PART1
聖竜の森の奥地に、ガンダーたちの住む村はある。規模こそ村と呼ばれるからには大したものではないが、地表と樹木の上にそれぞれ層を成すことによって家屋や商店と言った建物の数、そしてそこに住む人の数は意外にしても多い。狭く密集した村であり、しかしそうでありながら窮屈と言った雰囲気はまるで無い。森に生える樹木や草花の効能か村に病は流行らず、嵐もその勢いを殺される。平和で平穏、それこそが何よりの特徴なのがこの村”セントレル”だ。
ガンダーが帰還し、見知らぬ少年と少女を連れて帰ってきた時にセントレルは大騒ぎになった。ただでさえ彗星の一件で世の中が騒がしくなっているうえに、一見すれば竜人らしい特徴を持たない少年の存在。彼が救世主なのかとその騒ぎをガンダーは神官と一緒になって必死に治めて周り、今は神官"ヴァンダミン"の家で少年と少女を休ませている最中であった。
あの後、何とか少女ルーンにガンダーは自らが敵でないことや少年凛音を介抱しなくてはならない事を納得させ、それでもやはりルーンの刺すような視線を受けつつ漸くセントレルまで帰って来ることが出来た。移動用のまだ若い飛竜は子供とは言えガンダーを含め三人も乗せて飛ぶだけの体力は無く、今は小屋で十分な休憩を取らせている。あれにも無理をさせたと、座敷に敷かれた御座の上に胡坐をかいたガンダーは同じく向かい合わせに座るヴァンダミンの哀れむような視線に頭を垂れ、苦笑する顔をやれやれと左右に振った。
「特にあの子の、あの視線は堪えましたよ。移動中背中に冷や汗をかきっぱなしで……いやぁ参った参った」
「それはそれは、難儀であったなガンダー。しかし無事に皆帰ってきてくれてわしは安心したぞ。サンドドラゴンに襲われて、ほほっ、生きて帰ってきただけでも大層な幸運だと言うのに」
それに関しては同感だとガンダーはへらへら笑い、しかしその幸運を持ってきたのは他でもない、あの少年、凛音であるとヴァンダミンに告げる。それを聞いた有尾種であるヴァンダミンの尾が持ち上がり、詳しく聞かせてほしいとガンダーに湯呑を差し出しながら訊ねた。それを受け取り口にしようとして思いの外熱かった茶に舌を出しつつガンダーは快く頷いて、このセントレルの現当主にして守護兵の最高指揮官”竜殺し”ヴァンダミンに凛音との出会い、そしてその時に何があったのかを語るのであった。
――リオン……リオン……。
声が微かに聞こえてくる。良く知った声だった。微睡の中で至福のひと時を謳歌していた凛音を起こそうとするその声に、しかし凛音は後十分、後五分と無意識に体を左右に動かしながら背中を丸めて頭を隠し、声が届かない様に耳を覆った。くいくいと何度も毛布を引っ張られる感覚に断固抗いながらそうしてまだこの幸せな微睡に溶けようと凛音はした。
――オン……リオン……。
しかしそんな凛音の体を無理矢理今向いている方向の逆に動かされ、挙句頭を覆っていた毛布を引き剥がされる。だが意地でも瞼だけは開けまいと踏ん張っていた凛音を、しかしその声の主は無慈悲な方法で以て彼の意地を突き崩す。まず、固く閉ざしているとはいえ所詮瞼、人の指先二本もの膂力に当然敵う通りも無く、無情にも強制開眼されてしまう。しかしまだ白目を向いて抵抗を続ける凛音。だが剥き出しの彼の眼球へと、軽い呼吸の音と共に強烈な吐息が吹きかけられたその直後、悲鳴と共に凛音の体が敷かれた布団の上から陸揚げされた魚の様に飛び跳ねた。
どすんと埃を巻き上げながら布団の上へ落下した凛音は急速に乾燥し激痛を覚える右目を押さえながらそこで新鮮な魚が如く悶え転がる、彼のその傍らではアヒル座りをした事の元凶である少女ルーンがそんな凛音を嬉しそうに見ていた。痛みが和らぎ、しかし固まってぴくんぴくんと震えるようになった凛音の頭に手を伸ばすと優しく撫でながら、こてんと首を傾げたルーンが大丈夫かと尋ねるとその手を取って起き上がった凛音が間近に迫って大丈夫ではないと充血した右目に涙を溜めながら返す。しかしすぐに自らの置かれた状況に違和感を覚えた凛音は周りを見渡して見る。一見すると和室に該当するような部屋の造りだが、各所にそれとは異なる意匠が見て取れる不思議な空間。寝かされていたのは布団であるが、此処はいったい何処なのだろうと凛音は疑問を懐いた。
「リオン、リオン。ね、私……」
「あ、ああ……ルーン、なに?」
すっかり眠気は飛んだものの、現状に理解が及ばずこんがらがる頭をがしがしと掻き毟る凛音の服を摘まんで引っ張ったルーンが何か切実な様子で訴えかけるのを、凛音は不思議がりながら訳を聞こうとした。しかしそれだけでまるで十分だと言いたげな程の満面の笑みを咲かせたルーンは背中の柔らかな白い羽毛に覆われた翼を広げ、それを羽ばたかせながら凛音の首元に腕を回し背中へと回っては抱き着いて伸し掛かったりとじゃれ始める。
