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僕の中の奇妙な同居人(三)


『ごめん。なんでもない』――。

 その言葉と共に、俺の意識は突然遠くに飛ばされた。いいや、実際に遠くに飛ばされたわけではない。感覚的なことなので、美味く言葉の表現しようがない。だから、なんとなくそんな感じ、としか言いようがないのだ。

 目の前であんぐりと見つめる女子おなごを前に、突如として俺の意識が飛ばされてしまったかと思いきや、先ほどまでとは打って変わって、意識と自分の体とが分離されたような、そんな感覚だ。 

 これまで訳も分からずこの体に入っていた俺だったが、今度は訳も分からずに意識だけが体から分離されるなど、これはまた奇天烈なことだった。

(むしろ当たり前か?)

 本来の自分の体とは違う、竹之内善貴という小僧の体に自分がいるなど、それこそおかしな話ではないか。おまけに周囲は、全く見覚えのない世界でむしろ、よくもまぁ馴染んだものだと自分を褒めるところだろう。

 竹之内善貴の体と分離された俺の意識は、流れる川の上を漂う葉屑のようにふわふわと漂い、それでいて大地に根深く穿たれた大木の如くがっしりと磔られたような、不思議な感覚に囚われた。

 ただ分かったのは、今自分が視る世界は、竹之内善貴という人間を介して世界を覗いているということだった。

「え? 何? なんなんあいつ。セナ、あいつと知り合いだったっけ?」

「いや、別に知り合いってわけじゃない、けど」

 ”体”は俺の思惑と違って、勝手に鞄を取って足早に教室を出ていった。教室からは、そんな女子たちの会話が聞こえてくるも、それらを無視しているのか、逃げるように一目散に駅へと向かっていった。

 駅へと向かう間、あるいは電車に乗った後にも”体”の方は、幾度となくため息をつきながら帰路についていった。その途中、何度も一人ごちる”体”に、俺はなんだか鬱憤を募らせていた。

(何度もため息などつきおって)

 いい加減にしろと、頭の一つくらい小突いてやりたい気分だが、”体”は一向に言うことを聞かない。もっとも、”体”を小突いてやったところで意味がないことは十分承知していたが、だとしても、こんなに何度もため息をつく男の情けない姿を見続けなくてはいけないこちらの身にもなってもらいたいものだ。

 何度目か分からないため息をついたかと思えば、今度は思い出したように一人ごちる……。これらを繰り返すうちに、”体”は家のすぐ近くの辺りにまでやってきていた。そこでようやく”体”はしゃんとして、ずんずんと家の門をくぐっていった。

 帰宅した”体”に向かって母上殿が「ヨシキ」といって出迎える。やはりこの”体”の本当の主を指してそう呼んだであろうことが窺える。ヨシキは、帰宅の挨拶もそこそこに、玄関を上がってすぐに自室へと向かい制服を着替えた。

 

 そこからのヨシキの生活は、見るに耐えない自堕落な生活ぶりで、何が楽しいのか、ヨシキは”ぱそこん”とかいう箱を相手に、動く絵をじっと見つめながら何やら文字で会話をしているらしかった。

 その内容たるや、もはや暗号でしかなく、俺には到底理解の及ばないものばかりだった。その後もヨシキは、時折”すまほ”を片手に、またも動く絵を見ながら何やら操作している様子だった。

 字体こそ独特なものながら、『モンスタースタジアム』と書かれていることだけは何とか判断できたものの、それから先は”ぱそこん”と同様良く分からなかった。ただ、こちらの方は指し示す方向に絵が飛んで行き、敵を倒すといった具合の内容であるらしいことが、俺にも何となく理解できた。

 その二つをやり飽きたのか、鞄から”きょうかしょとのうと”を取り出して机に広げては、俺の理解には及ばない内容の勉学を勤しもうとしていたが、それも束の間、すぐに”すまほ”片手にまた”モンスタ”をやりだすの始末で、まるで集中力が感じられない。それは母上殿が食事の時間であることを告げるまでの間、留まることはなかった。

 食事も食事で、豪勢で美味い飯であるにも関わらず、ヨシキは感謝の念もなく美味いのかまずいのか、それすらもなく、もそもそと箸で飯を口に運ぶだけの動作を繰り返していた。その様子を淡々と見続けていなくてはならない俺は、いい加減堪忍袋の尾が切れそうになっていた。

 豪快にかっこむ姿は見ていても気持ちのいいものだが、このヨシキのようにただ惰性で食べるようなような奴に、食の何が分かろうか。俺の生きた戦乱の世では、たった一杯の白飯をかけて命すら賭けることすらあるというのに。

 結局このたわけは、そのまま食事を終えると自室に引きこもり、再び”ぱそこん”を相手にまた食事前と同じことの繰り返しだ。こんなたわけでは、刀傷を負ったわけでもないのに体のあちこちを傷めるのも道理だと踏んだ俺は、絶対に今夜体を痛めつけてやろうと心に決めた。

 このたわけは気付かなかったであろう、部屋の奥にしまってある木刀の方を見つめた俺は、不敵な笑みを浮かべて夜を待つことにした。




 僕の復帰登校一日目(断っておくと、昨日は僕にとって初日とは言い難い)、何事もなく登校してきたはずの僕に、何やらクラスメイトたちの見る目が、にわかに違って感じられた。

