恋花の咲き開く時(十三)
ふっと凪いだ風に、頬を撫でられて意識を取り戻した僕の目に、見知らぬ天井が映った。けれど、どことなく見覚えのあるような白い天井だ。
どこからか聞こえるざわめきと鼻をつくアルコール臭に、僕はのろのろと首を横にした。遠くから照らされた明りを反射するビニールの床が、少なくとも僕のよく知る場所でないことを教えている。
『ここは病院ぞ』
「病院?」
意識が覚めたのと同時に、僕の中に響く声。その声は実に冷静沈着で、事の成り行きを見知った者の言い方だった。その声に僕は起き上がる。
「竹之内!」
思わず自分の名を呼ばれて、僕はその方を向いた。そこには、心配そうに僕を見つめている瀬名川の姿があった。
「良かった……どうなるかと思ったよ」
「瀬名川……? どうしたの、なんでこんなとこに……?」
ウェイトレス姿のままでいる瀬名川に尋ねた。なんだか意識がはっきりしない僕の言葉は、どこか場違いにも思った。
「っていうか、僕は一体なんでこんなとこにいるんだ?」
「大丈夫? 何にも覚えてない?」
側に寄ってきた瀬名川が、やや困惑げな表情で僕の頭や腕に触れて、何事もないかを確かめる。今まで見せたことのない表情をする彼女と、その彼女の甘い匂いに、自分の置かれた状況など頭の片隅から消し飛んでしまった。
「せ、瀬名川……」
「あ、ごめん。やっぱり痛かった?」
「い、いや……って、どこか痛い?」
変な質問だと思って、質問を返した。すると、瀬名川に代わって頭の中で先生が言った。
『お前の顔についとるものを触ってみろ』
思わず顔に手をやると、そこで初めて僕は自分の身にとんでもないことになっているらしいことを自覚した。触れた頬に、ガーゼとそれを保護するためのテープが貼り付けられていたのだ。
「ごめん。一番、痛そうなとこだったのに……」
「あ、いや、大丈夫だよ、うん。いつつっ」
意識した途端、それまで感じていなかったことが嘘みたいに、頬に痛みを感じた。一体全体どうしたってこんなことになっているのか、曖昧になっているらしい僕を見かねた瀬名川は、その一部始終を語った。それに追従し、僕もようやく自分の記憶を呼び起こすことができた。
「そうだった。あの五人組に絡まれて……」
構えたデッキブラシを武器代わりに、リーダー格らしい男に向っていったところを防がれた後、突然意識を交代させられたのではなかったか。そうだ、先生に突然意識を入れ替わられて、そこから僕の意識がなくなったのだ。
意識が無くなっている以上、そこから先の記憶はないのは当然だ。意識がないのでは記憶の共有はできないのだ。それが便利でもあり不便でもあるのだけど、意識を交代した先生があの場を収めたということだろうか。
「前もそうだったけど、竹之内ってすごく強いんだね。クラスの男子も皆驚いてたよ」
「え?」
「デッキブラシなんて持ってきてるのはビックリしたけど……」
思い出し笑いではにかむ瀬名川の表情は柔らかく、そのためか、いつもはもっと探るような硬い口調であるのに対し、今日はえらく和らいでいるように見える。
「でも、すごいよね。まさか、自分よりも大きい人投げちゃうなんてさ。前、お家行った時にやってたのって、そういうことやってたからなんだね」
自分の記憶にない自分の行動を意図せず説明する瀬名川に、僕は狼狽した。彼女にその気がなくても、自分の知らないところで本来の自分とは違う評価がされるというのは、あまり良い気がしない。
「だけど、本当に見違えるよ。竹之内ってああいうの、あんま関わりたく無さそうなのに」
「あまり関わりたくないよ。だけど、あの時はなんていうか、必死だったから」
「そうなの? 必死の割には結構挑発的に見えたけど……」
気のせいだよ、と言いかけて善貴は言葉を飲み込んだ。確かにあの場で自分が必死だったのは間違いないけれど、どうも彼女のいう挑発的だったという場面と、自分の意識があった時との場面が食い違っているように思われたのだ。
