PART3
――オン……リオン……。
何処からか聞こえる声に、意識が擽られる。しかし今だその意識は浮き上がる事が出来ないでいた。完全な同調が成されるその時まで、少年は眠らなければならない。今はまだその時ではない、早すぎるのだ。
――リオン……オン……。
その声を少年は知っていた。あの時の夢のような出来事が遠い昔の事の様に少年には思えて、何故そんな風に感じるのか不思議で仕方が無かった。けれど、まだ彼の意識は起きようとはしない。そうさせない何かがあった。
我が力をその身に宿せし者よ。汝の心はどれ程耐えられるのだろうか……。
また違う声が少年の中に響く。その声を少年は知らない。しかしまるでその声は溶け込むようにして、少年の感覚と一つになって行った。煮え滾るマグマのように熱く、力強い感覚が少年に広がり、満たして行く。少年は目を開く、それは彼の内側にある目。そこに映るのはあの時の夢のような光景とは程遠い、赤く燃え盛る空と大地。空には火の粉が舞い散り,大地は裂けて溶岩が溢れ出す、まるで地獄の如き光景。そしてそこに唯一匹の竜が存在する、見上げる程に巨大な体躯は頑丈そうな鱗と刺の甲殻に覆われ、その身体を覆い隠さん程に巨大な翼は空を覆った。鋭い牙と逞しく王冠の様に伸びた角、そして煌々と輝く双眼にはしかし何の意志も映らない。それは独りぼっちの竜。その運命にある竜。
気が付くとその竜の前に少年は立っていた、少年は竜を見上げ、そして竜も少年を見下ろしている。少年が瞬きをして前を向くと、そこにはもう竜の姿は無く、代わりに一本の剣が岩肌の大地に突き立っていた。この場所のあらゆるものがその剣から始まりその剣で終わる。この剣こそが少年の今いる場所なのだと彼は直感で悟る。少年は躊躇う。目の前の剣を一度手にすれば、自分は最早何処にも逃れることが出来なくなる様な気がして、どうしても一歩を踏み出し、そして剣を握る為に手を差し伸べることが出来ないでいた。
「リオン」
その声に少年が振り向くと、彼の隣にはあの少女が立っていた。真っ白な、猫のような目を持つ翡翠の髪の少女。彼女は少年、凛音に向けて微笑みかける。そしてそっと、ワンピースの様な服を揺らし真っ白な肌に包まれた華奢な腕を持ち上げて凛音に手を差し伸べる少女。凛音はその手を見て、そして少女を見て同じように微笑み返す。一緒に居ると少女は凛音に形の無い言葉で告げたのだ、それを理解した凛音からは恐怖や不安が姿を消して、この少女の願いを叶えて上げたいと想う。
そして凛音は差し出された少女の手を、あの時とは逆に凛音の方から握り締める。少女はそうして彼の手を握り返し剣の方を向いた。
「君は……ルーンて言うんだ」
良い名前だね。その凛音の言葉にはっとしたように少女が再び彼を見る。少女の名前は”ルーン”、最早誰も知るはずの無いその名前を、少女の目の前に居る少年は呼んだ。僅かに少女の、ルーンの表情が歪み、ぱっちりとした目に浮かぶ瞳が波打つ。そして滲み出た涙を零さない様に堪えながらルーンは凛音が知らない満面の笑みを浮かべ、ぐいと彼の手を引くと剣の元まで彼を連れて行った。そして繋いだ手を離し、凛音とその剣を囲むような位置にルーンは立つとその背中に生えた羽毛の翼を大きく広げる。そして凛音を真っ直ぐに見詰めると彼女は頷いた。
凛音も頷く。自分の知らない世界。自分を知らない世界。そんな場所でも、ルーンは傍に居てくれる。一人ではないのならば、きっとやり遂げられる。やり遂げて見せる。少年のちっぽけな心を勇気が満たした。
彼はその右手を剣へと翳す。熱が、マグマが、炎が、此処を形作るあらゆるものが突き刺さった剣の刃に集まり満ちて行く。同時に凛音の右手の掌を貫通して甲から飛び出した光は、彼の手の両面にその証を刻み付ける。痛みに反射的に目を瞑りそうになる凛音だったが、ルーンからもらった勇気と、自らが絞り出した勇気で以て歯を食いしばり耐える。そして刻印が終わった時、再び凛音の中にルーンとは違う声が響き渡った。
汝の心はどれ程、耐えられるだろうか……。
それは凛音にも、ルーンにもきっと分からないことだろう。けれど凛音はこれからどれ程の困難があろうともルーンと、そして独りだった竜が居れば超えて行けると、根拠のない、しかし確信めいた予感を覚えていたのだった。
凛音は赤く燃える様に輝く剣の柄へとその手を伸ばし、そして確りと握り締める。ルーンもまたその手を剣を握る凛音の手に重ねて両手で包むように握る。直後雄々しい竜の咆哮が響き渡り、凛音は突き刺さったその剣を遂に引き抜いて見せた。世界が回り、崩れ、光に呑まれて行く。そんな中に居て凛音は両脚で確りと立ち剣を握り高々と翳した。
――我が力をその身に宿せし小さき者よ。汝の力に代わり、我が力を振るい見せるが良い。
ルーンの白い翼が自らと、剣を翳す凛音を包み込んだ。あの時と同じ温かな光の中で、凛音は自らの中にルーンが溶けて交わって行くのを感じた。翼が凛音の体へと巻き付き、一つとなって行く。そして同時に握り締めた剣からも、あの竜の鱗や甲殻に似たものが彼の右腕を肩口まで覆って行った。
やがてそれらはぶつかり合い、剣からの力の浸食を遮るようにしてルーンの翼は凛音の右の肩口までで止まり、剣の力もそこで止まった。
「――聖竜、凱装」
閉じた瞼をゆっくりと開いて行く、そして凛音の目に映るのは、強大な土竜との戦いに苦戦を強いられたガンダーたちであった。
「……っしゃあ、行くぜ!!」
世界の一つや二つ、救って見せる。身体の底から湧き上がってくる力を感じ、凛音は今、何を相手にしても負ける気などしていなかった。そしてそれに後押しされることで、目の前に存在する巨大なドラゴンに対しても何の恐怖心を懐くことも無い。まるで竜の腕のように鱗と甲殻に覆われた右手に赤く灼熱の如き輝きを放つ剣を構え、白き凱装を纏った彼は猛然と、目の前の人たちを守るために駆け出した。