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夏は過ぎ去りて風が吹く(二)


 午後八時――帰宅を急ぐサラリーマンやOLたちに紛れて善貴は一人、駅のホームの端に立ち、イヤホンで聴き慣れた音楽を聞きながら電車を待っていた。ホームの電光掲示板に、先発の列車がホームに入ってくることを告げているのを見て、ようやく帰れるという気持ちを強くした。

 音漏れ防止のために、ポケットに手を突っ込んで端末を操作して音量を少し下げる。新学期となり九月に入った今日、暦の上でも新たな季節になったこと告げはしていても、残った暑さがまだ実質的な夏であることを声高々に熱風をもたらしている。

(早く涼しくなってくれないかな)

 そんなことをぼんやりと考えながら、ホームに入ってきた列車に乗り込んだ。入ってきた時はほとんど人がいなかった車内に、どっと人がなだれ込み、あっという間に座席が埋まった。出入り口付近の角を、瞬く間に占拠する人たちで各四方が埋まる。

 新学期ということで学校こそ午前中で放課となったが、今日は予備校へ行った帰りのため、こんな時刻になっていた。いや、本来なら夏休みはもちろん、その前からもっと予備校に行くべきだったのだけど、例の事故があってからはそれも遠ざかっていたのである。昨晩、母親から予備校はどうしているのかと、見透かされたように告げられて、善貴は今日行くと言った手前、そうせざるを得なかったということもある。

 先生は予備校に行くことに対してやや否定的な立場だったが、流石に親の前で行くと言った以上はそれをサボるわけにも行かない。どうやら、先生は必要以上に勉強しすぎることに対して、行き過ぎなのでは?という気があるらしい。

 無論、本音としては先生の意見に大いに賛成なのだけれど、かといって受験生という立場上、それをおざなりにするわけにもいかず、眠気に瞼を擦りながら授業を終えたのが、つい一五分ほど前のことだ。

 滑り出した電車は、瞬く間に幾駅を通り過ぎ、乗り換え駅にまでやって来ていた。睡魔に襲われかけていた僕は、乗り過ごすまいとシートを飛び起きてホームに降りる。足早に別のホームへと移動すると、運悪く先発の電車がホームを抜けていくところだった。仕方なく次の列車の時刻を確認すると、一〇分後であることが時刻表に表示される。

 そこで一つため息。ついでにスマホを取り出して、今の気温がどれくらいかを見てみると、まだ三〇度を下回った程度だった。道理で暑いはずだと、僕は天を仰いだ。

「何ため息ついてんの」

「え?」

 肩を叩かれて思わず後ろを振り返ると、そこには悠里の姿があった。これまで似たようなことが幾度もあり、こうして声をかけられることはもちろん、思わぬ場所で会うのは何度めか分からない。善貴はつけていたイヤホンを外して、悠里に向き直った。

「瀬名川……。こんな時間に会うなんて珍しいね」

「そうだね、ちょっと勉強してたから。竹之内は?」

「僕は予備校の帰り」

「予備校かー……」

 そう言った切り、悠里は口をつぐんだ。お互い、弾むような会話をする間柄ではないことくらい、互いが理解している故の沈黙。

「竹之内は――」

「瀬名川は――」

 同時に口を開いて、そこで再び沈黙が降りる。お互いが気まずそうにはにかんだ。

「竹之内から言いなよ」

「いや、瀬名川からで」

 これも互いを牽制し合うかのようなやり取りに、どちらからともなく今度は笑いが漏れた。

「ぷっ……何やってんだろね」

「うん」

 善貴は何だかおかしな気分だった。何だか、初めて悠里と会話を交わして笑い合ったからかもしれい。今までは、何だかとっつきにくそうな印象の悠里に、今は特に物怖じするようなこともなく、自然と笑みが漏れたのだ。

