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夏は過ぎ去りて風が吹く(七)


 その日、予備校も終えて一人、僕は駅のホームで長椅子に腰掛けていた。

 ピタリ――突然ひんやりとした感触に驚いて、イヤホンをして音楽を聞いていた僕は思わず小さく声を上げてしまった。自分でもこんなに早く動けるのかと思うくらいに素早く、椅子から立ち上がって後ろを振り向く。

「やっほ」

「瀬名川……?」

 自分でも情けないと思えるくらいに動揺した僕だったけれど、背後に立ってこちらを眺めていた瀬名川に唖然としながら、ひんやりとした感触が残る左の頬に手を当て、イヤホンを外した。

「はい。これ」

「えと……あ、りがと」

「いいよ、別に」

 そういって瀬名川は、持っていた缶コーヒーを僕に差し出しながら椅子に腰掛けた。僕は戸惑いがちに差し出された缶コーヒーを受け取って、立ち尽くしたまま瀬名川の行動を眺めていた。

「突っ立ってないで座んなよ?」

「あ、と……うん」

 おずおずと頷きながら、僕は瀬名川と約一人分の間を空けて、再び長椅子に腰掛けた。彼女は、持っていたもう一本の缶コーヒーのプルトップに指をかけた。小気味良い音を立てながら開いた呑口に、薄ピンクの唇をつけて一口コーヒーを飲み込む。わざわざ両手で缶を持って飲むその仕草に、僕の中の何かが刺激される気がした。

「……これ、やっぱり甘い」

「そうだね。甘口だから、これ」

 小さく頷いた僕は、瀬名川同様に缶を開けて一口飲んだ。コーヒーの香ばしく突き抜けるアロマに乗って、糖分の甘い匂いと味が口の中に広がった。

「竹之内って、普段からこんなに甘いの飲んでるの?」

「いや。いつも買うのは甘口じゃなくて、微糖って奴」

「そうなんだ。どれも似たようなのだから分かんなかった。前もホームで会った時、飲んでたやつと同じだと思ったんだけど」

「パッケージの色が違うだけだしね。仕方ないよ」

 いつも買うこの缶コーヒーは、同じシリーズで微糖と書かれたやつだ。このシリーズは甘口、微糖、ブラック、プレミアムを基本とする四種あり、そこに加えて期間限定でプレミアムな限定種が出ることもある。赤いラベルで有名な炭酸飲料のメーカーが出す自販機に売られてるので、僕は好んで飲んでいた。

「そっかぁ。ブラックは飲まないの?」

「んー、飲まないね。やっぱりミルクあった方が口当たりも良くて美味しいから。それと本当は、豆から挽いたほうがおいしいから缶コーヒーのはあまりこだわらない、かな?」

「お店には行ったりすんの? スタバとか」

「行くよ。週に一、二回。最近はあまり行ってないけど」

「ふーん。スタバ行くんだ」

 そう言って、瀬名川は甘いコーヒーに再び口をつけて、ぐいっと飲み込む。どうやら、彼女にはこの缶コーヒーはかなり甘いらしい。

「私もたまに行くよ、スタバ。高いからあんまり行かないけど。瑞奈のお兄ちゃんがあそこでアルバイトしてるみたいでさ」

「原田さん、お兄さんいるんだ」

「いるよ、一回しか会ったことないけどね。なんかスポーツマンって感じの人」

「へぇ」

 瀬名川はまたもぐっとコーヒーを飲んでいた。飲んで口を離すたびに渋い表情を作っているので、彼女にはよほど口に合わないらしい。最も、それは僕も同じなのだけれど、何だかその様子を見ていると申し訳なく思ってしまう。

 しかし確かにシリーズは同じだけれど、人が飲んでいたものの細かい所までは分かるはずもない。それを承知で、わざわざ以前飲んでいたものと同じシリーズの缶コーヒーを買ってきてくれたということだろうか。

(良く覚えてたな)

 何となくそう思った。正直なところ、僕はあまり人のあれやこれやを見ていないから、そんなところまで見て覚えていた瀬名川の記憶力には頭が下がる。

「だけど、良く覚えてたね。僕がこれと同じシリーズのコーヒー飲んでるの。瀬名川って普段から、結構周りの人のこと見てる?」

「別にそうでもないよ。そんなの普通じゃない? っていうかさ、なんかその言い方バカにしてない?」

「え、いや、そういうわけじゃ……」

 思わぬ指摘に、しどろもどろになった僕を瀬名川は薄い瞳でこちらを流し見る。彼女は目元がはっきりしているだけに、その表情は睨まれているようで怖い。焦った様子の僕を見て、瀬名川はじとっとした表情を途端に和らげて笑った。

