっても簡単なことだよ」
リーナの耳元でそっと囁かれる。地獄からやってきた悪魔の宣告のように感じた。後頭部には、自分の物とは別の銃口が突きつけられている。死の恐怖と絶望、そして悔しさとが入り混じって、必死に抵抗を試みるが無駄に終った。
「俺のほうが君より強いのさ――単純なことだろ」
「そんな……」
「誰に撃ち方を習ったのか知らないけど、いい腕だったよ。俺以外のやつなら、間違いなく殺れてたよ」
自分を殺しにきた少女に称賛を送りつつも、躊躇いなく発砲する。
家族の復讐を誓った少女の頭部に一輪の赤い華が咲く。シオンは心臓にも数発撃ちこんで、完全にとどめを刺す。
積もった雪が鮮血の色に染まっていく。それを上からまた白く塗りなおすように、雪が降り続ける。
「敵討ちなんて考えなけりゃあ、長生きできたかもね」
横たわる少女の亡骸に一瞥をやりながら、銃を懐のホルスターに戻す。今日も一日、トラブルなど何もなかった、そんな表情を浮かべて殺人現場に背を向けて歩き出そうとした。
街は相変わらず静寂の中だった。ここは深海に似ているな、とシオンはふと考えた。自分も餌を探して彷徨う肉食の深海魚かな、と自嘲する。
――空き地から出ようと、数歩と行かないところで足を止めた。いや、足を止めざるを得なかったのだ。
シオン以外の男の声を耳にしたからだ。
「済んだようだな」
街灯が照らさない暗闇の一角から長身の男が姿を現した。
精悍な顔立ちに切れ長の目元、彫像からそのまま移したように見事な鼻梁。そして何より印象的なのは、死神と見紛うばかりの赤黒い外套を身に纏っていたことだ。
「ミスター“J”」シオンは男をそう呼んだ。
「さっき片付いたばかりですよ」
と応え、無意識にやや緊張した面持ちになる。
「あんたのおかげですよ。本当にただの一発も掠りすらしなかった」
「そうか。それは結構なことだ」
「しかし、どんな手品を使ったんです? 目の間で撃たれても、全然弾が届かない――もしかして魔法とか」
人懐っこく冗談混じりに訊ねるシオンに対し、ミスター“J”は低く笑いながら
「知りたいかね?」
「……いや、止めておきます。しかし、あんたにはいろいろと世話になった。礼を言わせてもらいますよ」
「礼など無用だ。こちらも――」
言葉の最後が風でかき消される。
シオンは“J”を見た。
“J”の黒い瞳には光が宿っていた。
何かを企んでいる者が宿す妖しい光を、嘲笑と共に。
本能的にその何かを感じ取ったシオンは、反射的に地面を蹴って“J”との距離を取った。この捉えどころのない男は何者なのか、シオンは今までずっと疑念を抱いてきた。
そもそも、この“J”との出会ったところから仕組まれていたのではないか。数年前に殺し損ねた少女が、なぜ今頃になって自分を狙ってきたのか。その少女に銃の仕込みを伝授し、自分に差し向けたのは、他ならぬ目の前の男ではないのか。
そんな考えが頭を過ぎった。それと同時にもう一つの疑問が浮かぶ。
では敢えて仇に狙わせておきながら、弾除けの術を施したのは何故か?
「あんた、いったい何を企んでるんだい?」
「さあてね。言ったところで君に理解できるとも思えんがね」
「そうかい、それは残念だな」
さきほどリーナを撃った銃を取り出した。残弾はまだ充分にある。
それなのに――今度はシオンが追い詰められた感覚に陥った。グリップを握った手は知らぬ間に汗で濡れ、大量の氷を直接背骨に入れられたかのように背筋が凍える。これまで経験した事のない恐怖。
眼前にただ立ち尽くしたままの男から発せられる、殺気――いやそれ以上の悪気というべきか。漆黒の常闇ですら、“J”は呑み込んでしまいそうだ。
身体のすべての細胞がシオンに訴えかける。
戦ってはならない、と。
戦えばどうなるか、その先の未来はすでに見えていた。
シオンは銃を構えたまま、少しずつ後退りする。一刻も早く、この場から撤退しなければならない。しかし身体は金縛りにでもあっているのか、思うように動いてくれない。
口の中が渇いて、言葉を発することも忘れた。
「寒いのかね?」“J”が口を開いた。「ずいぶんと震えているじゃないか」
そう言われて、シオンは大きく目を見開いた直後に口から吐血した。そのまま、糸が切れた操り人形となって雪の上に横たわって動かなくなった。
シオンの背中には何十もの銃弾が撃ち込まれていたのだ。
誰がいつの間に撃ったのか、それも音もなく。
「魔法、か。近からず遠からずの答えだったが――」
“J”は雪がさらに凍りつくと思えるほどの冷笑を浮かべた。シオンの死体に近づいて、握られたままの銃を拾い上げた。
「俺が君に施したのは、これなのさ」
そう口にしながら、無造作に銃を天高く放り投げた。
シオンの銃は回転しながら宙を高く飛んだあとで、次第に重力に引っ張られて落下を開始する。やがて、そのまま地面に衝突――しなかった。銃は雪の上のどこにも姿を現していない。落下中に前触れもなく消えてしまったのだ。では、どこへ行ってしまったのか。
銃は持ち主のところへ戻っていたのだ。遺体となったシオンの手の中に。
「空間転移――以前、ある女から学習したものなんだがね。それを応用して、君に施してやったのさ。異次元転移の実験、割と上手くいったな」
悪びれる様子もなく、淡々と独り言ちる“J”。
「それにしても、あの娘……せっかく仕込んでやったが相手が悪かったな。もっとも、そうでなくとも最初からこうなる運命だったわけなんだが」
ふと“J”は横たわった身体に雪が積もる少女の傍らに、悲哀の表情を顔に刻んだもう一人の少女の姿を認めた。
碧眼の少女の姿は半透明だった。
何かを訴えたいのか、ずっと“J”を見つめていた。
“J”自身も彼女を見つめ返した。
しばらくの間、静寂と虚無があった。
やがて根気負けしたのか、“Jは”面倒くさそうにため息をつき、
「彼を殺したのはお前だ。お前が撃った弾は一発も外れちゃいないのさ。仇は討ったんだ、さっさと往け」
その言葉が呼び起こしたのか、一陣の風が降り積もった地面の雪を攫うように巻き上げた。それが収まった時には、もう少女の姿は無かった。
“J”はやれやれと首を振った。そして天空を仰ぎ見た。
どうやら、雪はまだまだ振り続けるようだ。
(完)
Twitterでフォローさせて戴いている、結城ゆき様の作品イラストを拝見し、直感で物語を書かせて頂きました。
https://twitter.com/yuiragi_yuki_/status/1258700719470698497