「竹之内はどの大学行くのか決めてるの?」

「うーん、本当はもう決めとかなきゃいけないんだろうけど、実際には全くだよ」

「そっか。実は私も。一応お姉ちゃんからは幾つか提案されてるんだけどね」

「お姉さん……あ、そういえば」

 悠里の口から姉の話が出てきた時、善貴はふと思い出した。夏休みの初め頃、裕二や内海たちと勉強の約束で街に繰り出した時に、偶然出会った女性。それが何の因果なのか、悠里の姉を名乗る女性と出会ったことを告げると、悠里は小さく頷きながら続けた。

「お姉ちゃんから聞いた。あの日、家族と食事に行く予定だったんだよね。お姉ちゃんは仕事があったから、その日早くに出てたんだけど」

「そういうことだったんだ」

 うんうんと頷く善貴に、悠里もまた何かを思い出したのか俯いて、それ以上のことは言わなかった。善貴も善貴で、特にそれ以上追及することなく、そろそろ来るであろう電車を待つべくホームの方に向き直った。

 そうして訪れる再びの沈黙。そこへ今度は善貴の頭の中に響く、もう一人の声があった。

『ヨシタカよ』

「はい?」

「なに?」

「あっ、いや、ごめん。何でもないよ」

 あ、危ない……。ナチュラルに先生の声に反応してしまった。今は瀬名川や周囲にも人がいるのだから、もっと気をつけねば……。善貴は取り繕ったように言った。

「……なんていうかさ、竹之内ってたまに変な時あるよね」

「そ、そうかな?」

「うん。何ていうかたまに人が違って見える時ある」

 悠里に指摘されて、思わずギクリとなってしまう。もちろん、それは先生と意識が交代している時のことを指していっているのだろう。当然ながら、その時の状態は自分でも違うと感じていることだから、周囲の者であればなおのことそう感じるのも仕方ない話だ。

 裕二や内海なら、例の記憶の混乱が、と押し通すところだけれど、これまでほとんど接点のなかった悠里相手に、善貴はどう繕うべきか頭を抱えそうだった。

「ま、別にそれは良いんだけど」

「あ、うん。もう良いんだ……」

 特にそれ以上は興味もなさそうに話を終えようとした悠里に、善貴は思わず安堵のため息をもらした。なんというか心臓に悪い。

「最近、目立つよねって話」

「誰が?」

「だからぁ、竹之内が」

「ん? 僕が?」

 はて、そんなことをした覚えはないと考えてすぐにそれは否定された。瀬名川が言っているのは僕のことではなく、先生と交代している時のことを言っているのだ。確かに、それなら大いに変だと言われてもおかしくない。僕はどう返したものかと考えて、すぐに閃いた。

「う、うん。実はまぁ、最近家で運動してるからさ、ちょっと疲れてるんだ」

「え? 疲れてるからいきなり独り言とか言っちゃうってこと?」

「え!? あ、そっちか!」

 思わず声が出てししまう。いけない。一体どっちのことを指しているのか良く理解できずに、話を進めていたらしい。てっきり、普段の学校での態度のことを言っているのかと思えば、全く的外れだったのだ。

 いや、あながち彼と無関係というわけでもないのだけど、存在を公にできない以上は、それとこれとは区別しておく方が良いかもしれない。なんだか、外気温の暑さとは全く別物の暑さが善貴の体を熱くした。

「そ、そんな独り言いってる、かな……?」

「うん、たまに」

 すばっと言うなこの子は……。

「前に、ホームで待ってる時、一人で勝手に誰かと話してたでしょ。あの時の竹之内、すごくやばい人に見えた」

「う……あれは……」

 どうしよう……なんて返すべきか。瀬名川が言っているのは、買い物で街に繰り出した帰りに、偶然電車で乗り合わせた時のことだろう。確か、別れた後にホームへ降りていく時、突然先生に話しかけられて……。

 ありありと思い出すと、すごく恥ずかしい。事情を知れば少なくとも理解できないこともないのだけど、それを実証する手立てがない以上は周りからはそんな風に思われても仕方ない。けれど、改めて指摘されると恥ずかしさと、それとはまた違う別の緊張感がある。

