井の中の蛙絶望を知らず
警視庁の地下にある窓際部署『掃除屋』
そこにたった一人所属する女刑事波風司の前にとある検察官が赴任してくる。
彼の登場により日常はあっという間に地獄に変わっていく…
突然だが、貴方は何が好きだろうか?
食べ物、飲み物、趣味、異性のタイプ…色々挙げられるとは思う。
だが、この世には常軌を逸した好みを持つ人間が少なからず存在する。
その人間達を私と『奴』はこう呼ぶ事にした。
『フロイト』
これは私が『奴』と体験した最低で、最悪で、気が狂いそうになった日々の話。
それでも『奴』だけは言った。
「嗚呼、何と美しいことか!」
「な…んだこれ…」
「人間の遺体だよ。」
「それは分かっていますが…これはあまりにも…!!」
その地獄のような日々はこの日から始まった。
忘れもしない8月の暑苦しい夜…
路地裏で遺体が見つかったという報告を受け、私がそこで見たものは
眼球、四肢が欠損したぐちゃぐちゃのヒトだった肉塊。
夏の容赦のない湿気と熱のせいか、酷い異臭が鼻に突き刺さる。
私は思わず鼻と口をハンカチで被った。
「鑑識、何か出たか?」
先輩が作業をしている鑑識官にそういうと、鑑識官達は肩を竦めて首を横に振る。
「何も出ないねぇ…恐ろしい程痕跡がない。」
「此の路地裏だけ他の路地裏と比べて妙に綺麗っすもん。何も出やしねぇ。こりゃプロみてぇっすよ。」
『何も出ない』
この言葉、他の刑事達には落胆する言葉だろうが、私はもっと落胆する。
きっと最後は私に全て回ってくるのだから…
「こりゃお前に回ってくるかもな、司。仕事ができるじゃないか。」
「…はぁ…」
私の名は波風司
警視庁の地下奥深くにある隔離された一室に収容されているただ一人の特別捜査官…
『未解決犯罪対策係』…通称、『掃除屋』
先輩のこの言葉の意味は言い換えるとこうだ。
「また迷宮入りだろうから始末を頼むぞ。」
一体どうして私がこんな場に?こんな目に?
別に入った時は何ともなかった、それどころか警視庁の捜査一課という警察官の花形に配属になれた。
何度も犯人を逮捕した、この手で手錠をかけたことだって何度もあった。
先輩にも褒められて、近い内に警部補に昇進する話も出ていたのに…
突然の通告、いわゆる島流しだった。
理不尽な話だと思ったが刑事部長の様子がおかしかったのも気になる。
まるで脅されて、私に押し付けたような…
謎は日を追うごとに深まるばかりだった。
そして一週間後…手掛かりが全く足りず、やはり事件は迷宮入りした。
私の机に置かれた書類の山に落胆するのもいつもの光景だ。
するとそこへ、使われなさすぎて埃を被り始めていた固定電話が泣き叫んだ。
思わず私は目を見開いた、まさかこの離れ小島にたった一台置かれた電話が声をあげるとは…
少し受話器の埃を払ってから、私は恐る恐るそれを耳に当てる。
「も、もしもし…」
「嗚呼、波風…喜べ、新しくそこに配属になる人が出てきたぞ。」
「え、新人?」
…その時の私の声を客観的に聞けたならその声はかなり上擦っていただろう。
こんな廃れた辺鄙な島に来るなんてなんて不憫な人だろうとは思ったが、それより一人ぼっちでなくなることの嬉しさの方が勝ってしまった。
なんて不謹慎な女なのだろう。
適当に相槌を打ってから電話を切り、急いで部屋の掃除を始める。
はたきを掛けてから掃除機を掛けて、雑巾で床を拭いて…
するとそこへ上司から私のパソコンへメールが送られてきた。
恐らく新人の履歴書なり詳細なりだろうと思い、少しわくわくしながらメールを開く。
そして案の定、新人の履歴書だった。
「辻、堂…進次郎…?男の人か。」
そもそも警察は男社会、男が来たからといまさらはしゃいだり落胆したりはしない。
私はそのままスクロールバーを下に下げていった。
そしてある地点でそれを止める。
