恋花の咲き開く時(十五)
稽古を終えて制服に着替えたヨシタカは、朝食もそこそこに、いつもよりも一本早い電車で登校することにした。なんだか不思議な調子だなと、朝からの様子を見て思った。睡眠はわずかに二、三時間が良いところだというのに、まるで疲れている様子がないのだ。
まぁ、今日はこやつが体を動かす番だから、大きくは問題ないかもしれない。もし本気で眠くなったら昼休みにでも寝れば良い、そんなことを考えているうちに駅についた。だが、今日は登校前に一旦病院に行くようにと言われているから、さっさと用事を済ませるよう言った。
その病院へと向かう電車をホームで待っている間、俺は朝方に言い忘れていたことを思い出して話しかけた。
『ところで、ヨシタカよ。うぬは技ができたのに、なぜあの男に見切られたかを教えてやろう』
ついつい声に出して反応しそうになったヨシタカは、言葉にするのを堪えて小さく頷くだけで返した。
『先程言い忘れておったんでな。お前が負けた理由、それは先に教えたのと同じ。裏返しよ。
うぬはあの男に相対した時どうであった? 緊張しておったろう。それも極度なものだ。あれのおかげで、うぬはいらん力みを持って、棒を振りおった。これが見切られた理由ぞ。
本来ならば、あの瞬間こそ力まずに、ただあの者の脇めがけて棒を振るだけで良かったのだ。
ただ手の内で棒を締め、丹力でもって振りの速さを増すことであの者には多分に害を及ぼすことができたろう。それをせず、力んだまま動いたから動く瞬間を見抜かれたというわけだ。
わしらの時代などはもちろんだが、ああいった瞬間を見抜いて動く輩はおるものよ。特に戦慣れ、つまるところ場慣れした相手には多少腕をつけた程度では刃が立たん。ああいう輩にこそ、教えた通りの真髄で持って対応せねば討ち倒すことなど到底叶わんだろう。
だからこそ基本なのだと心得よ。ああいう輩にこそ、単純さ、もっといえば極めたものの応酬にこそ真価を見いだせるものだ。それがない内に下手に技を打ったところで、そんなものは生兵法といって、中途半端なものでは太刀打ちできようはずがない』
「生兵法……」
『そうよ。ともかくヨシタカよ、お前はもっと単純になって今あるものをひたすら磨け。それからだ』
そう言って俺は語りかけるのを止めた。これ以上は今のこやつに話したところで伝わらないだろう。何度も反復させ、身体に染み込ませようとしているとはいえ、まだ様になってきたばかりのこやつでは、全てを理解しろという方が難しいからである。
それにしても、と思った。ヨシタカとこの体を共有するようになってからというもの、早幾月も経ったが、昨日のようなことは初めてであった。俺はつい昨日起きた、打ち上げ会場でのことを思い出していた。
視界が暗転したかのような錯覚を覚えた俺のすぐ側で、野太い男の雄叫び混じりの怒号が響いた。
「おらぁ!」
為す術もなく、髭面の男に引き寄せられた俺は次の瞬間、顔に強い衝撃を受けていた。厠から取ってきた棒を掴まれたまま引き寄せられた身体は、男からの反撃をそのまま顔に受けたのだ。
「ぐっ!」
流石に意識が交代した瞬間とあっては、こちらも身動きが取れなかった。おまけに狙われたのが顔面とあって、打ち付けられた痛みは腕や足の比ではない。それでも意識は弛めず、俺は痛みと衝撃に耐えながら棒だけは手放さなかった。
男は反撃を加えたところで、投げるように棒から手を放した。おかげで、一瞬意識が遠のいた俺には絶好機となった。
「……未熟者め」
ふらつく足元に活を入れるように気力を振り絞りながら、相手との距離を保つべく三歩ほど離れる。顔、頬の辺りがじんじんと痛むが、幸い奥歯がガタついているわけではなかった。
「ああっ? てめぇ……ふざけてんのか」
これが戦場なら相手の急所を狙うのが定石である。にも関わらず、この小童はわざわざ自分からその絶対的な好機を捨て、相手を逃したのである。これを未熟と言わずしてなんと呼ぶのか。
「いいや、ふざけてなどおらん。事実を言ったまで」
「そうかい。その未熟者に一発入れられてそんな口聞けるなんて、どの口が言ってんだ」