結局何だったのだろうとルーンの様子を見て眉を下げた凛音は更なる疑問に苛まれながらも、ひとまず喜んでいるらしいルーンのことはさて置いておき、状況の理解の為布団の上で組んでいた胡坐を崩して立ち上がる。首からぶら下がる形でルーンも起き上がるのだが、彼女はすぐさまその翼を一回羽ばたかせただけでその後羽ばたくことを続けずとも浮遊するような形になり、凛音に負担をかけずくっ付いたままとなる。
そしてルーンを背後にくっ付けたまま、凛音は今いる薄暗い部屋の奥、隙間から明かりを零した襖へと向かって歩き出す。そして手を伸ばせば届くと言うところまで近寄り、閉じた襖を開けるべく指先を掛けると、しかし彼の意思とは関係無く突然目の前の襖が開かれ出現した大きな人影に凛音は目を見張った。
「よおっ、起きたのかい。ははっ、なんだいその頭に乗っかってんのは。まあいい、丁度良かった」
凛音より背は頭一つ二つ高く、体付きは一回り以上大きく、線の太さは凛音が小枝と思えるほど太い。長い焦げ茶色のざんばら髪を前髪も側面も纏めて後頭部でちょんまげに結った巨漢の男、彼こそが凛音を見い出し、ここまで連れて来たガンダーだ。
面識が完全に無いという訳ではない凛音だったが、とは言え初対面は状況が状況だけに良く認識していた訳ではなく記憶は朧気。こうして至近距離で対面すると、ガンダーの巨漢ぶりに彼を見上げる凛音は圧倒されてしまい言葉を失う。そんな彼を見てがははと豪快に笑い声を上げたガンダーは凛音の頭を押さえる様に撫で回し、それによって凛音の緊張が解れたのを悟ると付いて来いと言って二人から踵を返す。
さっさと行ってしまうガンダーの背中。ぐちゃぐちゃになった髪を整えるのも忘れて、凛音と頭の上のルーンはお互い顔を見合わせ首を傾げ合う。そんな事をしていると付いてきていないことに気付いたガンダーから更にお呼びが掛かり、手招きされるがまま、何が何だか分からぬままに小走りして凛音は彼を追い掛けた。
長い廊下、凛音は彼の髪を弄って遊んでいるルーンを連れて、鴬張りと近しき構造のそこをばたばたと足音を立てて走り、ガンダーに追い付こうとする途中、ふと視線を投げた窓から見えた新緑の景色に息を飲む。窓のすぐ外の出っ張りに留まっていた青い鳥が彼の慌ただしい様子に驚いて飛び立ち、天高く伸びた木々の合間を飛んで行き空の色に溶けて行く。並び立つ太く立派な樹木の周りにはやはり和風の家屋がサルノコシカケの様に木の幹に建てられており、同じく螺旋階段の様に巻き付いた回廊では人々が往来をしている。
そんな非現実的な光景を凛音は思わずその場で足踏みして止まり見入ってしまう。そうしていると業を煮やしたらしいガンダーが遂には戻って来て凛音の頭に拳骨を一発見舞う。間抜けた悲鳴を上げた凛音は予期せぬ痛みに涙目になりながら怒った笑顔を作るガンダーを見上げて苦笑い、今度こそ大人しく彼の後に付いて行き、家屋を抜けて屋根と手摺りだけある吹き曝しの回廊を登り、その先にある次なる屋敷へと襖を開いて入室すると、そこには法衣らしき衣服に身を包んだ大人が八人、左右に四人ずつ用意された御座の上に座り並んでいた。その改まった雰囲気に思わず恐縮してしまう凛音の頭をガンダーは再び掻き回し、そして彼が見上げるとガンダーはにっと笑った。
「どうも、遅くなりました。我らが救い主を連れてきましたよ」
「……ご苦労だった、ガンダー。ご苦労ついでに、もう少し近くまで良いかな?」
お安い御用で、そう言ってガンダーは凛音に相槌してから、八人の官僚が並ぶその最奥に鎮座した、尾を揺らす老ヴァンダミンの元へと向かい歩み出す。彼のお陰で恐縮からも解放された凛音はそもそもそんなものと無縁そうなルーンと共にガンダーの隣を一緒に歩いて行く。凛音とルーンを目の当たりにしてざわめき立つ官僚たちを尻目に、程無くしてヴァンダミンの元に到着。彼の指示の下、三人分用意された御座に座るよう促され凛音とルーン、ガンダーは腰を下ろした。尤もルーンは御座には座らずに相変わらず凛音の頭の上に居り、ヴァンダミンの背後から頭上に覗き左右に揺れている尾を一緒になって揺れながら眺めていた。
ヴァンダミンは一度官僚たちに静かにするよう呼びかけた後、その皺の寄った目元にある竜の目で凛音を見詰めた。凛音は思わず軽く頭を下げる仕草をして見せると、ヴァンダミンはそれを必要以上に彼が畏まっているのだと思いよいよいと掌を泳がせ楽にするよう告げた。そこにガンダーがこうも官僚たちに注目されては無理もないと付け足す事で、しかし返って凛音は少し落ち着くことが出来るのだった。
そして話をする準備は出来たとしてヴァンダミンはさてと前置きをした後、凛音とルーンに鋭い爪の生えた人差し指を向けた。
「ほほ……わしの孫と同じくらいかの、道理で可愛いわけだ。そち、名を教えてはもらえんかな」
「え、ええ……と?」
ヴァンダミンの孫の一言に釣られて官僚たちが確かにと挙って笑い始める。一転して謎の和やか宴会ムードとなった空間に再び戸惑う凛音は、そして名を尋ねられどうしてこうなるのだろうかと疑問に思いつつも、自らの名や、これまでの経緯を皆に語って聞かせるのだった。