「検察官…?」
「失礼します、波風さん。」
「うひぃあぁっ!!?」
画面に集中していた私は突然後ろに立っていたそれに気がつかなかった。
耳に滑り込むような低音の声と、振り向いた目に飛び込んだ優しい微笑み、真っ赤な瞳。
整った黒髪とノリの効いたスーツから几帳面さが伺える。
そして何より、デカイ。
180はあるであろうその長身は160代の私にとっては見上げる大きさだった。
…でもネクタイはした方がもっと似合うとは思った。
「あ、えっと…お前が辻堂進次郎か?」
「はい。本日から配属になりました、辻堂進次郎と申します。よろしくお願いします、波風さん。」
軽く会釈をしてそう言った進次郎の手には何も荷物は乗っていなかった。
左遷、というのは兎も角、異動なら私物の荷物の一つや二つ持っていそうなものなのに。
「…あー…辻堂。」
「はい?」
「荷物は?此処に異動するんだろ?」
「荷物?全てに検察庁に置いてきましたよ?」
「え、な、なんで?」
「俺が此処に出勤するわけではありませんから。」
その台詞を言った瞬間、見計らったように掃除機とはたきが倒れた。
私の一生懸命掃除をした時間と仲間が増える期待を返して欲しい。
まぁ増えるは増えるのだが…
「俺は検察庁で仕事をして良いということらしいですが…」
「じゃあなにしに来たんだこんなとこへ!?」
「クソジジ…上司から言われたのは『未解決事件の解決』です。」
今クソジジイって言いそうになったなコイツ。
こんな好青年?の口からクソジジイって出そうになったな今。
ニコニコと微笑む辻堂は私の前に椅子を持ってきて座った。
「今回の事件の詳細は聞きました。実に巧妙な犯人だとか。結局お宮入りしたそうですね。」
「…まぁ、そうだが…こう改めて言われると悔しいものだな。」
「そこで1つの仮説なのですが…波風さんは『異常性癖』というものを御存知でしょうか?」
「い、いじょーせーへき…?」
日常生活でまず聞かない言葉に私は思わず辻堂の台詞を復唱した。
辻堂はまるで授業でもするかのような口調で説明を始める。
「精神医学の世界では疾患扱いをされているものです。特殊な性質、状態、現象に対し、興奮や性的快楽を感じる者達…俺はその者達を『フロイト』と呼んでいます。」
「あー…うん、うん、待て待て。つまりお前はそのフロイトとやらが今回の犯人だと…?」
「ええ。」
「ええって…根拠はなんだ?」
「ふむ、根拠ですか…そうですねぇ」
そう言うと辻堂は私の机に積まれた捜査資料から何枚かの現場写真を引っ張り出した。
惨い遺体に私はつい目を反らす。
「例えばこの切断された御遺体の腕ですが肩甲骨から綺麗に外されています。どちらかと言えば切断というより解体に近い。一見法則性もなくぐちゃぐちゃにされているように見えますがその手付きは一種の執着と拘りが見て取れる。」
「…ほ、ほぅ…そうなのか…」
「つまり犯人は殺すことではなく解体、そして欠損させる事を目的として犯行を行ったと推測します。その事を踏まえれば
犯人はアポテムノフィリア…肉体切除性愛者でしょう。」
そこまで語り終えると辻堂は「あ」と何かを思い出したように立ち上がってスーツのジャケットを羽織った。
「?おい、どうしたんだ?」
そう私が聞くと彼は苦笑を浮かべながらこう言った。
「刑事部長に御挨拶してくるのを忘れていました。続きはまた後で…」
おかしい
明らかに帰ってくるのが遅い。
刑事部長に挨拶をしてくると言って出ていった辻堂はかれこれ一時間は帰ってこなかった。
世間話をするにしてもあの無口な刑事部長が井戸端会議をする主婦のように長く話し込むとは思えない。
辻堂本人も全く連絡を寄越さずそのまま検察庁に戻るような性格には見えなかったが…
