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恋花の咲き開く時(十四)


 眠れぬ夜を過ごした善貴はまだ日も昇りきらぬ早朝に、寝ていたベッドから起き上がって手早く着替えを済ますと、静かに廊下へ出た。そのまま階段を降りて玄関まで降りると、鍛錬のための道具を手に靴を履いた。

 家の中は完全に寝静まり返っており、当然まだ寝ているであろう両親が起きてくるような気配はまるで感じられない。善貴は黙って玄関を出て庭へと回る。周囲の家々にも、まだ殆どと言って良いほど、生活音が聞こえずに、まるで自分以外の何者もいなくなってしまったかのように錯覚してしまう気分だった。

 けれどそうはさせないのは、一日の始まりを告げる鳥たちの啼く声があるからだろう。そんな中を善貴は、いつものように始める前に丹田で持って呼吸を整える。まだ薄暗いというには暗すぎる中、善貴のかすかな呼吸音だけがしていた。

「……さむ」

 ぶるり――呼吸で身体を整えると、感じた寒さに善貴は思わず口に出していた。早朝のこの時間帯、すでに十月も半ばに差し掛かり、Tシャツ一枚では肌寒い季節へと移行しているのでそれも仕方ない。

 善貴はベランダに置いた木刀を手に、軽く振ってみた。フォン、という風切り音を耳に、いつもの場所に立って正眼に構える。しばしの間、そのままじっと動かずにぼんやりとした目付けで切っ先の向こうを見つめた。

 すると、透明な影が薄ぼんやりと現れ出した。自分よりも一回り以上も大きな透明な影――それは昨日、相対したあの髭面の男の幻影だ。

 その幻影がふっと動き、自分に向ってその腕を伸ばす。善貴はその動きを避けるように木刀を振りかぶりながら半身となり、迫る影の腕めがけて振り下ろした。

 その影が一瞬怯む。それを逃さずに善貴は左足を踏み込んで影の肩にすかさず撃ち込んだ。それを皮切りに影の首、逆袈裟からの脇、腹、足の内へと、立て続けに木刀を撃ち込む。

 影の動きが止まる。その瞬間に、今度は思い切り頭上からの打下しにて影を斬った。けれど影はその善貴の打ち下しから逃れ、一歩後ろに下がった。善貴も逃さずにそれを追った。

 一歩足りなければ、それを補うべく切っ先を真っ直ぐに突き、鳩尾を狙う。しかし、やはりその切っ先は薄皮一枚のところで敵を貫くことなく、影は瞬く間に右に左にと下がっていき、善貴との間を取った。

 善貴はだんだんとその影の動きが煩わしくなり、雄叫びを上げながらがむしゃらに打ち込んでいった。もはやその動きは練り込むための鋭い一閃ではなく、刃筋が通ることもない力任せのがむしゃらな動きだった。

 そこには気剣体一致など全く感じさせないもので、体力の続く限り、ひたすらに木刀を振るためだけの動きだった。横に前に後ろに、あるいは上か下かと、善貴の動きはバラバラであった。

『そんな剣では、あの者は打ちとれんぞ』

 突然善貴の中でした声に、彼は思わずビクンと身体を震わせてその動きを止める。

『どうした、こんな夜も明けやまぬうちから珍しいではないか』

 動きを止めると、激しくなっていた呼吸と動悸が一気に身体を襲った。まるでスタートダッシュから全力疾走したまま何百メートルも走った時のような苦しさだ。完全に肩で呼吸しているのが善貴自身にも分かった。

「いえ……なんだか眠れなくて」

 ようやく口から呼吸以外の声が出たものの、全てを言い切る前に口をつぐむ。それを言うだけで精一杯なのだ。

『ふむ。よほどあの者に業が通じなかったのが悔しいと見える』

「悔しいなんて……」

 そう指摘されて善貴は、思わず自己弁護するも、それはすぐに遮られる。

『馬鹿もん。だからこうしてこんな朝早くから稽古しとるんだろう。頭ではそう思っておっても、感情とは中々相容れぬものよ』

 図星だった。口惜しいが、その通りだった。まだ夜明け前からこうして木刀を振るなど、もしかしたら自分と奇妙な共同生活をするようになってからは、これが初めてのことであった。

