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二人をつなぐ距離(二)


 一通りの稽古を終えた僕を待っていたのは、私服姿の瀬名川悠里だった。なぜ彼女が自分の家の前にいるのか理解できなかった善貴は、疑問符を浮かべながら少し恥ずかしそうにしている彼女を見つめていた。

「えっと……近くまで来たから、ついでに」

「ついでって……何かあったっけ?」

「だから、この前貸してくれたお金、返しにきたの」

「ああ、あの時の」

 善貴は貸したお金というのを思い出して頷いた。瀬名川の言っているのは、先週貸した電車賃のことだろう。

「こんなとこで話すのもなんだから上がってもらったら?」

 僕と瀬名川の微妙な空気を眺めていた母は、玄関のドアを開けて車から取り出した荷物を運んでいる。ついでと言わんばかりに、牛乳などの生鮮食品の入った袋を僕に手渡してきた。

「冷蔵庫の前まで運んどいて。それと、女の子の前なんだから汗くらい流してきなさい」

「あ……」

 指摘されてようやく思い出した。つい一〇分かそこら前まで全力で木刀を振っていたおかげで全身汗まみれだったのを思い出し、僕は挨拶もそこそこに玄関へと引っ込む前に、顔だけ瀬名川の方に向けていった。

「瀬名川、これからどうするの?」

「お金渡したら帰るつもりだけど、なんで?」

「分かった。ちょっと待ってて」

 そう言付けると、すぐ様渡された袋を冷蔵庫に横に置いて、着替えを手に風呂場へと直行した。さすがに、暑くなりはじめたこの時期にずっと外に放っておくのも気の毒だから、瀬名川には玄関で待ってもらった。二分で汗を流すと、僕は大急ぎで下着と服を着て再び瀬名川の待つ玄関へと急ぐ。

 玄関では、母と瀬名川が何か話していたのか、僕が現れるとすぐに母はリビングへと消えた。その様子を尻目に善貴は靴を履く。

「送る」

「え? いや良いよ、そこまでしなくたって」

「いいから」

 向こうはついでかも知れないけれど、それでは何となくだがこっちの気持ちが良くない。だから、何が何でもそうすると決めた僕は、玄関を出て自転車を引っ張り出してきた。

「僕もついでの用事があるから」

 なんだか言い訳がましく付け足した感が強いのは自分でも分かっていたが、こうでもしないと瀬名川は断ってきそうな気がした。まぁ、それでも結局、待っててといった自分の言葉通りに、律儀に待っていてくれた彼女に対してまんざらじゃない気分になっていたのは言う必要は無いだろう。


 梅雨の合間の、乾燥した晴れの日は透き通る風も心地よく、先ほどまでの汗したたる身には気持ちよかった。僕と瀬名川は、あまり会話らしい会話をすることなく駅の方へと向かって歩いていた。

 正直、何を話せば良いのか、それすら分からない。この前もそうだったのだけど、そもそも共通の話題を持たない二人が何を話せるかなど、初めから在って無いようなものなのだから。

「それでさ、これなんだけど」

 瀬名川は可愛らしくデコレーションされた財布を取り出して、中から先週貸した電車賃と同額を僕に手渡した。二九〇円なのだから、三〇〇円を渡してこちらが一〇円を返したほうがすっきりするのに、やけにきっちりとした金額を渡してきた。

「あ、ありがと……」

 僕のような、見下していた人間にお礼を言うのはよほど嫌なのか、そっぽを向いた瀬名川の声は消え入るように小さい。僕も僕で、はなっから期待していなかっただけに、本当に返してくれるとは思わなかった。素直に、良いよとだけ告げて二九〇円を受け取ると、それを安物の小銭入れにしまう。

「別に気にしなくても良かったのに」

「だって、竹之内が返せって言ったんじゃん」

「そうだっけ?」

 言われてみれば言ったような気はする。けれど、返してもらえる期待自体していなかったせいか、そもそも覚えていなかった。それにあの後、僕自身それどころではなかったし……。

「そういえばさ……」

「うん」

「ヨシキって言うんだね、下の名前。お母さんと喋ったとき、なんて呼ぶのか分からなくて上の名前で言っちゃったよ」

「ああ、ヨシタカ?」

 善貴と書いてヨシキと読むのだけれど、ヨシタカとも読めるので時々そう呼ばれることがあったむしろ、キではなくタカと読むほうが流れとしては良いのだが、とにかくヨシキなのだから仕方ない。

 なので、そこで言い迷った瀬名川を責める気など毛頭無い。そのことを告げると、彼女はくすっと小さく笑いながら言った。

「そっか。間違うとなんか恥ずかしいもん」

「ああ、分かる。なんか人の名前って間違うと微妙になるよね。相手は気にしないかもしれないけど、なんとなくさ」

「そうなんだよね。だから迷っちゃってさー。どうせならこれを気にヨシタカにしちゃえば?」

 含み笑いで、瀬名川は意地悪くそういった。僕も別に絶対こうじゃないといけない強い気持ちは無いけれど、なんとなく親が付けてくれた名前だから、わざわざ訂正するまでもないとは思いつつも何となく違うと、つい突っ込みを入れてしまう。