 なんだろうと振り向くと、すぐに目を逸らしてしまい、どうかしたのかと聞ける雰囲気ではなかった。もっとも、オタクグループの僕と、そうそう快く話してくれるような人間もあまり多くないのだけれど。

「おはよっす、よしき氏」

「祐二、おはよう」

「あ、今日は普通な感じ?」

 何それ。そう笑い飛ばそうとして思い出した。昨日、ここに来たのは僕ではない別の”僕”だ。自分でもうまく説明できないのだから、それを他の人に説明することなんてできない。僕は、ちょっと厨二ったと適当にお茶を濁して言った。

「あー、まさかよしき氏が厨二病になるなんて」

「うるさいよ」

 けたけたと笑う祐二に、なんだかホッとした自分がいた。本当に昨日はなんだったのか、あまりに突飛過ぎて自分でもにわかに信じ難いことだったのだ。

 それを適当に流してくれる友人に、心底安堵していたのだ。自ら真のオタクと呼んで憚らない祐二だけれど、そんな気の良い一面を持っているというのが、これほど救われると思えることはないだろう。

 僕は話もそこそこに、ちらりと廊下側の席に目をやった。

 その視線の先にいるのは瀬名川だ。彼女は、いつものように仲の良い金森由美や原田瑞奈と共に談笑していた。もちろん、その時も片時たりともスマホを離すことなく。

 その瀬名川は、少しウェーブのかかった明るい色の髪が頬に触れそうになるのが嫌なのか、不沙汰になったもう一方の手でそれを横に流している。その仕草を見つめながら、昨日はとんでもないことをしてしまったなと、少しばかし申し訳ない気持ちだった。

 謝るようなことではないけれど、それでも何となく不快な気持ちにさせたかもしれないことを心の中で詫びた。いくらあれは僕自身がやったことではないと言っても、外見そのものは僕なのだから。

 ほどなくして、朝のホームルームの時間を告げるチャイムと共に、担任が教室にやってくる。今日一日についての連絡事項を伝え終わると、あっという間に一限目の始業を知らせるチャイムが鳴った。


 そうこうして今日一日を無難に終えた僕だったが、時間が変わるごとにやってくる担当教諭からは、教室に入ってくるたびに何か畏怖するような、躊躇うような、あるいは遠慮がちの目で僕に向けられていたのは、記憶に混乱があるという理由を聞かされているだけでなく、昨日のことも聞いていたからに違いない。

 一緒に帰ろうと誘った祐二に断りを入れると、駅前のマクドナルドで待ち合わせということになり、それを了承した僕はすぐに職員室へと向かった。担任から、放課後に職員室に来るよう言われていたのだ。

 職員室を前にして、いざ入ろうとする時、妙に緊張してしまうのは僕だけだろうか……。唐突に呼び出されると、何かしたんではあるまいかと、疑ってかかってしまう自分の悪い癖が出てしまっていた。

「失礼します」

「おう、来たな」

 担任の村上先生、四〇歳独身。短く刈った髪を立てて、年齢を感じさせない引き締まった体が着ているワイシャツの下からでも、これでもかと強調されている。まさに、肉体を作ってますという感じだ。多分、愛読している雑誌はター○ンであるに違いない。

「ま、一応昨日もざっと説明はしたが、お前が入院してる間に中間が終わったからなー、今期は次の学期末で決まるからきちんと勉強しとけよってことだ。

 ……まぁ、お前のことは事故のこともあるから多少は考慮する部分はあるが、それでも受験生である以上、言い訳にできん部分もある。しっかりな」

 なんだ、これだけか。僕は適当に相槌を打って職員室を後にした。これぐらいのことだったらわざわざ職員室に呼び出さず、ホームルームの前後にでも教室で言ってくれれば良いのに……僕はそう思いながら、ようやく一日学校から解放されたことを喜んで、すぐに祐二の待つ駅前のマクドに行くことにした。

 その祐二の待つマクドへ向かう途中のことだった。ほんの数日のことだったけれど、”僕”の勝手のおかげで自由を奪われていた僕にとって、こんな何気ないことがこんなにも、何にも得難いほどの自由さを満喫できるのかという思いで校門を出た。

 思えば昨日は校門を出るのにも、あまりの狼狽ぶりに上履きのまま外に出たりなんてこともあって、下校中の生徒たちに笑われて、ようやく気づいたなんてこともあったっけ……。

 ともかく、今は当たり前だった自由というものを満喫する自分にとって、そんなことすらも些細な笑い話でしかない。

 そんな揚々な気分で校門を抜けた時、左手にかすかな違和感を覚えた。

(なんだろう……?)

 手が突っ張ったような感じだった。違和感を覚えた左手を軽く握っては開くを繰り返し、どこもおかしくないことを確かめる。今度は大きく肩を回してみても、やはりどうということはない。どちらかといえば、朝から続くだるさの方が上回っている節すらある。

 僕は気のせいだと結論付けて、駅方面に足を運んだ。今日は祐二からどんな話題が上がるのか。そんなことにすら素晴らしさを覚えるほど、僕は自由というものを満喫していた。





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