「昨日……先生から教わった技で対抗しようとしたのに、あの男に全く刃が立たなかったことが悔しいんです」

 善貴はぽつりと吐露した。今まであまり人に本音を口にするような事はなかったように思う。それが今日はどういうわけか、心の内を吐き出したい気分だった。

「先生は、技術的にはもうなんとかできるようになったと言ってましたけど、全然駄目だった……それが悔しいです」

 膿を出しきるように、胸の内を打ち明けた両者に静かな時が流れる。善貴が再び動こうとすると、左の手足が上手く動かなくなった。変だと思った瞬間、手に持った木刀を上段に構えさせた。

『お前は兵法のことを分かっとらん。もう一度、基礎からやれ。振りはこうだ』

 そういって、善貴は慌てたように右手を木刀に添える。次の瞬間、上段に構えた木刀が力なく、それでいて早く振り下ろされた。その振りは善貴が行うものよりも確かに速く感じられた。

『どうだ。お前の振りとは比べ物にならんほど速いだろう。お前は振る時に力を一瞬入れてしまうから、その瞬間に振りが遅くなる。振りというのは、どこまでも同じ速さを保ったまま振るものよ。構えた瞬間、振り下ろした先まで、全てが同じでなくてはならん。

 速く振ろうとして一瞬でも力めば、その瞬間振りは遅くなるのだ。振った時は、刀を小指と無名指むめいし(=薬指のこと)で止めるのみ。後はいらん。刀を振る前に力むと、肩に力が入る。すると、その瞬間を狙う者もおるのだ。これが昨日の、お前の敗因よ』

「肩に力が……?」

『そうだ。丁度良いから、あの窓の方を向いて振ってみろ。何も考えず思い切り力の限りでな』

 改めて言われると、善貴はなんだかおかしな気分でリビングと接する大間口の窓の方を向いて上段に構える。薄っすらと東の空が明るんできているため、窓には自分の影も写り込んでいた。

 一度深呼吸した瞬間、善貴は木刀を思い切り力を入れて振った。空を切る音が耳障りなくらいに、木刀は豪快な音を立てながら足元近くにまで切っ先が落ちた。

『そこで待て』

「え? このまま、ですか」

『そうだ。窓を見てみろ。肩がいかっとるだろう』

 そう言われて窓に目をやると、確かに身体が前傾になり、大きく肩をいからせた自分の姿があった。切っ先は地面に近すぎて、ともすれば叩いてしまいそうになるくらいなほどになっていた。

『力を入れるとそういう姿勢ができる。なぜそんな姿勢になると思う』

「……肩に、腕に力が入りすぎている、ということですよね?」

『間違いではない。だが、正確ではない。根本は(こんぽん)、上体にだけ力が入って、下半身には全く力が入っとらんからよ。下半身に、即ち丹に気を注ぎ、力を与えてやらねば体のわずかな部分にある力にだけ頼る。だからそうなるのだ。

 全身から力を抜け。体はそのまま動くのみ。力は全て丹から発するものだ。力を抜けば、丹力が全身に巡る。その時初めて大いに技に力を生み出すのだ。力を入れれば、その丹力も伝わらん。刀を振る時も同じ。ただ柄を握っておくだけ。力などいらん。必要最低限、支える分だけで良いのだ。

 その時にこそ、丹力を用いた速く鋭い、そしてもっとも強力な斬撃を生み出せる。刀は円の力を用いて斬るが、円の動きを最大限に引き出すには左手を使って引いて斬るからだ。それをお前は、右手の、それも右手の力だけに頼ったから動きが読まれ、力のない、遅い振りで対応した。なのに、お前は歯が立たんなどというわけよ。

 お前には、力のない状態から生み出される丹力が如何なるものかを分かっとらん。それは刀も棒も同じ。力みを捨てろ。力むと力んだ場所から動くのが良く分かるものだ。もう一度力いっぱい振ってみろ。その際に、自分の状態がどうなるかもな』

 善貴は、再び上段に構えた木刀を思い切り振った。その瞬間、肩は大きく強張り、上体が後ろに、かすかにだが確かに仰け反った。振り下ろすと、仰け反った上体は前方へと下がり、肩はまだ強張りを残したまま腕が伸び切っていた。もちろん、風を切る豪快な音も先程と同じだった。