これ以上は、その時のことを覚えていない自分が必要以上に喋るわけにいかない。善貴はそう考えて、小さく頭を振って強引に話題を変えた。
「そ、それよりもさ、なんで僕こんなとこにいるの?」
「竹之内、あの五人を追っ払った後、突然倒れちゃったんだよ。皆びっくりしてたけど、突然倒れたからこの病院に運ばれたんだよ。ここ、前にも入院してたとこだよ」
「あ、そうだ。なんとなく見覚えがあるような気がしたのは、そのせいだったのかな」
「多分」
道理で見覚えがあるはずだ。ここは前にも一度入院した病院の一室だったのだ。突然倒れたというのは少しばかし気にかかるが、多分、意識がなくないまま先生が引っ込んだせいかもしれない。
二人分の意識が共有されている身体から、両方の意識が引っ込めば、当然ながら身体はその自重を支えることなどできないから倒れたのだろう。けれど、なぜ意識の入れ替わった先生がそんなことをしたのか、という疑問がなくはないのだがこれについては後々聞けば良いだけのことなので、今は置いておくことにした。
他愛もな会話を続けていた僕らに、突然沈黙が降りた。この手の沈黙というのは、苦手でならない。何を話せば良いのか、どう切り出すべきなのか、そんなことを考えてしまって窮屈な気分になる。
そういえば今は夜の何時頃だろう。僕は所在なさげに病室をざっと見回したが、時刻を告げるような時計などの存在が見当たらない。
病室の窓から見える景色は黒一色で、そこに白を中心に青、時折ピンクや緑といった信号やネオンの明りらしい色が所狭しと点在しているのが見える。それが少なくとも今が夜であることを告げていた。
桜花祭が終わり、クラス全員参加の打ち上げ会場のファミレスに入ったのが一七時頃だったはずだから、それから三〇分とせずにあんなことが起こったと考えると、現時刻は一九時か一九時半といったところだろうか。
「あ、時計?」
「うん。今何時?」
時計がないことを察した瀬名川が、持っていたスマホを取り出して起動画面を表示させると、二一時近くになっていることが表示されていた。思わず、口に出してしまった僕に、瀬名川はいたく冷静に頷いた。
「三時間くらい寝てたんだ……」
「そうだね。お母さんもさっき来てたよ」
「お母さんが?」
「うん。ちょっと先生の話を聞きに行ってるとこ。私はついさっき来たところなんだけど」
「そっか……何もなければ良いんだけど」
「うん」
再び降りる沈黙。この微妙な間と空気感が嫌な僕は、先程から気になっていたことを聞いた。
「瀬名川。それ、着替えないの?」
「ああ、これ? なんだか、そんな気分じゃなくて……」
「気分でウェイトレス姿になってるのも、なんだかおかしいけど」
「う、うるさい!」
「瀬名川、声」
突然大声になった彼女をたしなめて言うと、瀬名川は恥ずかしさを覚えたのか、しゅん、と恥ずかしそうに縮こまり、今度は打って変わって小声になった。
「ひ、人の勝手でしょ」
「まぁそうなんだけど」
なんだ、昼間はミーコさんに見られるのが嫌だとかなんとか言っていたくせに、本当はこういうの着るの好きなんだな、瀬名川は。お気に入りの服を昨日と今日しか着る機会がないというのなら、ここはこのまま着ていたいという彼女の気持ちを尊重しておくべきだろう。
再び会話が止まる。瀬名川との会話をもっと楽しみたいという自分がいるのに、そう考えると何故か話題が見つからない。なんというか、ぎこちなくなってしまう。僕は何かないかと思案していると、今度は彼女から口を開いた。
「あのさ……」
「うん?」
「その……ありがと」
唐突に感謝の言葉を言われて、僕は思わず考える。何を突然言うのか、あまりに意表を突く台詞だったのだ。
「えっと……何が?」
「だから! あたしのこと、その、助けてくれたでしょ」
勢いが良かったのは最初だけで、後の方は、再び小声になっていた。恥ずかしげにうつむく彼女の表情に、僕は思わず見惚れていた。こんな表情をするなんて、本当思いもよらなかったのだから。
「金森さん、大丈夫だった?」