「冗談だって。ビビり過ぎだよ、竹之内は」

 そんなこと言われたって、この子は自分が相手にどんな影響を与えるとか考えたことないのだろうか。彼女のその美貌で相手を睨みつけようものなら、簡単に相手を萎縮させてしまうことくらい分からないのか。……いや、それが分かっていれば、そもそも”あんな”グループにいるはずもないか。

「朝……」

「うん?」

 沈黙が降りそうになった時、不意に瀬名川が口を開いた。

「朝会った時、ちょっと酷くない?」

「えっと、それってコンビニで会った時のこと?」

「それ以外なにがあるの。折角挨拶したのに無視とか、すごく気分悪かったんだけど」

「あ、いや、あれは……」

 別に無視したくてしたわけじゃない。むしろ、大いに挨拶したかった。それどころか挨拶だけではなくて一緒に登校……したいとか思ったくらいだ。

 そう考えて、心の中で大きく首を振った。いや、何を考えているのだ僕は。そんなことしては、彼女がグループ内での立場が危うくなるからこそ、こっちは気を使ったのだ。それに気付けないのだろうか、この子は。

「さっきも言ったけど、竹之内はビビり過ぎなんだよ。もしかして、あたしのこと避けようとしてる?」

「いや、そういうわけじゃ……」

「だったら挨拶くらいしてよね。今度あんな無視したら怒るからね」

「い、いやだけど……」

「分かった?」

「ぁう、うん……」

 なんだろう。えらく突っかかってくるな……。確かに、こうして改めて言われると人としてどうかと思わなくもないけれど、あれはこの子のことを考えての行為なのだ。それをこんなにも責められるなんて、正直面白くなかった。

『ふふん。悠里は良く分かっとるではないか。さすがにわしもあれはどうかと思うたぞ、ヨシタカよ』

「ちょ、せ、先生は黙っててください」

「先生?」

 突然言葉を投げかけられて否定しようと叫んだ僕に、瀬名川は驚いたようにこっちを見つめた。それが恥ずかしくなって僕はただ頭を振るだけだった。

「まぁいいけど、とにかく! ちゃんと挨拶くらいはしてよ。竹之内はビビってるかもしれないけど、あんたのこと悪く思ってるような子、ほとんどいないから」

「い、いや、そんなことはない、と思うけど……そうなの?」

「よく知らない」

「知らないのか……」

 じゃあ、何を根拠に悪く思われてないと言ったのだろう。僕はクエスチョンマークを浮かべながら、コーヒーに口をつける。

「とにかく、竹之内は気にしすぎ。オタクならオタクで堂々としてればいいんだよ」

「は、はぁ」

 いや、オタクじゃないんだけどな。そりゃ、外見的にはそうかもしれないけど。しかし、その弁明をする前に、彼女は話題を変えた。

「それにしても今日は驚いた」

「何が?」

「体育の授業。バスケやってたでしょ、まさか竹之内があんなにできるなんて思わなかった」

「あー、うん。まぁ」

 また返答に困る会話だった。もちろん、瀬名川に悪意があって話題を振ってるわけじゃないだろう。けれどこの手の質問には、甚だ、どう答えるべきなのか困るのだ。なんせ、見た目は僕でも中身は僕ではないのだ。

「まさか、最後でスリーポイント決めるなんて思わなかったなぁ。その前も相手のパスカットしてたり……結構カッコ良かったよ、竹之内」

「え!?」

 僕は思わず大きな声で彼女に向き直った。

「ちょ、ちょっとあんまり大きな声出さないでよ」

「あ、ごめん」

 そりゃそうだろう。まさか、あの瀬名川の口から、僕を褒め称えるような言葉が出るなんて考えもしなかったわけだから仕方ないではないか。まさか、聞き間違いだなんてオチはないよな……否定的な考えに結論付こうとした時、先生は面白がって言った。

『ほう……良かったではないか、ヨシタカ。これでお主らの間も少しは縮まったのではないか』

 ああ、もう。この人は完全に他人事だと思って面白おかしく思って言っているに違いない。けれど満更でもないのも事実で、瀬名川に言われた途端、なんだか体の温度が急上昇しているような気がしてきた。