「やっぱりさ……あれ、事故の影響……?」

「へ?」

「だから、たまに竹之内が変になっちゃうの、あの時の事故が影響してるの?」

 瀬名川は申し訳なさそうに、眉をへの字にこちらを上目遣いに見ていた。反面でそう聞くにはよほど勇気いったのか、心なしか頬や鼻の頭が明るんでいる。

(可愛い……)

 そんな瀬名川の表情と仕草に、善貴は思わずドキリとさせられる。そして、次の瞬間にはハッと我に返り、小さく頭を振る。いやいや、惑わされるな。これまで、彼女には何度も嫌な思いをさせられてきたではないか。下手に近づけば、またこっちがとんでもない目に遭わされかねない。善貴はそう自分に言い聞かせていた。

「竹之内?」

「え? ああ、ごめん。えと、なんだっけ?」

「ちょっと話聞いてなかったの? 竹之内が変になるのって事故の影響なの?」

「あ、ああそのことか。そのことね……」

 僕は果たしてどう答えたものか、再び考える。確かに事故の影響と言えばそうだけれど、かと言って瀬名川の言う変な状態になってしまうのは、あくまで僕が僕自身でいる時、もう一方の先生と頭の中で意識の会話をしているからだ。

 この状態はある種の不便さがあって、一方は頭の中で呼びかけることはできるのに、もう一方は体の機能を通じてしかやり取りができない。つまり、体を支配している意識が勝手に一人で妄想や脳内でつぶやこうが、それが相手に伝わるわけではない。

 もっとも、それだけ聞くと不便だと思われるかもしれないけれど、実際には結構楽だ。体を支配する意識の考え事が全てもう一方にも共有されようものなら、とんでもなく恥ずかしいことになる。例えば、もし瀬名川を使ってその裸体を想像しようものなら、それが向こうにも共有され、今何を考えたのかすぐにバレてしまうことになる。

 もちろん、これは自分自身のことだけの問題だから、他の誰にも知られるわけでもないけれど、頭で妄想する色々なものが別の誰かに知られるなど、もう世間に表を向けて出ることなどできない。少なくとも、僕には自殺ものである。

「えっと、なんて言うべきかな……。別に事故の影響ってわけでもない、んだけど……」

「じゃあ元から変ってこと?」

「い、いやそういうわけじゃないよ。っていうか、その言い方はちょっと」

 困った。本当にどう返すべきか僕は頭を悩ませていたところ、再び先生のありがたいお言葉があった。

『ヨシタカよ、事故のせいにしておけば良いではないか。その方がわしもやりやすい』

 渡りに船とはこのことだ。先生とは、こんな時にどう返すのかもっと話を詰めておくべきだったと後悔していたところ、向こうもそのようにしておく方が良いという判断で、僕はそれに乗ることにした。あれやこれやと考えるのも面倒だ。これなら何とかやり過ごせるだろう。

「やっぱり、あの事故のせいだったんだ……」

「瀬名川?」

「何でもない。それより、電車きたよ」

「あ、うん……」

 事故のせいだと言った途端、瀬名川は意気消沈してしまったようで、表情を曇らせた。これまでと明らかに様子がおかしくなったことに気付いた僕だけれど、おかげで今度は完全に会話がなくなってしまった。

 こんな表情をさせたかったわけじゃない。だけど、どう言い訳をすべきか考えあぐねていたおかげで、瀬名川を意気消沈させてしまったのがとてつもなく気分が悪かった。

 なんとか、さっきまでのような会話に繋げたい、そう思っても言葉が出てくるはずもなく、当然何かしら会話のきっかけになり得そうなものがあるわけでもなく、僕はため息を漏らした。

 こんな瀬名川に対してどう言葉をかければ良いのか分からず、善貴は一緒に乗った電車の中、瀬名川が地元の駅を降りるまで、気まずい雰囲気を過ごした。




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