 悠里と二人そんなことを話していると、唐突に頭の中で響く。

『この娘の言うとおりぞ。前から思っておったが、うぬのヨシキという読み方は少しばかしおかしい。善をヨシと読むなら、貴はタカぞ。本来、うぬの名はヨシタカと呼ぶが正しいのだ。これからはヨシタカを名乗れ』

「いや、突然話しかけないで下さい。それにヨシキですから」

「え?」

 彼の雑言に惑わされて言ってしまった。その場に僕と二人しかいないと思っている(僕だってそう思ってはいるのだけれど)瀬名川は、当然自分に言われたものだと思って困惑している。それもいきなり固い口調で言われたら、なおのことだろう。

「あ、ご、ごめん。なんでもないよ」

 咄嗟に謝ったけれど、折角二言三言と続いた会話も途端に途絶えてしまった。自転車を引きながら、善貴は何か会話がないかと探し目を忙しなくて動かした。しかしここは閑静な住宅街の真ん中で、駅の近くまで行かなければ何か会話に繋げられそうな目ぼしいものはない。

(困ったな)

 この微妙な空気のままで、後約一〇分以上もある駅までの道のりを行くのは、自分にとってあまりに酷というものだ。お世辞に僕はそこまで話題豊富な人間ではないのだ。チラリと横目で瀬名川を一瞥すると、彼女も彼女で神妙な面持ちで黙って歩いている。

 多分、彼女も似たような気持ちなのだろう。そう思って、駅近くなって片側二車線の国道に突き当たる。この交差点を越えればすぐに駅だ。

「……前」

「え?」

「この前さ、あたしのこと助けてくれたよね?」

 何の話だろうかと頭をひねっていると、思い出されたのは二週間以上前に木刀など鍛錬用のものを一式買いにいった帰り、強引なナンパ男と一緒にいるところをたまたま通りかかった僕が男を投げ飛ばしてしまった時のことだ。

 いや、正確にはあれは”僕”であって僕ではないのだ。あの時瀬名川を助けたのは僕という体の中にいた、もう一人の、いや全く違う人物だ。そりゃあ確かに僕以外の人間が見たら僕が助けたとしか思えないのは理解できるけれど、それでもあれは僕ではないのだ。

「あ、いや、あれは……」

「あいつ、しつこくて困ってたんだよね。この前だって……」

「この前? あの男とは初めて会ったんじゃ?」

 やや素っ頓狂な声になってしまった善貴を気にすることなく、悠里はぶんぶんと首を振って見せた。

「あいつ、由美の、同じクラスの金森由美っているよね? あの子のバイト先の先輩の友達らしいんだけど、一ヶ月くらい前に会わせてって言われてちょっとだけ会ったんだよ。そしたらすごく強引に携帯番号とかラインとか聞いてきてさ……。由美は由美でバイトの先輩と一緒にどっか行っちゃうし」

 友達を放ってどこかへ行くなんて正直どうかと思うが、それがこの子達なりの遊び方なのだろうか。そういったことはまるで経験がないから瀬名川の愚痴も、そうなんだとしか言いようがなかった。

「でも、なんであの時あんなとこにいたの」……

「たまたまだよ。駅であの人と会っちゃって、しつこく付いてくるから適当に撒こうとしてたんだけど……」

 なるほど、どうやら撒き損ねてあんな場所にまで来てしまったというわけだ。相手からしてみれば、これ幸いにと強引に連れ込めるスポットだったということだろうか。そこをたまたま僕が……いや、”彼”が通りがかったところ、難を逃れたというわけだ。

「だから助かったよ、竹之内が来てくれて」

「うん……まぁ、たまたまだから」

 そう、本当にたまたまだったのだ。”たまたま”僕ではなく、たまたま僕の中にいた”彼”だったからこそ瀬名川は助かった。それは間違いない。

 第一、”彼”があの男を止めるまで、相手が瀬名川であることすら僕は分からなかった。”彼”も、”たまたま”助けたのが僕のクラスメイトだったというだけで、全ては偶然の産物に過ぎないのだ。

 もしあの時、仮に同じ状況に出くわしても僕ではこの子をあんな風に助けることなんてできなかった。あれは”彼”だったからこそ成しえた行動だ。そう思うと、いくらこの子が僕にお礼を言おうが、僕には肩身の狭い思いをするだけだった。

「竹之内?」

 元々会話があまり弾まない二人の仲に、さらに沈黙を作ってしまった僕に、瀬名川は綺麗な眉毛をややへの字に歪ませている。僕は小さくため息をついて、駅のロータリーを指差した。

「あそこ。電車賃は大丈夫だよね?」

「え? あ、うん」

 何となく気まずいことでも言ったかな。無難に言ったつもりだけれど、瀬名川の様子は何となく気の進まなさそうな表情だ。なんだか、さっき家を出た時は浮ついた気分だったのに、今では突然現実を突きつけられて気が重い。

「それじゃ」

「うん、”また”学校で」

 またって、僕と瀬名川は学校じゃ話したことないだろ。そんな言葉が喉から出かかってきたのを押さえ込むように息を呑んだ。名残り惜しむ様子もなく、彼女は駅の改札へ一直線に向かって行き、あっという間に改札の奥へと消えていく。

 もしかして最後の最後でこっちを振り向いたりしてくれるのでは……。目の前の現実に、馬鹿な想像をしてしまった自分が女々しくて仕方なかった。情けない――彼の口癖が不意に思い出されて、本当にその通りだな、と善貴は苦笑した。





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