「由美? ああ、由美は大丈夫。驚いてたけど」
「そっか」
思えば、金森由美を巡ってあの五人と瀬名川が衝突していたので、僕が心配するようなところではないのだけど、なんとなく気になって口にしていた。瀬名川によれば、あの五人は金森のバイト先の先輩のその先輩たちなのだという。
「由美って、結構向こう見ずなところあるから、変なのに絡まれそうになるから止めろって言っても聞かないんだ」
「金森さん、なんかトラブルがあったの?」
「うん。私も詳しくは知らないけど、バイト先の先輩からの紹介だったらしいけど、なんか強引に付き合わされそうになったのを断ったみたいなんだよね。だから、多分……」
「なるほど、そんなわけが……」
『ふん。いつの世も、ああいった妙な所でメンツにこだわる輩というのはいるものよの。由美っ娘もさぞ苦労することだろう』
頭の中に響く声に、僕は頷いた。本当にその通りだと思う。恥をかかされたとかなんとか言っていたから、余計に腹が立っていたのだろう。
「でも、まぁ良かったよ、二人共無事で」
「……良くないよ」
「え?」
僕はそれを聞き返そうとすると、瀬名川は席を立ち上がって持ってきていた荷物を手にする。
「ごめん、なんでもない。それじゃそろそろ帰らないとお姉ちゃんに怒られるから帰る。さっき先生も来てたみたいだから、学校行ったらまず先生のとこ行きなよ」
瀬名川は早口にそう言うと、別れの挨拶もせずにパタパタと病室を足早に退室していった。あまりに早い退出に僕は、それを黙って見送ることしかできず、ドアの向こうに消えていった瀬名川の後ろ姿の残像を追って、また明日、というのが精一杯であった。
瀬名川が病室を出て、わずか三〇秒としなかったろう、病室のドアが開かれて母がかつても世話になった川原医師を伴って入ってきた。ほとんど入れ違いといっていいタイミングであった。
「善貴、目が覚めたのね。良かった」
「ああ、うん。なんか大変なことになっちゃったみたいで……」
「それは聞いてるけど、何してるのよ、もう」
母親のお小言に、僕はうんざりしながら、それについてはごもっともなことで平謝りするしかないだろう。けれど、その前にそれは聞いているとは一体誰に聞いたのか、それが気になって口を開こうとした善貴に、間入れず川原が切り出した。
「気分の方はどうかな、善貴くん」
「あ、はい。特に悪くはない、と思います。顔以外は」
「うむ。以前と違ってだいぶ記憶の方の混乱も収まっているようだね。前は何を勘違いしていたのか、君は自分を自ら武士だと吹聴していたようだから」
「ああ……はい」
それについては色々と、現在進行形で言いたいことが山とあるのだが、善貴はそれをこらえて気のない返事をした。それを口にしたところで、この現状を解決できる気がまるでしないのだ。
「それよりもあんた、一体どうしたの? 学校から連絡があった時はほんとに心配したのよ?」
「あ、ああ、ごめん。打ち上げの時に、変なのに絡まれちゃってさ」
一体全体、意識が代わってからのことは分からないので、僕は適当にお茶を濁しながら頷いた。どうやら、先の説明では僕が例の五人組を相手取って大立ち回りをしたところを、クラスの男子が彼らをとっちめようとしたらしい。
そこで僕が気を失ったので、騒ぎはそれどころじゃなくなったのだという。それからというもの、学校に連絡がいくわ、警察にも連絡がいくわ、救急にも連絡がいくわと大変だったそうだ。
そのおかげか、五人は慌ててその場を立ち去ることになったそうだが、店内の防犯カメラにもその様子が映っているだろうから、近く五人を捜索することになるであろうことを警察から告げられたのだという。
「というわけで、今日は帰ってもらって構わないが、明日、一応検査をすることになるから、また病院の方に来てほしい。大丈夫とは思うが、そっちの方もそのときにもう一度見ておこう」
そう言って、川原医師は僕の頬を指差した。
