ズッキーニの花
水をはったガラス容器の底にそうめんが沈んでいる。
僕はふやけたそうめんをかきまわしながらお昼のニュース番組を見ていた。
若い女のリポーターがどこかの街角から天気の中継をおこなっている。
「現在、東京の気温は36度。関東地方は連日、真夏日を記録しております。
お出かけの際は熱中症にお気を付けください」
画面が切りかわり、ビルの屋上から炎天下のビル群が映しだされる。
それにつづき、リポーターの声が各地の気温を伝えはじめた。
「前橋37度……熊谷40度……水戸36度……」
夏。
暑い夏。そうめんばかり食べている夏。ひとりぼっちの夏。
彼女が居なくなってはじめての夏。
窓を開け放ったボロアパートの部屋はやたらと広くて、
食卓はそうめん以上に冷え切っていた。
僕は食べるのをやめ、残ったそうめんを流しの三角コーナーに捨てた。
食器を洗おうとして、僕は、洗剤が切れていることに気付いた。
「他にあったかな?」
流しの下をまさぐる。自分で買ったのか、
彼女が買ったのか分からない食器を押しのけて、
クレンザーの紙容器(空だった)やサラダ油のポリ容器(これも空だった)を取り出す。
「あれ?」
いくつかゴミを処分していると、一冊のノートがすみの方から出てきた。
ノートを手に取る。そっけない大学ノートだった。
表紙にはマジックで「レシピ帳」と書かれていた。
ページをめくる……中には彼女の字で細かく料理の材料や調理法、
ときにはイラスト付きで盛り付けの仕方などが書かれていた。
「このノートは……そうか、もう一年、たつんだな」
ふいにあの日の記憶がよみがえった。彼女のあきれるような、茶化すような声が。
それは今日みたいに暑い日だった――
「そうめんばかり食べていたら、身体がヘンになるよ!」
バイトから帰った彼女が大量に盛られたそうめんの皿を前に、
しかめっつらを僕に向けた。
「そうめんダイエットしてるんだよ」
「ぎゃくに太るよ! もっと、栄養のあるものを食べなきゃ」
「あんま、食欲ねぇーなー……暑いし」
「そのわりにいっぱいあるね」
「袋に入っているのをそのままゆでたら、そうなった……」
自分ではあまり作らないから、あんな量になるとが思わなかったんだ。
そうめん恐るべし!」
「こんなにゆでて、どおすんの?」
「うむ、今夜もそうめんにしよう!
「やだよ!」
「じゃ、ひやむぎにしよう」
「同じだし!」
「いや、そうめんとひやむぎは違うぞ。
まず、製法について、一本の麺を伸ばしたものをそうめんとし、
一方、ひやむぎは薄く板状にのばした生地を裁断する。
さらに太さについて、1.3mm以下のものをそうめんと規定し、
一方、ひやむぎは1.3mm以上1.7mm以内の……」
「そういう問題じゃないし……」
彼女は頭をおさえ、流しの下からノートを取り出した。
「じゃあ、夜はわたしがとっておきのとっておきを作ってあげる。
実は隠れて勉強していたんだ。とってもセイがでる料理だよ」
なぜ隠れて勉強しなくてはならないのか、またセイがでる料理とは何か!