「……まぁ否定はせん。だが、わしなら今の瞬間に止めを刺したがな」
ニヤリ、口元を吊り上げて不敵に笑った。俺は、ヨシタカに教えたように棒を構え直した。相手との距離は凡そ七尺か七尺半程度。一歩でも近づけば、次の瞬間にはこちらの間合いになる。
「てめぇ、まだやる気か」
「自分が折れておらんのに立ち会いから逃げるような輩はおらんぞ。御託はいいから、さっさとかかってこい。次は先程のようにはいかんぞ」
挑発されて、髭面の男は怒気に感情を沈み込ませながら一歩、右足を踏み出した。最初の一撃でこちらの実力を図ったつもりかもしれないが、それは大きな誤算である。意識と経験、気の持ちようで戦略は極端に変わることがある。それをこの若造に教えてやろう。
さらにもう一歩近づこうと左足を踏み出そうとした瞬間、俺は構えた棒を相手の顔面めがけて撃ち込む。それを読んでいた男が手で防ごうとしたが、次の瞬間には棒は男の視界から消えて柄本が男の下半身辺りに半転しており、その柄本を使って足を掬い上げた。
完全に意表を突かれた男は、足を掬われて尻もちをつく。その足にさらに半転させた柄の頭でもって打ち付ける。剣の要領で思い切り脛に打ち付けられた男は、低い呻き声を上げた。
今度は棒を使わず、足で股間を小突いてやると鋭い悲鳴が店の中に響いた。それを無視するように、二歩で二人目との間合いを詰めると、柄の先で人中(=顔にある急所の一つ)を丹田でもって突きあげた。
「ぎゃっ」
今の衝撃で男の歯が折れ、衝撃で頭蓋骨にもヒビが入ったに違いない。人中を突かれると、鼻の奥に出血し溜まり続けるため、これで男は呼吸困難になる。
さらに、目の前の男が影になっていたため、状況を把握しきれていなかった三人目の下腹に、柄本で持って胴当てにすると、その衝撃で三人目が横に吹っ飛ぶ。
そこですかさず四人目に対して柄を滑らせながら瞬時に陰の構えを取ると、瞬間タイミングを外されて状態をわずかにぐらつかせた四人目の肩に、上段からの一撃を撃ち込んだ。その衝撃は相当なもので、男の肩骨に当ると柄は折れて先がどこかへ吹っ飛んだ。
しかし、四人目もただでは済むはずがなく、当たった瞬間の感触ならば骨が砕かれて、腕を動かすのはもちろん、移動する時にも歩いた際に地面から伝わる反動で激痛が走るのは目に見えている。
最後はに残ったのは五人組の中で最も大柄の男で、実に背の丈六尺半にはなろうかとい巨漢であった。五人がこんなにまで幅を利かせていられたのも、ひとえにあの髭面とこの巨漢によるところが大きい。
巨漢は怒り狂ったように硬く握った拳を俺めがけて振り下ろそうとした。しかし、大きく反動をつける動きは、ただの力任せによる動きで、俺はその腕が振り下ろされようとする瞬間を待った。
大男は俺が続けざまに攻撃したため、体力が切れたと勘違いしたかもしれない。勧の目付けを維持していた俺に振り下ろされた腕が目前に迫った時、半身にて躱すと同時にその腕を掴むことなく掴み、そのまま相手へと力を返した。
途端に、大男はその勢いを返されて自分から勝手に横へと転がった。その転がった勢いで、六人がけの相席になったテーブルに自ら突っ込んだ。勢いが有り余って受け身すら取れなかったらしい。
しかし大男の体力では、あれくらい箚したる問題には及ばない。大男というのは、その体躯というだけでも並外れた体力としぶとさを兼ね備えていることを、俺は知っているからだ。だからこそ俺はすぐさま、まだよろめいて姿勢すら取れずにいる大男の懐に飛び込み、掌底でもって男の顎を持ち上げるように思い切り突き上げた。
顎への衝撃というのは、考えられている以上に大きいもので、ここの衝撃が元で下手をすれば脛骨にすら影響が出かねない、急所の一つである。しかし、明らかにヨシタカと男とでは、一尺近い背の丈に恰幅違いもあって、遠慮しているわけにもいかない。
思い切り顔を突き上げられて、大男はぴくぴくとこめかみを震わせていた。じろりと見下した俺に、一歩踏み出そうとしたが自重を支えきることができずに、そのまま前のめりに倒れ込んできた。