「君については以前のこともあるから、学校の方にはこちらからも説明しておこう。君は今大切な時期だから、その方が学校側も納得してくれるだろう。だが、顔の方は殴られた後ということもあるから、そこから脳の方に影響が出ないとは限らないからね」
川原医師の説明を受けながら、僕はベッドから這い出て他にも身体に不調がないかを確かめた。幸いにして、顔以外に特に痛みらしいものも感じないので、僕は頷いた。
「わかりました。では午前中に伺います」
「うむ。そうしてくれ。では今日はもう帰ってもらっても構わないよ。では竹之内さん、そういうことですので」
「本当にありがとうございます。明日もよろしくお願い致します」
母が丁寧に頭を下げ、川原は病室を出ていった。それを横目に母はため息混じりに僕の荷物を持って帰るよう促した。僕は何か言いたげな母親に黙って従う以外になく、無言のまま病室を出る。
「ああ、そういえば」
廊下を歩いていると、思い出したように母親が言った。
「さっき女の子がお見舞に来てたわよ」
「ああ、瀬名川?」
「そうそう瀬名川さん。あんたがここに運ばれてから、ずっとついてたみたいだから、会ったらきちんとお礼言っときなさいよ」
「ずっとついてたって、瀬名川が? さっき来たんじゃないの?」
「よく知らないけど、少なくとも私が来た時にはもういたわよ。もう一時間以上前にはなるはずだけど」
母が一時間以上前に来たとすると、瀬名川はもっと前からいたということになる。つまり、瀬名川はそれからずっと側にいたということだろうか。一度学校に戻っていたんじゃないのか……。
『悠里のやつ、お前がここに運ばれてから、ずっとついておったようだな』
「……そう、みたいですね」
「何?」
思わず出た言葉に、母親が問いかけた。僕は慌てて、なんでもないと返し、そのまま無言を貫いた。貫くしかできなかったのだけれど、瀬名川はついさっき言っていたのに食い違いがある。
もしかして今だウェイトレス姿だったのも、僕が運ばれてからというもの、ずっと側にいた、ということなのか。僕はなんだか無性にそれを確かめたくなって仕方なくなった。
「ごめん、お母さん。先言ってて。ちょっと先生のところ行ってから行く」
「え? ちょっと」
言うが早いか、僕は川原医師を追って彼の去っていった方へと向った。そのまま先程までいた病室の前をと通り過ぎて、僕らとは反対方向へと歩いていった川原を探した。
幸い、廊下を突き当たったところで階段を登ろうとしているところだった川原医師を掴まえることができた。
「先生」
「ん? 何かな」
「あの、僕が眠っている間、側に誰か、いましたか?」
「ああ、あの女の子のことかな? 君が運ばれてからずっといたよ。お母さんが来られた時も、話をするからと病室を空けていた時もわざわざついてくれてたようだ。さっきも帰り際に会ったよ」
帰り際というのは、瀬名川が病室を出てほとんど入れ違いで母と先生が入ってきた時だろう。となると彼女が出た際には、ちょっとした立ち話の一つくらいあったかもしれない。
「そうですか。ありがとうございます。また明日来ます」
「ああ、おやすみ」
そういって特に気にする様子もない川原と別れた善貴は、母の待つ駐車場へと向った。しかし、駐車場へと向かう足取りはいつもより幾分早く、軽やかだった。母を待たせているということもあるけれど、それ以上に沸き立つような高揚感のほうが強かった。
そんな様子の僕に、先生もシタリ顔にでもなった様子で言った。
『良かったではないか、ヨシタカよ』
くつくつと忍び笑いを漏らす先生に、違いますよ、と口では否定したものの、僕は心の内から沸き立つものを押さえきれていなかったかもしれない。なんだか運動した直後のものとはまた違う動悸を感じながら、気づけば部屋の中で一人ベッドの上で大の字になっていた。
もう、ここまでに至った時間経過のことなどまるで感じなかった。とにかく、一刻も早く明日になってほしいという気持ちばかりだ。僕はそんな逸るような気持ちで悶々としたまま、長い夜を過ごすことになった。