「竹之内? なんか、顔赤いけど大丈夫?」

「う、うん。ちょっと体がダルイ感じがするだけだから」

「もしかして風邪引いた? 無理する必要ないよ」

「いや、大丈夫だから。ほら、体育の授業にも出れたくらいだし」

 心配そうに見つめる瀬名川に、僕は取り繕ったように言った。顔が赤くなるくらいに体温が上昇しているなんて、なんだか恥ずかしくて堪らない。というか、今は構わないでほしい。しかも、それを瀬名川に心配されているというのが余計だった。

「……なら良いけど。ほんと、無理はしないようにしてよね」

「うん。ありがと、瀬名川」

「そ、そんなお礼言われるようなこと言ってないし……」

 そう言って、今度は瀬名川が押し黙る番だった。ついさっきまで責めるようなこと言っていたのに、なんだか気ぜわしい。けれど、同時にこの子はこんなにも表情豊かなのだな、と全く違う思いで僕は彼女の様子を見つめていた。

「そ、そういえば竹之内って今予備校通ってるんだよね?」

 瀬名川はそんな僕に見つめられているのを嫌がったのか、むくれたような表情で顔を上げながら言った。さすがに、僕にこうも見つめられては、いくら挨拶くらいはしろと言っていても嫌だろう。

「うん。まぁ一応ね。……っていうか、言ったことあったっけ?」

「こんな時間に制服で駅にいるってことはそうだと思っただけだよ」

「あー、なるほど」

 言われてみればそうだ。思えば夜も八時近いのだから、予備校通いをしてると思われても何の不思議はない。僕は小さく頷きながら返した。

「瀬名川も?」

「そ。私は別にいいよって言ったんだけど、お母さんが行っときなさいって言うからさ。お姉ちゃんもお母さんが言ってるんだから行け行け煩いし」

「はは、良くある話だよね。正直、俺も同じような感じ」

「俺?」

 何か良くないことを言っただろうか。僕は自分でも今のやり取りを思い起こしてはみたが、特におかしなところはなかった。すると、瀬名川はまた小さく笑って、膝に乗せた鞄に両手を置いて伸びをするように言った。

「竹之内が自分のこと、俺なんて言うとは思わなくって。少し意外」

「家とかじゃ言ってるんだけどね。でも学校とプライベートでは一人称が違ったりしない?」

「あー、そういうのある。不思議と、初めて会った人とかには敬語で喋っちゃったり」

 そうそう、などと僕も思わず返していた。いつの間にか、僕は瀬名川と普通の会話を繰り返していた。思えば、それが本来なのかもしれないけれど、こんなにも彼女と喋ったことはないので、なんだかとても新鮮な気分だった。

「それでさ……」

 瀬名川がそう続きを言おうとした時、けたたましくホームに鳴り響きだしたベルに会話が遮られた。ベルが鳴り終わる間もなくホームに電車入ってきた。いつもならすぐにやって来た電車に乗り込むところだけれど、今はなぜかそれがすごく疎んじられて仕方なかった。

 それは瀬名川も同じなのか、僕らは電車がやって来たというのにどちらからも動こうとしなかった。僕はどうすべきか、やってきた電車と瀬名川とを交互に見つめながら、結局その場を動こうとはしなかった。彼女も、やって来た電車をただ見つめるだけだった。

『発車します』というアナウンスと共に、電車はガタンゴトンと鈍い音を響かせながら動き始め、あっという間にホームを抜けていく。僕はそれをぼうっと眺めたまま、まだ余っている缶コーヒーに口をつけた。

「電車……」

「うん」

「……電車、乗らなくて良かったの?」

「……うん、まあ。どのみち今の普通電車だったし。乗り換えもあるし、後から来る快速でも同じようなもんだから」

 自分でも良く分からない言い訳をしていた。理解したのかしなかったのか、瀬名川は曖昧な返事をしたまま、去っていった電車の方から地面へと視線を落とし、余っていた残り僅かなコーヒーを一気に飲み干した。

 何か言いたいことがありげな表情だったのに、彼女は何も言おうとしない。それを分かってはいたけれど、どうもそれを口にするのは野暮であるように思えてならなかった僕も、沈黙を押し通した。

 僕も同じく、残っていたコーヒーを飲み干す。瀬名川と違って、まだ半分以上あったコーヒーを一気飲みしたせいか、呑口から口を離すと中からこみ上げてくるのを感じて、それを我慢した。

 つい、今の今まで会話があったのに、とんだきっかけで会話が途切れてしまった後には、一人でいたとき以上の静寂が二人を包み込んでいた。





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