俺は倒れ込んでくる巨体を避けながら首根っこを掴み、度重なる顔への衝撃を和らげてやる。四肢が完全に緩み、気を失ったことが明白だった。
残心を保ったまま、五人組が倒れているのを見届けると、今度はクラスの男児たちから喝采が起こった。まさか、ヨシタカがこんなことをできるとは誰も思いもしなかったのだろう。
背に向けられた視線を感じて、その主に向き直る。悠里が信じられないといった表情と共に、心配げな目でこちらを見つめていた。そんな悠里につい笑みを浮かべてしまったのを最後に、俺の意識もまたそこでぷっつりと途絶えてしまった。
これまで、自分の意識が不意に途切れるなどあり得なかった。少なくともヨシタカの身体に居座ってからというもの、あの程度のことで自分の意識が切れるなど、以前の自分を鑑みても経験したことがなかった。
結局目を覚ましたのが、ヨシタカの覚醒と同時であったわけだから、その間何が起きていたのか、俺にはさっぱりだった。ヨシタカのやつは、帰宅してからというもの、しきりに自分と交代してから病院までどうだったかを聞いてきたが、分からないものは分からんと、にべもなく言った。
俺の返答に不満そうにしていたヨシタカだが、こちらが強くそういったためか、それ以上はもう聞き返すこともなく黙り込んだのが昨夜、就寝前のことだった。
そんなこんなとしている内に、病院での簡単な検査も終えて、俺たち二人は学校へと向っている最中だった。不意にヨシタカが口を開いた。
「あれ?」
『どうした』
「あ、いえ、あそこにいるのって」
『おお、悠里だな』
学校最寄りの駅を降りて、敷地へと続く九十九折を登った先に、落ち着かない様子でいる悠里の姿があった。ヨシタカもそうだが、この娘っ子もなんだか忙しなげに動くことがあって、見ていて面白い。
「おはよう瀬名川」
「あ、竹之内。来た、んだ」
「うん。病院に行ってから本当に身体に問題ないかちょっと検査しにね」
「そうなの? 結果は?」
ヨシタカの身を案じていたのか、悠里は焦ったように問いかけた。もちろん、一発もらった顔以外におかしい箇所はなく、ヨシタカも、大丈夫だよ、と短く返した。
「そっか……昨日の今日だから、もしかして来れないんじゃないかと思って」
「ごめん。でも、大丈夫だから」
「別に謝らなくたっていいよ。竹之内、悪いことしてないし」
「え? あ、そうだったね、ごめん」
「ほら、また」
「あ! いや、ご、ごめ……ははは」
指摘されことにヨシタカは苦し紛れに愛想笑いを浮かべた。悠里はその様を、呆れたように腕を組んでため息をついている。全く、この愚鈍ぶりには俺も舌を巻くというもので、悠里の気持ちがよく分かる。
「それで、どうしたのこんなところで」
「え? いや、別に用事っていうようなのはないんだけど、た、たまたまよ」
「そっか……ありがとね、瀬名川」
「何、突然」
「ううん、なんでもないよ。じゃあ、僕は一度職員室に行くから、また後で」
「うん。それじゃあね」
そういってヨシタカと悠里は一旦その場で別れ、ヨシタカは職員室へと向った。俺は後ろ髪引かれるような気持ちで、ヨシタカに言った。
『ヨシタカよ』
「はい」
『悠里のやつ、こっちを見とるんじゃないのか』
「え?」
そういって後ろを振り返ったヨシタカの視界に、こちらを見つめていた悠里の姿が入った。娘は突然振り向いたヨシタカに驚くように、その場を取り繕うようにスマホとやらを取り出して、いじってみせた。
「えと……」
ヨシタカもヨシタカで、うまい言葉がないらしい。しかし、急激に体温が上がっているらしいことはすぐに分かった。再び職員室に向かうその足取りが、やけに早かった。
『全く……』
苦笑紛れに一人ごちた。互いに見つめ合ったその視線に、二人がどう感じたのか、もうみなまで言わずとも良いだろう。女の態度に、それを受け止める男の態度。そうそう別の感情があるとは思えない。
俺は、飛び立とうとしている雛鳥を見ているような心境で、半ば走るように廊下を行くヨシタカの様子に、つい綻んでしまった。