私がそう悶々と考えていると、車椅子を漕ぐあのキィキィという音と共に優しいノックがドアを叩く。
こんな地の底へわざわざ足を…いや、車輪を運んでくるのは一人しか居ない。
ドアを開けるとそこには
「やぁ司。」
「来てくれたのか、緑。」
彼は華月緑。
私が此処に来る前まで捜査一課でコンビを組んでいた、いわゆる相棒だ。
ドアを抑えてやれば緑は申し訳無さそうに微笑みながらありがとうと車輪を進める。
「緑、コーヒーは?」
「うん、貰おうかな。」
「角砂糖は一個、ミルクは少しだったよな。」
「あ、いや。ミルクは要らないよ。」
「何だ、趣味が変わったのか?」
「まぁね。」
そんな他愛の無い会話を交わしながら私はガリガリとコーヒー豆をミルで引き始める。
実はコーヒーはかなり拘りがある方だ。
一から丁寧に豆を引いて、淹れ方にまで気を配れば苦いばかりのコーヒーにはならず、むしろ飲みやすく優しいコーヒーになる。
水だって水道水ではなく、わざわざ取り寄せているミネラルウォーター。
こんな辺鄙で最悪な空間に一つくらい幸せになるような何かがなければ気が狂ってしまうだろうから。
その間にも緑は部屋を車椅子でゆっくりと見て回る。
それはいつもの緑の習慣だった。
置いてある観葉植物を眺めたかと思えば、私をじっと見つめたり、私のミルの音に聞き入ったりもしている。
昔から普通の人間には見えない何かが見えているかのような言動が多い不思議な奴だ。
しばらく部屋を自由に動き回っていると緑は私の机に無造作に置かれた例の事件の資料を手に取った。
「…誰か来てたの?」
「ん、嗚呼。此処に新しく配属になった検察官が居るんだ。」
「検察官?」
「うん、私もちょっと変だと思うんだけど…まぁ礼儀正しいし第一印象は好青年って感じだな。あ、でも…」
私はゆっくりと引いた豆に湯を掛けながら言葉を続ける。
「異常性癖?ふろいと?とかなんとかを持ってる奴が犯人だって彼奴言ってたな…あぽてむ…なんとかってやつ。」
「肉体切除性愛。」
「あ、そうだそれだ。緑も知ってるんだな。…って緑?」
緑の表情が強張った。
少し思考を巡らせて、そして彼は私に強く聞く。
「その検察官、名前は?」
「え、辻堂進次郎…。」
「やっぱり…」
「え、え、ど、どういうことだ?」
その時猛烈に嫌な予感がした。
緑の予言はよく当たる。
それだけに緑がこんな表情をした日には必ずと言って良いほど良くないことが起こるのだった。
「司、その辻堂って人は
…その緑の台詞を遮るかのように私の机の電話がまた悲鳴を上げる。
上司からか、それとも私のスマートフォンの電話番号を聞き損ねた辻堂からか。
緑の予言めいた言動のこともあり、私は恐る恐る電話を取った。
「もしも
「あーーー出た出た!!!なんやねん居るんかーい!!!進次郎と一緒に居るんちゃうんか思ったから出やせぇへん思とったわ!!!!っんだーーーっはっはっはっ!!!」
耳元で爆弾でも爆発したのかと思った。
あまりの声量に緑も顔を歪めている。
それを耳元で聞いたんだが?大丈夫か私の鼓膜は?
電話の音量を最大限に小さくしてもう一度受話器を耳に当てる。
「あ、あの…アンタは誰だ?」
「僕?あーーそうやーーん名乗ってへんやーん!!アカンやーん!!失礼やなぁごめんなぁ!!!僕は鴨宮馨!!!進次郎よりお偉いさんやお偉いさん!!!!」
その低く渋い声の『お偉いさん』という単語は進次郎が言い掛けていた『クソジジイ』という単語と私の頭の中で結び付いた。
成程、確かにクソジジイだ。
と、本人の前で口にすることはできず腹の中に押し込む。
「そうだ、鴨宮さん。辻堂がどこへ行ったか知らないか?刑事部長へ挨拶しに行くと言ってからなかなか帰ってこないんだ。」
そう私が言うと鴨宮はまたゲラゲラと笑ってさも可笑しそうに答えた。
何だ?そんなに可笑しいことでも言ったか?