このエロ娘が! と勝手な妄想を膨らませていた僕だが、
そんなこんなで彼女の作った料理はたしかに美味しかった。
それはおおげさではなく、いままで食べたどんな料理よりもおいしかった。
僕はそうめんばかり食べていて、胃がおかしくなっていたのか、
一杯で満足してしまったけど、彼女は喜んで何杯もおかわりをしていた。
まったく、その晩は夢のような体験をしたもんだ。
翌朝。僕はひとりで目を覚ました。
それは文字どおり「ひとり」きりでという意味だった。
横で寝ているはずの彼女の姿はなかった。
ぼうぜんと午前中を過ごし、正午すぎ、警察から電話がかかってきた。
そのあとの出来事はよく覚えていない。
暗い部屋の中に白い布を被せられて横たわる彼女。
知らせを受けてやってきた彼女の母親の泣き声。
僕に対する罵声。
気まずさを顔に貼り付けて廊下の長椅子にすわる僕の両親。
そんな情景を無感動に見つめていた気がする。
不思議なことに悲しさは感じられなかった。それはまったく、突然すぎたんだ。
ぼんやりと警察のひとから、彼女があの晩、車道をさまよっているところを
車に跳ねられたらしいことを聞いたような気がしたが、
それはどこで聞いたのか……警察署か……病院だったろうか……あまり覚えていない。
あの時の記憶をたどりながらノートをめくる僕の手があるページで止まった。
そこにはラインマーカーで派手に装飾された字で
『とっておきのメニュー』
と書かれていた。
それは彼女が最後に作った料理に違いなかった。
僕は突然、その料理を再現してみたくなった。
立ち上がると乱暴にシャツをはおり、玄関(といっても台所の一角だが)に立つ。
サンダルを履き、熱せられたアスファルトの路地に出る。と、また部屋に戻った。
ノートを忘れたことに気付いたのだ。
僕は近所のスーパーへ行き、レシピ帳を見ながら食材をかたっぱしからカゴに入れていく。
その料理はどうやら「ラタトゥィユ」というものらしかった。
一体、どんな料理か分からなかったが、レシピを見るかぎり、何かの煮込み料理らしい。
【ラタトゥィユ 材料】
・たまねぎ ‥‥‥‥‥‥‥‥ 1個
・赤ピーマン ‥‥‥‥‥‥‥ 1個
・黄ピーマン ‥‥‥‥‥‥‥ 1個
・ズッキーニ ‥‥‥‥‥‥‥ 2本
・なす ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 2本
・トマト ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 2個
・トマトの水煮 ‥‥‥‥‥‥ 1缶
・にんにく ‥‥‥‥‥‥‥‥ 1片
・オリーブ油 ‥‥‥‥‥ 大さじ4
赤や黄色のピーマンは売ってなかったので、
ふつうの緑のピーマンで代用した。
トマトもなぜか、種類がダブっていたので生のパック入りを2個、買った。
オリーブ油も家にあるサラダ油で十分だろう、と思ったが、
サラダ油自体がないことに気付き、オリーブ油を買った。
あとの食材はだいたい、スーパーの青果売り場でそろったが、
ズッキーニだけが売ってなかった。
あまり気乗りしなかったが、スーパーの店員に訪ねたところ
「ああ、うちではおいてないですねぇ〜」
という、そっけない答えがかえってきた。
しかたなく僕は商店街にある他のスーパーや八百屋、
コンビニまで足をのばしたがズッキーニは、どこにも置いていなかった。
時期的に出回っていないのか? 僕は近所の本屋に立ち寄り、ズッキーニについて調べた。
【ズッキーニ】
カボチャの一種。形状はきゅうりに似ている。メキシコ原産。旬は主に夏期。
フランス料理、イタリア料理などによく用いられる。
南仏の西洋風野菜煮込み「ラタトゥィユ」にかかせない食材。
初夏に黄色い花が咲かせ、その花は食用になる。→参照「花ズッキーニ」
本屋を出て、遠くにある農協まで行ったが結局、ズッキーニは見つからなかった。
こんな、さびれた地方都市にズッキーニなんて、しゃれた野菜は存在しないのだろうか。
もうこれ以上、いくあてはなかった。
しかたなく、僕はスーパーの袋を両手にぶらさげて、とぼとぼと家路についた。
ボロアパートの前にたどりついた時、あたりはもう薄暗くなっていた。
各部屋には蛍光灯がともり、どこからか、シチューの香りが漂ってきた。
ひとけがなく、ひっそりとしているのは僕の部屋だけだった。
その時、僕は彼女が居なくなってしまったことをはじめて「感じた」。
それは概念としての彼女の死ではなく、はっきりとした悲しみの形をとっていた。
ゴロゴロゴロ……。
部屋の前で立ち尽くしていると、遠くの方から雷鳴が聞こえた。
夕立の予兆だった。風が吹き、アパートの前の雑草を揺らす。
一瞬、雑草の中に黄色い物が混じっているのが見えた。
僕は金網のフェンスに近づき、建物と道路の間にある、庭とも呼べない場所を見下ろした。
雑草に埋もれるようにそれはあった。
ズッキーニの花が風に揺れていた。
それは彼女が作ったささやかな、家庭菜園のあとだった。