『では、姿勢を正して力なく、ただ刀を落とせ』

 また上段に構えた木刀から、力を抜いた。最低限、支える分だけ。そう念じながら構えた木刀は、頭上にあるというのに先程まで違ってえらく軽く感じられた。

「力なく落として止めるだけ」

 言葉にしながら振り落とした木刀は、前方へと鋭い楕円を描きながら落ちていった。全く力みなく振り落としただけあって、小指と無名指だけで振り落ちた木刀の動きを止めることができた。

「あ」

 あまりに難なくできてしまったせいだろう、善貴の口から間抜けな声が出た。

『その振りが基本だ。良いかヨシタカよ。基本というのを疎かにするな。その一振りの中に、武の極意、即ち兵法の極意が散りばめられておるのだ。力みを無くすこと。その状態で動くこと。その感覚を身につけること。そこから生み出される丹力とは即ち如何なるものか。目付け、気配……それらですらも、その一振りの中に集約することもできようぞ。

 それさえできれば、力みの瞬間、その動きや気配を察知し、様々に応用できるというもの。さすれば、自然と円の動きもできるのだ。考えなくてはならんが、考えすぎるな。それもまた極意よ』

「なんだか……分かったような分からなかったような……」

『ふん。そう簡単に真髄を理解できるようにはならん。頭だけで理解できていても駄目だ。真髄とは、その理解を骨の髄にまで染み渡らせてこそ意味のあるものだ。だからこそ、体を使わなくてはならんのだ。わしの時代にも頭だけで理解したつもりでおる者もおったが、体がついていかぬでは結局は元の木阿弥。意味などあるまいよ。よってヨシタカよ、お前はこれから毎日力を抜いた振りを千本やれ。その後、力みとの差を知るがいい』

 そう言われると、以前までの僕なら嫌がろうというものだったけれど、不思議と今はそれを素直にやろうという気になった。早速、力を抜いた状態のままで木刀を何度も振った。思いの外時間はかかるかと思われたが、夜も明けて街も賑やかしくなる頃にはそれも終えた。

 これまで千回も素振りをしていたら随分と息が上がっていたように思うのだけれど、言われた通りにすると、案外疲れが残っていないように感じられた。運動していた以上、肩に緊張があるけれど、これまでのような疲労感はほとんどなかったのだ。

『良し。では、今度は早く落としてみろ。力むなよ』

「はい」

 僕は構えた木刀を、素早く落とし込んだ。すると、木刀は以前と違って大きく音をさせることなく落ちた。しかも、軽くて速い。ただ使ったのは小指と無名指で握るという一点のみであるのに、木刀はこれまでよりも明らかに鋭さを増していた。

「あれ? 今の」

『それが振りの極意だ。力みなく、ただ速く落とすだけで振りは早くなるのだ。お前が素振りで大きく息をしてしまうのは、それだけ無駄な力が入っていたために過ぎん。その状態で何百も何千も振ってみろ。そのうちに関節など腕や肩の節々に痛みが出るようになる。

 お前は力がないからと、あまり速く振ったような気にはならんだろうが、実際にはそれだけで刀の振りの到達が早くなるものよ。つまり余分がないだけ、素早く次の行動に移れるというわけだな。

 力を抜いて落とす。その際に、小指と無名指を使うだけでさらに刀の速度は増す。力を抜くこと、小指と無名指を使って握ること、無駄な動きをしないこと。この三つを同時に行いて、そこに丹力を加えることで刀は三倍にも速く振れる。だが、それを完全におのがものとするには、幾千日の修行が必要なのだ。

 たかが振りなれど、されど振りぞ。この振り一つの中に、数々の極意に通ずるものがあるのだ。決して甘くみてはならんぞ。何度も言うが、初めから達人になどなれるものなら誰も修行などせん。よくよく肝に銘じておけ』 

 僕は言われたことをなんども頭で反芻させながら、再び木刀を構えて振った。なんだか今日は気分が良かった。いつまでもこうしていれる、いつまでもこうしていたい、そんな気分だった。

 その内に父が起きてきて、そろそろ時刻は六時半を過ぎた頃であることを告げた。





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