「ほんっっっっま何も教えてへんねんなぁ進次郎は!!印象形成が嫌いな子やし可哀想なってきたわ!!まぁ欲を満たすためにはしゃあないもんな!!!」
「…おい、何を言ってる…?」
「さっきな、進次郎から連絡あったんや。そこから二駅先の駅のいっっっちばん近い美容整形外科に行くってな。」
「美容整形外科…?なんだってそんなとこ…」
「まぁ僕は伝えたから!知りたいんやったら行ってみるんやな。ほな、これから宜しくなぁ、司ちゃん…」
その最後の一言は何故か脊髄の中を冷たい指で撫で上げられるような気分がした。
通話が切れた受話器を置き、ちらりと緑を見ると彼はやはり渋い顔をしていた。
「行った方が良い…よな?」
「…司が知りたいなら行った方が良い。何時か知るなら早い方が良いんだから…」
行きたくない。
嫌だ、嫌だ、怖い
頭が狂ってしまいそうなほどの恐怖が胸にこみ上げる。
「…分かった。」
それでも足はドアに向かう。
絶対に大丈夫さ
思い過ごしさ
杞憂に決まってるさ
そう自分に言い聞かせ続けながら私は、自分の車に乗り込んだ。
「此処か…?」
着いた場所はごく普通の美容整形外科のように見えた。
こんなところに辻堂は何を…?
そう思いながら引き戸を開けると私の耳に
耳をつんざくような悲鳴が襲い掛かった。
それと同時に脳から血が一気に引いていく。
ウソだ、これは夢だ、覚めろ、覚めろ…!!!
息が荒い、指先が冷たい
嗚呼、神様神様神様…!!!
もう許してください、私が何かをしたのなら償うから、許してください…!
これ以上私の心をぐちゃぐちゃにしないでください…!
そう願いながらも断末魔の様な叫びは止まらない。
…そして、叫びは収まった。
いや、収まったというより途切れたんだろう。
しん、とした室内に革靴の音が響く。
血の匂いが漂ってくる。
その靴の音と共に現れた人物を見た瞬間、私の中で何かが切れた。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!もう嫌だ!!!!!!どうして!どうして私だけが…!!!!何もしていないのに突然独りぼっちの地下室に詰め込まれて!!!!!何日も何日もグロい死体の映った資料と格闘して!!!!!!!!!挙句の果てに現れたのが…お前だなんて…!嘘だと言ってくれ!!!夢だと言ってくれ!!!『辻堂』!!!!!!」
涙と涎と汗でぐちゃぐちゃになった私の顔は余程酷かったのだろう。
『奴』は睨めっこに負けたような無邪気な表情で笑った。
「おい、寝ぼけるな『司』。これは現実だ。お前は俺の真実を知っただけさ…いや、俺達の真実と言った方が良いのか?」
血の滴る出刃包丁を落とし、『奴』は私の顔を指で乱暴に上げさせる。
「俺達は世に蔓延り好き勝手騒いで繁殖し続ける…この世は俺達の娯楽も餌もたんまりとある暖かく過ごしやすい揺りかごのようなものなのさ…」
「っ…ひ、あ…!」
「お前は俺に餌を運ぶ大事な大事な役割だ。サボるなよ?俺の欲を満たすために働き続けろ…」
誰だ
誰なんだコイツは
私の目に映っているのは、人間じゃない
人間の皮を被った化物なのか…?
「俺の名は辻堂進次郎…フロイトは罪科性愛。犯罪を好み、その犯人を殺すフロイトだ。俺の為に犯罪を運んで来い。それがお前のこれからの仕事だ。良いな?」
「犯罪を…慈しむ、だと……?」
薄れる意識の中、辻堂進次郎がこう叫んでいたことだけは呪いの様に脳にこびりついている
「その通りだ!犯罪とは俺に快楽を与えてくれる芸術なんだ!嗚呼、なんと美しい事か!!!!」
これは
私の頭がぐっちゃぐちゃに掻き回されて、壊れるまでの話。
そう、名づけるなら…
『Pulpy cerebrospinal fluid!!』




